九十三層 : 忘れじの鐘.01
第一区ネスタの地下に広がる闇牢。
その一角にひっそりと併設されている──沈黙の研究室。
静寂の中、低い機械音がわずかに響いていた。
ガットは相変わらず、“椅子”と呼ぶにはあまりに異様な構造体に、身体の形を強制されるように収められている。
椅子の重力が背骨の湾曲まで逃がさず固定し、皮膚を潰さない範囲で圧をかけ続けていた。
全身の拘束具や両眼を塞ぐ布の存在も変わらない。
ただ、口部の拘束器具が追加されていた。
「軽口を叩くな」とつけられたもの。
でも実際は、その声に忍んだわずかな警戒を、ガットの耳は拾っていた。
“言葉”でさえ、殺しの道具にできると危惧しているらしい。
ガットは胸中、鼻で笑う。音も立てずに。
「心拍、変化なし。皮膚の温度、維持されています」
「血中のウフ適性値、平均を大きく逸脱……これは──」
「……繰り返しますが、時間停止中の感覚記録は取得できていません。ですがこの状態で、“意識の連続性”があるのなら──」
ノイズ混じりの医療器具の音と共に、数人の研究員の声が飛び交っている。
冷静で、理路整然としながらも、どこか熱を帯びたトーン。
“記録のための会話”ではなく、“記録される存在への熱狂”。
その温度差だけが、この部屋の狂気だった。
世界で唯一の時間のウフ適性者。
──そりゃ、最高のオモチャだよな。
奴らの狂気に比べたら、俺の逃走計画なんざ、健全なもんだ。
ガットは口を覆う拘束具の下で嘲笑した。
「口部の拘束を一時解除する。問答、始めます」
カチリ、と金属音。
顎を覆っていた拘束が外れた。
口元がわずかに緩み、空気の流れを感じる。
スニーカーで歩み寄ってくる研究員。
真正面から声が聞こえた。
「聞こえるか?短く返答しろ」
「……ああ」
声は枯れているはずなのに、驚くほど平坦だった。
「君は、“止まっていた時間”の中で、何を考えていた?」
少し間を置いて、ガットが答える。
「……その時間をどう使えば、逃げられるか」
嘘とも誠とも取れない、揺らぎのない声だった。
部屋の空気が、ほんの一瞬だけ、凍りついた。
それは、“この男ならやりかねない”という懸念からくる一抹の不安でもあった。
「…冗談か?」
「いや。合理的な話だ」
別の研究員が、手元の資料に何かを書き込む音がする。
部屋の奥、壁際。酒やけが静かに話す。
「……仮に本当に意識があったとして、それを証明する術は、今のところない」
「だが、本人がそう答えた事実は記録されるべきだ」
スニーカーの声を聞きながら、ガットは頭の中で数を刻む。
日没まで……あと、4時間46分。
耳に入るのは、足音。
ガラス器具のわずかな触れ合い。
重力椅子の裏で、誰かが調整している微かな気配。
“目が見えないぶん、情報の精度は上がる”
ガットは淡々と耳を澄ませ続けていた。
「眼球の反射光を計測します。遮光布、右側だけ、外します」
新しい声。女。ローヒール。化粧気はなく清潔。
ピン、と緊張感の張った高い声。
布がわずかにずれた。
外気の温度、光のウフの密度、何より、周囲の構造。
一瞬──
たった一秒の“視界”。
けれど、その一秒があれば、ガットの脳には十分だった。
反射した金属パネル。
モニターの配置。
研究員の人数と立ち位置。
照明の色、影の角度、機材の高さ──
“ここは地下三階。上に一階層。逃げ道は南側。監視カメラは二つ。左奥のパネルが主電源。”
……覚えた。
すぐに布が戻され、視界は再び闇へ。
「反応、計測完了。次、血液採取」
注射器が差し込まれる音。
腕にわずかな圧を感じる。
だが痛覚は曖昧だ。
三時間の流れとのズレの中で、感覚の同期がまだ、狂っている。
「針の刺さる深さに違和感。皮膚の再生、やや遅延。……これ、老化も停止してたのか?」
「まさか、ウフの流れ自体が……?」
興奮が、抑えきれずに洩れている。
だが、ガットの中ではすでに別の計算が始まっていた。
拘束の厚み。
椅子の圧力分布。
空調の方向と、耳の中に残ったわずかな音の反響。
ここはまだ“本当の檻”じゃねえ。
夜になれば、“囚人”にされて、完全な闇の中にさらなる拘束具と共に沈められる。
…最悪、すべてを吐き出させられたあと、魂の抜け殻になる可能性すらある。
どこまで悪魔の科学力があるかは知らねえが……
その前に、逃げる。
逃げなければ、間に合わない。
それだけは、確かだった。
布の下の視界を閉じた。
ただ神経を尖らせ、微かに聞こえる重力椅子の揺らぎに耳を傾ける。
次、特定するのは逃走用の武器だ。
研究員の服──鍵はどこだ。
あと、4時間43分。
──それは、“時を喰らう檻”に抗うために残された、最後の猶予だった。




