九十二層 : 狼と羊.06
立ち上がっていたのは──ユヴェだった。
彼女の立ち方には、凛とした静けさがあった。
仮面の奥にある表情は見えない。
けれど、その一歩には、たしかに強い意志が宿っていた。
「──私が狼だよ」
フロアの時間が、一瞬だけ止まった。
「さっきの願い、“信じた道が間違っていても、誇りだと言われたい”。それが、私の本当の願いだった」
「……う、うそ。まってまってまって!本当にあんただったの!?」
チェリルが叫ぶ。
「そういうのならもっと“狼っぽく”してくれなきゃダメじゃん!?」
ユヴェはふっと笑う。
それはどこか、悲しさが入り混じったような笑みだった。
「…でも私、本当のことしか話してない。誓約書、破れてないでしょ?」
「……うわぁぁ〜〜っ!!やられたーーーっ!!」
チェリルが机に突っ伏してジタバタと暴れ始めた。
彼女の深い緑の三つ編みがうるさいくらい揺れる。
周囲からはざわめきと、誰かの驚嘆の息が漏れた。
仮面の奥で揺れる眼差し。
まさか、この“静かな女”が狼だったとは──誰も予想できなかった。
「まさかあたしが外すなんて!?え、てかシュクトパイは?!あそこのパイなかなか買えないのに!!」
転げ回る彼女を助け起こす、チェリルの部下。
「残念だなァ」なんて呟きながら。
「くぅ〜〜〜っ!!悔しいけど、でも……楽しかった!!」
幕が降りた後の余韻のように、空間はしばらくざわついていた。
けれど、その真ん中にいたユヴェだけは、最初から最後まで変わらぬ静けさを纏っていた。
がばっと顔を上げ、チェリルは満面の笑みでユヴェに向き直る。
「いいよ、約束だし。あなたの願い──教えてちょうだい」
ユヴェが、静かに一歩前に出た。
手に持っていた誓約書。
それに書いた願い事をチェリルへ見せる。
その声にははっきりとした意志が宿っていた。
「……ハーウェンの悼む槍が、安寧の森に渡ったって聞きました。一目だけ、それを見せてもらえないかと思って」
賭博場の喧騒がすっと静まり返る。
チェリルはその言葉に、わずかに目を細めた。
「……ふうん」
一瞬だけ、彼女の笑みが翳る。
「──無理だね」
短く、あっさりと。
「……え?」
ユヴェが、戸惑いを滲ませる。
「だってもう、“あるべきところ”に収まっちゃったもん。あたしでも、もう触れないよ」
そう言って、チェリルはくるりと踵を返す。
三つ編みがゆるく揺れて、背中で笑うような空気だけを残して。
「また今度ね?“あたしのゲーム”に挑みたいなら、いつでも歓迎してあげる」
軽やかに手を振りながら、足取りだけは踊るように軽い。
だがその直後──
脇に控えていた薄金の髪の部下が、低い声でぼそりと呟いた。
「……お嬢、それじゃ誓約は“不成立”だァ。誓いには、“秩序”ってもんがある」
チェリルの足が、ぴたりと止まる。
「場所を全部伏せるのは、ただの逃げ口上だ。せめて、においぐらいは置いてってもらわねェとな」
くぐもったその声には、奇妙な抑揚と、底冷えするような重みがあった。
“見えていないはずのもの”を、正確に見抜いているような響き。
チェリルはしばし沈黙し、肩越しにふっと息を吐いた。
「……うっさいな、真面目か」
小さく口をとがらせると、観念したように小首をかしげて──
「じゃあ、ヒントだけ。その“おもちゃ”、今じゃ“お祈り”の道具だってさ。ほら、よく壁とかに飾ってあるでしょ?」
そう言って、ユヴェの手から誓約書を抜き取り、自ら破り捨てる。
一瞬息を呑んだが、ユヴェの体に異常はなく、心拍だけが上がっていた。
「チェリル様。誓約履行後はいつもの流れでよろしいでしょうか?」
「うん。いいよ〜ちゃんと守ったら破棄しちゃって〜」
「そのように」
罰を受けた者の嘆きと歓声が交錯する中、スタッフが補足事項を読み上げる。
「誓約書のペナルティを終えた方から順次、誓約書を破棄します」
そして、一度配った誓約書を回収し直したスタッフが、ひとりずつ、ユヴェ以外の四人に寄り添うように立った。
その間にも、チェリルは軽やかに踵を返す。
「じゃ、元気でねーっ! みんな“生きてる間”にまたね~!」
ひらひらと手を振りながら、チェリルは黒装束の従者たちに連れられ、雑踏の奥へと消えていった。
その背に、舞台の終幕のような余韻が残る。
ユヴェはその場に立ち尽くしたまま、唇を噛みしめる。
──お祈りの道具。
壁に掛けられた、祈りを捧げるためのもの。
でも、チェリルでさえ、触れられない場所……
それが、今の“悼む槍”の居場所。
だが、それが意味する本当の“場所”までは、まだ見えない。
そんな彼女の肩を、ぽんと軽く叩いたのは凌だった。
「……おつかれ、狼」
ユヴェが振り返り、仮面の下で小さく微笑む。
「……ありがとう、羊」
ふたりの短いやり取りが、静かな熱を残して地下の空気に溶けていった。
騒がしさは戻り始めていた。
でも、その中心にいた彼らだけは、まるで物語の外側に立っているような──そんな静けさを湛えていた。
「……ハウの“罰ゲーム”は?」
ゲームが終わり、どっと場の熱気が冷めたあとで、ユヴェがぽつりと尋ねる。
仮面を外していないまま、どこか腑に落ちないように首をかしげた。
凌は疲れたように肩をひとつすくめ、横のスタッフから封筒を受け取った。
その中から小さな紙片を取り出して読みあげる。
「……“菓子、買って来い”」
「お菓子……?……なんだろう、この落差。私、命だったのに……」
ひとりだけ重すぎるペナルティを背負っていたのを物語るように、彼女は肩を落とす。
すると、凌のそばのテーブルに、いつの間にか菓子袋が置かれていた。
「買ってきてありますよ、旦那」
「……え?」
ユヴェが声を漏らすと同時に、闇丸の声だけがどこかから聞こえた。
中には鮮やかな包装紙に包まれた、ゼノラ銘菓のキャンディや焼き菓子がきちんと詰まっている。
「時短ってやつさ。最初に、旦那の誓約書の中身、覗いておいたもんで」
「……」
「ここじゃ、ひとつひとつが命取りですからね。備えは抜かりなく」
ふふ、と微かな声だけで笑う闇丸。
そのしたたかさに、ユヴェは呆れたような、でもちょっと安心したような顔をした。
凌はそのまま菓子袋を側に立つスタッフへ手渡した。
スタッフは中身を確認後、小さな火鉢に凌の誓約書を開きもせずに放り込む。
灰が舞う。仮面の奥の名前は、ただの煙になって天井へと消えていった。
「……さっさと行こう」
彼の背に、ユヴェも一拍おいてその後を追った。
階段の途中、ふっと空気が揺れた。
後ろから闇丸がひょいと姿を現し、ぽつりと軽口を投げる。
「にしても、旦那。あんた、やっぱり自分を犠牲にしすぎですぜ」
その言葉に、ユヴェが足を止める。
目元はまだ仮面の奥に隠れていたが、声にわずかな驚きが滲んでいた。
「……え?」
闇丸は凌の後ろを歩きながら、片方の手をぶらりと振る。
「ほら、ゲームの話ですよ。旦那は羊だ。もしお嬢が狼だったら──一歩間違えれば、命が飛ぶ」
「……」
「“誰にも指をさされないように守る”って、そりゃもう、旦那が疑われるしかないってわけです」
ユヴェは、はっとして凌を見る。
だが彼は、振り返らない。
ただ、前を向いて静かに歩き続けていた。
「逆に、あんたが羊だったなら──旦那が狼を当てさえすれば、お嬢は当たんなくても無傷だし、旦那の願いが叶う」
「──」
「どっちに転んでもいいようにってなりゃ……最初からそのつもりだったんでしょ。ね、旦那?」
凌はやっぱり何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ肩が動いたように見えた。
ユヴェは言葉を失い、階段の途中でぽつんと立ち止まる。
空気がうっすらと染み込むように、彼の意図が胸の中に落ちてくる。
「……それって、すごいこと……言われてる気がするんだけど」
小さな声だった。
言葉が、胸の奥で引っかかる。
まだうまく感情に形がついてないのに、誰かが代わりに言葉を置いていったようで。
しかし、返事はない。
「……」
同じように立ち止まって、闇丸が肩をすくめて笑った。
「はは、お優しいだろ、旦那は。気をしっかりお持ちよノアのお嬢。旦那といたら、いくつ心があったって足りねえ女が多いんだ」
そう冗談めかして笑ったあと、闇丸は胸の内で溜息のように呟いた。
……ま、どいつが狼だろうが、旦那が羊である限り、同じことしたでしょうけどね。
誰かの死を目の前に、目をつぶるようなお方じゃない。
彼は小さく苦笑をこぼして、再び闇にまぎれる。
闇丸の言葉だけが、仮面の奥のユヴェの頬を、ゆるく赤らめた。
凌はやっぱり、何も言わなかった。
ただひとつ、小さなため息が聞こえた気がした。
「……やっぱり、あなたって花束を抱えて生きてるよね」
ぽつりと呟いたユヴェの言葉。
表へ出た凌は、静かに仮面を外して、どこかめんどくさそうにそっぽを向いた。
視線を合わせないまま、少しだけ首筋を掻く。
「言っただろ。そんな生き方してない」
ユヴェは何も言わなかった。
でも、心の中では小さく微笑んでいた。
──それ、嘘つきの羊の言葉でしょ。
漆黒を纏うから余計に、凌の肌の白さが目立って見えた。
その白に浮かぶ紅色の目が、まるで花弁のひとひらに見えて──
彼の服の裾を風がさらう。
眼鏡をかけたせいで、瞳の色は黒くなったけど。
──誰かへ向けた“慈悲”も、“愛”も。
誰にも見えないままでも、きっと大切に抱えてるんだ。
それでも、ちゃんと、私には見えた。
──不器用な彼のなかで、ずっと揺れてたもの。
それは、きっとアネモラの”愛”の花だった。
ユヴェには、そう思えた。




