九十五層 : 忘れじの鐘.03
風が吹き抜け、木々の枝を揺らす。
深い緑の木の葉が一枚、ふわりと落ちた。
凌たちは悪魔たちの葬儀を、遠巻きに見ながら進んでいた。
足は止めず、都市中央にそびえる鐘楼へと向かって歩いている。
ユヴェはしばらく黙っていた。
けれど、歩きながら、言うべきか迷うように唇が動いた。
その声は、落ち葉のようにかすかだった。
「ねえ、さっきの話……“死んだ先に何があるか知りたい”って、あれ……本当はどんな願いを持ってるの?」
足を止めずに、凌は少しだけ息を吸う。
でもすぐには答えなかった。数秒の沈黙が落ちる。
そして──まるで独り言のように、ぽつりと呟いた。
「……キング・ハーウェンは、“死者を忘れるな。しかし、死に囚われるな”って言うだろ」
ユヴェは隣で、ゆるく頷く。
「……うん。そうだね。私たちはそう教わってる」
少しだけ、凌の視線が下がる。
視線は、まるで土の下に眠る誰かに向けられているようだった。
「……それって、つまりどうしたらいいんだ?」
変声したそれはガサツなのに、穏やかだった。
でもその裏には、死を背負って生きてきた者の、“どうしようもなさ”が、静かに沈んでいた。
ユヴェには凌の過去を推し量ることは出来なかった。
彼女の知る限り、凌は獏という種の最後の生き残り、と言うだけだった。
でも、彼が死について考え続ける理由になるには、十分すぎるということだけは分かっていた。
「……どうしたらいいんだろうね?」
ユヴェは困ったように眉を寄せ、小さく呟いた。
「でも、死んだ後のことって、誰にも分からないでしょ」
凌は何も言わない。
その沈黙に、ユヴェは視線を落としたまま、ぽつりぽつりと続けた。
「土葬にしろ、火葬にしろ、身体は残らないし……声はね、真っ先に忘れちゃうんだって」
「……」
「きっと、言葉ってそういうものなんだと思う。一番大事なはずなのに、一番最初に失くなる」
残るのは、もう誰にも確かめられない“存在していたという証”だけ。
「でも、そのひとが“いた”。もう見えないけど、たしかにいたことを、
魂が、場所が、物に残ったちょっとした傷が覚えてる」
ユヴェの声は、だんだん熱を帯びていた。
「鍵に記憶が宿るって、つまり──
時間や愛や誇りや名誉、もう見えなくなったものを、
残されたひとが、もう一度探しに行くことだと思うの」
そして、ふっと、柔らかく笑うように目を伏せた。
「瞳じゃなくて、肌で。温度で、重さで、光で。
そうやって、世界に“探す”の。
それが──“死とは何か”に向き合う、前向きな姿勢なんじゃないかなって、私は思ってるよ」
少しだけ空を見上げてから、ユヴェはぽつりと続けた。
「懐かしい場所に立つと、心がぎゅってするでしょ?
でも、その痛みはずっと続くわけじゃなくて──ふとした瞬間。
ほんの──少しだけ」
彼女の濃紺の髪が風に揺れる。
「キング・ハーウェンの“死者を忘れるな。しかし死に囚われるな”。
それって、たぶん……こういうことなんじゃないかな」
風に揺れる髪を押さえるように、彼女は視線だけを墓地へと戻す。
凌が隣で、静かに目を伏せた。
ほんのわずかに、涙腺が熱を帯びている気がした。
本当の願いは、”死を食べる責任から逃れたい”だった。
最後の獏として。あるいは自分の生存のために。
夢は、そいつの過去や記憶そのものだ。
その中でも、悪夢ばかりを選んで食べてきた。
悪夢は死者の記憶や、凍てつく恐怖、後悔、懺悔……ひどく、澱んで重たいものばかり。
食べた分だけ、死が自分の中に沈殿していく。
食えば誰かの苦しみを取り除ける。
でも、同時に忘れてしまう。
そして食った悪夢は凌の影に溜まり続けて、行き場を失い、淀み、凌自身の体を蝕む。
食べるのが悪夢だけじゃなければ、少しはマシなんだろうか。
でも、他人の幸せな夢を消してしまう方が、よっぽど嫌だった。
そうまでして生き延びるのは──
それは、自分が“怪物”になる気がした……いま、以上に。
この矛盾から──逃げ出したかった。
ただ──
亜月は、父親のことを自分は忘れても、俺が覚えてると言った。
妖怪たちは、忘れることも生きてるやつの特権だと言った。
そして今、ユヴェに言われた死に前向きに向き合う方法が、
少しずつ、腹の底に落ちていくような気がしていた。
「火葬って……あんまり見たことないな」
凌はあえて話題を変えた。
でもユヴェは何も追求しない。
「そっか。基本は悪魔社会にいるもんね」
ユヴェの声はやわらかかった。
そのくせ、言葉の奥には、何か確信のようなものが宿っている。
「死のキング・ハーウェンと、生のソル・ベリリウム。だいたいは、この二柱のどちらかの教えに則って葬送されるけど──正反対なんだよね」
彼女の言葉に、闇丸が久しぶりに口を挟んだ。
「たしか、葬送の大半はハーウェンの土葬が選ばれるんでしたよね?──身体は土に。魂は星層の輪を通って星に。”夜に抱かれる”ことで、ハーウェンによって記憶され続ける」
「そう。だから星空を見上げれば、そこでもう一度会えるって、みんなが思うんだよ」
ユヴェは微かに頷いた。
黄昏の神殿の鐘が、低く一度だけ鳴った。
それが“葬送の刻”を告げる合図。
「……ソル信者は、死ぬその瞬間まで“誇り”を燃やしていたいって願う。だから、天使たちは火葬なの。全部、骨すら残さず燃やし尽くす。“生きていた証”を、誇りという火に変えて、空に還すんだって」
「……」
「だから彼らは星ではなくて、炎に亡くした人の面影を見る」
小さく笑ったあとで、彼女は静かに続けた。
「死って、ただの終わりじゃないと思う。
遺された私たちにとっては、“そのひとがいない”っていう現実が、新しい道を選ぶきっかけになる。
……そう考えたほうが、少しだけ素敵でしょ?」
ユヴェは、そう言ってふわりと笑った。
闇丸は何も言わず、目を閉じて風を感じていた。
凌は彼女の横顔をちらりと見たあと、遠くで鳴る鐘の音に耳を澄ませた。
「……あの鐘は」
ぽつりと、凌が声を溢した。
ユヴェは神殿の鋭い屋根の下に取り付けられた、銀色の鐘を見上げる。
「……ツュシカの鐘だね」
風に揺れながら、鐘がまたひとつ、ゆっくりと低い音を響かせた。
その音は、空気を震わせながら、まるで誰かの記憶を撫でるように、遠くへと届いていく。
「音の神獣の……ここの鐘もそうなのか」
ゼノラの中央都市ノードにも、クロイツェルの鐘と一緒に、ツュシカの鐘が鳴り響く。
あれは、時刻を示すための音時計だったけど。
声に出して言葉を追いかけながらも、胸の奥には、はっきりしない感情が沈んでいた。
忘れたくない声が、いくつかあった気がする。
けれど、その音がどんな響きだったか、もう思い出せない。
「そう。音と、伝承が象徴」
ユヴェの声は、まるで風そのもののようにやさしかった。
語られる言葉のひとつひとつが、まるで鐘の音に呼応するように、凌の奥に染みこんでくる。
「……皮肉だな。音から先に忘れていくっていうのに」
自嘲気味の呟きだったが、その実、胸にこびりつくような切なさがあった。
「そうだね。でも、フォールドラークでは、ツュシカの伝承に則って、神獣信仰の多くを口承で繋いでるよ」
ユヴェの横顔を、凌はちらと見た。
その目には、どこか懐かしい光が宿っていて、まるで遠い誰かと対話しているようだった。
「……」
その沈黙もまた、語りかけるようで。
凌は言葉を挟まず、ただ耳を澄ませる。
「文字は、確かに正確に残るけど、そこに込めた“熱”までは伝えられない。でも声なら、ちゃんと“想い”も残すことができるでしょ」
その言葉はまるで──
置いてきてしまった誰かの声を、無意識に求めているかのように聞こえた。
ユヴェはゆっくり息を吐きながら。
「鐘の音も一緒だと思う。あの時聞いた音と同じものが鳴れば──それだけで、亡くなった誰かを、思い出せるから」
銀の鐘がまたひとつ、空間に溶けていった。
その音が、どこか凌の中の感情にも、そっと蓋をしていくような気がした。
土が被せられていく棺。
さらさらと、柔らかい土が木の蓋を打つ音。
乾いた響きが、次第に鈍くなっていくたびに──何かが、自分のなかでも遠のいていく。
凌は、目を伏せた。
誰かを失ったとき──
その痛みの深さと引き換えに、自分は何を遺せるのか。
その問いは、風に揺れた葉とともに、音もなく──土に還っていった。
*
葬送の儀式を見届けたあと、闇丸は再び姿を消していた。
ふたりは合図もなく、静かに歩き出す。
街の奥へと静かに続く、“悼みの街路”。
道の重なりに立てられる看板。
その通りの名は、ひとつひとつが「記憶」の断章で綴られていた。
そのうちの小径の一つを抜け、灯籠の光を辿るように進む。
たどり着いたのは、クレナインの中心に構える鎮魂の場。
──“黄昏の神殿”、通称オルフェン・ハウス。
長く続く石の階段を上ると、天井の高い荘厳な空間が広がっていた。
鈍い灰の壁面に、翳るような光のウフが等間隔に灯っていた。
その光はあくまで控えめに、闇を追い払うのではなく、共にそこに在るように照らしていた。
奥へと伸びる通路の両側には、祈りを捧げるための長椅子が並ぶ。
そこには多くの悪魔たちが座っていた。
声はない。
ただ時折、衣擦れの音や、椅子の軋みが、長い祈りの時を告げていた。
「……ここが、死者を送る神殿」
ユヴェが小さく呟いた。
凌は音もなくフードを脱いで、静かにその空気に礼を示す。
そこは、イデラにある教会のような神聖さと、悪魔社会特有の冷ややかな静けさが、奇妙に同居していた。
奥の壁に近づくと、そこには黒曜石のように艶やかな壁面に、一本の槍が、横向きに掲げられていた。
細身の柄に、鋭い穂先。
中央には、キング・ハーウェンを表わす意匠──狼と星々が彫り込まれている。
誰もが“悼む槍”と信じるその姿に、祈りを捧げる者たちが膝をついていた。
だが──




