九十四層 : 忘れじの鐘.02
シャーディンが静かに森を滑る。
風のウフと影のウフが絡み合うように稼働する音は、聞こえるはずもなく、ただ空気の流れだけが車体の外を切り裂いていった。
「……クレナインには、もう着く?」
ユヴェがふと呟くように言う。
凌は腕時計の震えを感じながら、短く答える。
「…あと十数分。ハーウェンの時間まで、あと四時間半。日が落ちたら、もう少し動きやすくなる」
「……思ったより、ゆっくり時間が進むんだね」
「シャーディンが早いだけだろ」
軽く肩をすくめた凌に、ユヴェは「そうかも」と微笑んだ。
シャーディンの前部で揺れる、アネモラの造花。
その柔らかな青紫の花弁が、音もなく微かに震えていた。
「……お祈りの道具…」
ユヴェがぽつりと呟いた。
凌がそんな彼女に視線を落とす。
「チェリルの言葉。“あのおもちゃは、いまじゃお祈りの道具”って言ってたでしょ」
「…ああ」
凌は座席に背を預け、仄暗い森の外をじっと見た。
木々の影がまるで呼吸するように揺れている。
「お祈りって、やっぱり秩序とか死者とか…神獣に対して、だよね?」
「……キング・ハーウェン、か」
ユヴェは頷く。
「クレナインは、悪魔社会でも特に信仰が強い都市ですよ。悼みと鎮魂の都市。…“死を尊ぶことが、生の証明”っていう考え方が根付いてる」
いつの間にかいた闇丸が答えた。
「裁判所に安置されそうって思ってたけど……やっぱり槍はクレナイン、って考えて、いいんだよね?」
「さあて、どこまでが本当なんでしょうね?」
ユヴェの声色は、そうあってほしいと言わんばかりだった。
「裁判所の建物は全部、蜘蛛が入れないよう細工されてて──窓枠に毒を塗るなんて芸が細かい。店長でさえ、情報はそうそう抜き取れない」
「……そうなんだ…」
「ま、それもってあっしが駆り出されてるわけですが」
闇丸は頭の後ろで手を組んで、億劫そうに寝そべった。
「……塔の情報は掴めなかったね…」
「そう全部がうまくいくもんじゃない」
凌の声は単調だが、どこか決意を含んでいた。
少し言葉を選ぶように沈黙した後、凌の紅い目がユヴェに向く。
「目的のものが手に入ったら、一度交渉に使うかもしれない」
視線は前を向いたまま。
その声音には、迷いも余白もなかった。
「それって──」
ガットの名前を出すわけにはいかなかった。
途中で止まった問いかける声。
凌は何も言わず、シャーディンの滑る先を見つめた。
森の影が窓を横切っていく。
「……交渉材料が、他にない」
短く返されたその言葉は、まるで断崖に立つような決意に思えた。
ユヴェはその背を見つめながら、ふっと目を閉じる。
思考の奥に、何かがじんわりと沈んでいった。
小さく呼吸を整え、彼女は目を開く。
「……うん。そうだね」
納得でも同意でもない。
けれどその一言には、確かな意志が込められていた。
シャーディンの屋根を打つ、かすかな落葉の音。
凌は、そっと鼻を鳴らした。
ほんのわずかだが、また腐れ森のときと同じ……あの甘い匂いが漂っていた。
腐れ森で感じたそれよりは遥かに淡い。
けれど、確かに空気の底に滲んでいる。
……悪夢の匂い。
鼻をつまむほどではない。
けれど、喉の奥が、かすかに乾いた。
どこか懐かしい──それでいて、じわりと胸を締めつける香りだった。
シャーディンは静かに減速を始めた。
森の合間から、石造りの尖塔が姿を現す。
ユヴェが息を呑む。
「……あれが、クレナインの鐘楼」
シャーディンの車体が大地に静かに止まると、扉が音もなく開いた。
そこに広がっていたのは、スロワとはまるで異なる静けさを湛えた都市だった。
ソリを降りる直前、凌がポケットからチャメっ声飴を取り出した。
なるべく舐め終えないようにしていた最初の飴は、そろそろなくなるところだった。
三人はそれぞれが一粒ずつ取り上げ、口に含む。
「……慣れないね」
声が変わる。ユヴェは高くか細い子供のような声になった。
「仕方ない。……これで欺けるならだけど」
「にしても、けったいな菓子ですよ、ほんと」
少し荒い響きを持った凌の声と、しゃがれ声の闇丸。
お互いに顔を顰めあって、街の中へと足を踏み入れた。
安寧の森、第五区都市──クレナイン。
灰色の石畳がきめ細やかに敷かれ、街路樹も整然と並ぶその街は、まるで“死者を迎えるためだけに”存在しているかのような厳かさを纏っていた。
昼間だというのに、悪魔たちの気配はほとんどなかった。
けれど、無人ではない。
まるで“全てが見られている”ような感覚だけが、空気の底に確かにあった。
どこかで鐘の音が、深く低く鳴った。
「……行こう」
凌が呟いた。
そうして、三人は死と対話する街へ、足を踏み入れた。
空は、どこまでも淡い灰に染まっていた。
外壁の向こうの森からやってくる深い霧が街を薄く包み、石畳をなぞるように流れてゆく。
昼のはずなのに、世界はすでに夜の支度を始めているような──そんな錯覚すら覚える。
綺麗に並ぶ石畳は、踏むと時折淡く光る。
道は広く芝生に至るまで完璧なまでに整備されていて、あちらこちらに輪を描いた墓石が並んでいた。
たまに、参拝者と思しき悪魔たちとすれ違う。
しかし皆一様に顔を伏せ、目を合わせず、口を開くこともない。
神獣ディアナ・ホロの沈黙。
言葉を持たず、哀悼をヴェールにのせる。
一律動に一度訪れる“悼み月”の、正しい過ごし方だった。
静寂の都市。
その名に相応しく、誰もが声を潜め、足音すら柔らかく落として歩いていた。
クレナインの都市の多くは、葬儀場や墓地、追悼堂など、静けさの中に身を置くものばかり。
通りに並ぶ灯籠には、魂の道しるべとされ、光のウフが灯っている。
その光はまるで炎でも電気でもなく、ただそこに“ある”とでも言うような儚い明かりだった。
ふと、ユヴェが灯籠の向こうに目を向けた。
都市の中央── 黄昏の神殿の前庭に、数人の弔い師たちが集まっていた。
円形の静かな庭。
石で縁取られた中央に、ぽつりと土が盛られている。
その中心に、銀色の長槍が立っていた。
ハーウェンの印章が刻まれたその槍は、土に還る者の魂を夜へ導く“道標”とされるものだった。
土を掘る音が、一定のリズムで耳に届く。
黒布を纏い、頭を垂れた悪魔たちの列。
その中央で、ひとつの棺が、静かに土へと下ろされていく。
その一連の所作に、儀式らしい大仰さはない。
だが、それは逆に、日常のように根付いた“祈りの所作”として、深い意味を孕んでいた。




