九層 : 異層へ.01
「……11時には出るから」
翌朝目が覚めて、見慣れない天井を睨んでいた。
そしたら、襖の向こうから凌の淡々とした声がかけられた。
…なんで私、ここにいるんだろう。
てか、知らない場所で普通に寝てたんだけど私…大丈夫なの。
アラームにも起こされない土曜の朝。
スマホの時計を見れば、とっくに九時を過ぎている。
夜寝る前。シャワーを浴びて戻ったら、当然のようにスマホは返された。
「もう勢いで通報はしないだろ」──と。
いろいろ気になる点が多い。
けれど、翔や凌の様子を見る限り、急いで警察に駆け込まなきゃならない危険人物という感じはしなかった。
それに、地図アプリで見た限りじゃ、アパートからも遠くない。
その時点でさっさと家に帰っても良かった。
でも、何故かその選択肢が浮かばなかったのは、小さな不幸を味わう癖が抜けきらないからだろうな…
巻き込まれ体質をさりげなく楽しんでいる自分もいるのが否めない。
せめて、一度アパートに帰って着替えくらい持ってきたかったかも。
学生服に袖を通しながらそう思う反面、今から行く先のことを考えては心が弾むのも事実だった。
今から私は、鍵屋──つまり凌たちがゼノラと呼ぶ、異世界へ行くのだ。
「……お前も来んの?」
「もちろん!」
当たり前のように後ろをついてくる翔を振り返り、凌が問う。
即答する翔の後ろで、亜月は制服を隠すようにコートを羽織った。
校章を見られれば厄介なことになるかも……
そう思ったけれど、もう遅い。
凌は亜月の格好など特に気にしていない様子で、ガラリと玄関の引き戸を開けた。
改めて、今でてきた家を振り返る。
どこにでもありそうな、少し築年数の古い日本家屋だ。
門から玄関までの飛び石の脇に、見事な木蓮の木が植わっている。
特筆するのはそのくらいで、そのあまりの平凡さに亜月は眉をひそめた。
……ホントに今から異世界、行くんだよね?
どれほどの時間で、そのゼノラという層に着くのかは知らないが、こちらの世界は11月も暮れ。とても寒い。
翔も今日は白衣ではなくて、緑のダウンを着込んでいる。
その一方で、凌は昨日と同じ、白のポロシャツにジーンズといういでたちのままだ。
しかし、その上に、昨晩は着ていなかった、緋色と翡翠色で仕立てられた鮮やかな羽織を肩にかけている。
それはまるで、炎と水が重なり合ったような色合いだった。
「…いいけど、騒ぐなよ」
「わかってるよ!任せて!」
「…改めて言っておくけど、人間だって黙っておけよ。…ふたりとも」
「はーい!」
「行くのは鍵屋だけ。鍵つくったらさっさと帰るから」
引率者として最低限の注意だけすると、凌はぺたぺたと履き潰したスニーカーで歩き始める。
その後ろを足取り軽く翔が追い、最後に亜月が続いた。
前を行くふたりを観察すると、やはり凌の存在は日本という場所からは浮いて見える。
特に今日は羽織を肩にかけているせいもあるかもしれない。
彼の広くもない背中には、丸に三日月と霞の家紋が刺繍されている。
格式高くも見える羽織に対して、あまりにルーズな服装が、余計に彼の存在を浮世離れに思わせた。
けれど、道行く人は誰ひとり、彼に気づかない。
肩がぶつかりそうな距離でも、なぜかすれ違っていく。
まるで彼だけが、世界の死角を選んで歩いているみたいだった。
──そういえば、この人だけ、息が白くない。
自分の息も翔の息も、冬の風に白く流れるのに。
まるで、ひとりだけ別の空気の中を歩いているみたいだった。
亜月は不思議な感覚を覚えつつも、あえてそこに触れることができなかった。
代わりに、朝から気になっていた点について、ようやく口にする。
「…ねえ、ゼノラってどんな場所なの?」
ひょこひょこ歩く翔の隣に並ぶ。
ずり落ちるゴーグルを押し上げながら、翔はニコッと笑った。
「簡単に言うと、異世界の交易の中心地!色んな種族がいるし、なんでも売ってるし、観光客もいっぱいいるよ!」
「観光客…?異世界に?」
「うん!僕たちみたいなのは、普通そこにいるはずなんだよね」
「……凌…さんも、普段はそこに?」
つまり、人間じゃない人達はってこと、かな?
冷たい風を首筋に受けても気にせず、凌はさらりと答えた。
「……俺はほとんど行かない」
「なんで?」
「……行く必要がないから」
バッサリ。
この男は会話を続ける気がないのかもしれない。
振り返らない背中は「あと、呼び捨てでいい」とぶっきらぼうに付け足す。
…なんだか、距離の測り方が分からない。
野生動物を相手にしているような気分だった。
でも、やっぱり敵意や悪意があるようには思えなかった。
「…でも、私がそこに行くのって危なくないの?その、ほら、黙ってろって言ってくる人達がいるんでしょ?」
「大丈夫!うるさくして目立ったりしなければ!」
「…お前が言うと説得力がないな」
凌の冷静なつっこみに、翔は唇を尖らせる。
その様子を見て、亜月は肩透かしにあった気になった。
*
そのまま三人は十分ほど歩き、とあるビルに辿り着いた。
何処にでもありそうな、小ぢんまりとした商社ビルだった。
新築とは言えないが、比較的新しいのだろう。
壁はまだまだ白い。
ビルの脇を抜け、表通りから更に奥へ向かってどんどん進んでいく。
換気扇が並び、テナント用の共通ゴミ捨て場を超えたところで──
突然、先頭を行く凌が止まった。
「うちから一番近いポートドアがここ」
指さす先にはごく普通の勝手口。
試しに開けてみても、ビルの非常階段があるのみで、どこかへ繋がっているようには到底思えない。
「…ポートドア?」
「そう。星層扉と、鍵があって初めて星層を超えられる。どこのドアでもいいってわけじゃないから、ちゃんと覚えておけよ」
凌がポケットから取り出した鍵は、くすんだ金色の装飾鍵だった。
近づけられると、ドアノブの金属が溶けるようにゆっくりと軟化し、
まるで鍵の記憶を取り戻すように、ぴったりの鍵穴がそこに浮かび上がった。
──ガチャリ
仰々しい音がして、鍵がまわる。
当たり前のようにドアを開け、先に入るよう翔に促す凌。
扉の先は薄暗くてよく見えないが、どこかに続く一本道のようだ。
中へ踏み込んでいく翔に続き、凌も姿を消した。
亜月は、意を決して扉の向こうへ足を踏み入れた。
その瞬間、風景が揺らぎ、空気の密度が変わった気がした。
温度も少し違う。さっきまでいた日本の冬より、わずかに暖かい。
どこかで──焦げたラズベリーのような匂いがした。
扉の先は、まるで“液体の空”。
一歩踏み出すたびに、音という概念が遠ざかっていく。
水の底から見上げるような、ぼやけた視界。
だが、目が慣れるにつれて、少しずつ輪郭が戻ってくる。
三人が並んで歩くには少し狭い幅で、暗い、一本の道が扉から伸びていた。
十歩も歩かず、開けたところに出られそうだ。
けれど、少し怖くなって、後ずさりした拍子に閉まりかけていたドアを開けてしまう。
差し込んだ光に気が付いた凌が「早くしろ」と彼女を急かした。
「扉につながる先は一つじゃない。後ろが詰まるだろ」
「一つじゃないって?」
「星層扉は一枚につき、100以上の扉とつながってる」
なかなか歩を進めない亜月の手首を掴み、ぐいと引っ張る。
支えを失った扉が重みで勝手に閉まると、案の定すぐに次の誰かが入ってきた。
見た目は日本人とはかけ離れており、ちらりと見えた扉の向こうには、夕方の海が見えている。
亜月は、吸い込んだ息をうまく吐き出せないような気持ちになった。
──ここ、本当に人間の世界じゃないんだ。
今、この場では前を行く凌だけが頼りだ。
絶対にはぐれないようにと、ようやく足に力を入れて自分の意思できちんと歩き出す。
亜月の足に力が入ったのを感じ、凌の体温が低い手が彼女の手首を離した。
細い道を抜けると、予想通り、開けたロビーのようなところが見えた。
さきほどの道よりは明るそうだ。
天井にはなにか白いふわふわしたものが浮いており、それが光源だとわかった。
ロビーには、さながら空港のように何本もの列ができていた。
人垣の先には濃紺の制服を纏った管理者が何人か立っている。
人は多いのに、話し声がほとんどない。
音が吸い込まれていくような、異様な静寂が広がっていた。
壁や天井があるのかも分からない。
まるで、“夜そのもの”の中にいるような感覚だった。
けれど、遠くで誰かが歩く靴音だけが響いている。
列の先頭で、移動者たちが鍵を提示して石柱のゲートを通るのが遠巻きに見える。
鍵をかざすと、石肌が淡く光るが、それぞれ色が個体によって違うようだった。
そこを通った者だけが、異世界──ゼノラへ行ける仕組みらしい。
濃紺の制服の中に、ちらほらと、黒いスーツを着た監視官のような役割の者もいるようだった。
それらは一歩引いたところから、無言でゲートを監視している。
異物を探すような視線が突き刺さる。
凌は、一番すいている右側の列に向かって歩きながら、はっきりとした光源の下に出る直前、小さく言った。
「息を吸え」
「え?」
「目をつぶって、耳を塞げ。なるべく息もするな。俺の影の中は、悪夢だらけだから」
「え、待っ——」
返事の途中で、咄嗟に息を吸い込んだ。
その途端、肺の奥まで異質なものが入り込んでくる気がした。
湿り気があって、微かに甘く苦い香りが鼻の奥を掠める。
そしてまた、亜月の視界は反転した。
*
凌は、確実に影の中へ亜月を落としたあと、翔を連れて列に加わる。
黒スーツの目線は相変わらず彷徨いていたが、凌にとって死角に入るのは日常茶飯事だった。
「次の方」
呼ばれて前へ進む翔。
ぎこちないながらも自分の鍵を出し、ゲートを抜けていく。
通る瞬間、淡く黒色に石柱が光った。
「次の方」
凌は慣れた手つきで、自分の鍵を星層管理局員に手渡す。
局員は潔癖な白の手袋で丁寧に鍵を受け取ると、ゲートにそれをかざした。
鈍色に光る金の鍵と、同じ色に光るゲート。
「…ありがとうございます。通行を許可します」
どこか恭しい態度で凌へ鍵を返す局員。
その横を通って先へ進む。
少し前で待っていた翔が、そこはかとなくホッとしたような表情で見上げてきた。
「無事に通れたね」
「…亜月は無事じゃないだろうけどな」
「はやく出してあげなきゃ!」
ロビーを抜け、横に長い階段を降りる。
その途中でまた全ての死角に入った瞬間を狙って、凌は自分の影に腕を突っ込んだ。
流砂から引き上げるような、重さが腕全体にかかる。
ズルっと引っこ抜いたそれ──亜月は、そのまま階段の途中にへたりこんだ。
わずかに腕が震え、憔悴している顔を見て、翔が駆け寄る。
「だ、大丈夫?」
「…全然、大丈夫じゃない…二度と出られないかと思った……」
自分の肩を抱く亜月の様子を、静かに見下ろす凌。
特に声も掛けずにいたせいか、亜月がジロリと睨んできた。
…まだ、面と向かって悪態を着くほどの度胸はないみたいだな。
亜月が膝を笑わせつつ──
翔に支えられながらも立ち上がれるのを確認したら、凌はさっさと歩き出した。
鍵がない状態で異層を彷徨くのは得策じゃない。
凌はそう判断し、止めることなく足を動かした。
今の亜月には酷かもしれないが、今はなにより鍵屋に向かうことが優先だった。
「…もうゼノラ、着いたの?」
ふと、後ろから疲弊した亜月の声が聞こえた。
彼女はキョロキョロと周囲を見渡しているけれど、ここはあくまで、“層”と“層”をつなぐ通路にすぎない。
本当の異世界は、この先にある。
「──前を見ろ」
凌は静かに、包帯の手で前方を指さした。




