八十九層 : 狼と羊.03
全員が署名を終え、封筒はスタッフへ回収されていく。
それと同時に、参加者の前に小さな紙とペンが配られた。
「自分が狼か羊か、ちゃんとわかってる?」
チェリルの問いかけに、プレイヤー五人は静かに頷く。
「話し合いをしながら、“誰が狼か”を探してね。最後、狼だと思う“誰か”を指名してもらう。あたしもあたしで答えを出すから」
そう言って、チェリルはふわりと椅子に座り直す。
まるで、舞台の幕が下りるのを待つ観客のように。
凌は光を反射するテーブルを見つめながら、思考を巡らせた。
羊が狼を当てれば、“死”は狼だけ。
狼が逃げ切れば、羊に“罰ゲーム”が。
しかし、今回のゲームにはチェリルという第三の目が加わる。
狼が羊を騙しても、チェリルに当てられたら“死”が降りかかる。
──このゲーム、狼の勝ち筋はただひとつしかない。
“全員を欺ききること”だ。
その時、凌はポケットの中で人知れず鍵を握りしめた。
指先に触れる金属の冷たさは、誓約よりも確かだった。
自分のするべきことが何か──“すでに覚悟を決めている者”だけができる、静かな動きだった。
「投票式じゃないから、羊が狼を外したら個人的に“罰ゲーム”を受けてもらうね。そしたら羊同士、結託する意味ないし──ひとり勝ちも狙えるの、みんな好きでしょ?」
グラスを傾けて、ジュースを一口含む。
幼い眼差しの中に、“愉快”さが覗いている。
「もし狼を当てたのが羊ひとりだけなら……その時はもう一つ、お願いを聞いてあげる。逆に、羊が全員狼を当てたら、羊の完勝。狼だけ“死”よ」
「──狼は、指さされたらそれがひとりでも、終わりってことか?」
凌が静かに問いかける。
チェリルはちらりと彼を見下ろし、にっこり笑った。
「そうよ」
あまりに軽く、可愛らしい声だった。
「ちなみに、羊が全員狼を当てても、あたしが狼を当てたら羊も“罰ゲーム”受けてもらうわね〜」
「はあ?!」
思わず大声を上げた賭博狂いが、スタッフに睨まれて口を閉じる。
ユヴェが小さく呟いた。
「……ほんとに罰ゲームだね」
凌はちらりとその横顔を見て、何も言わなかった。
「もちろん、あたしも、狼を外したらちゃーんとペナルティを受けるよ!そうね……何にしよう?──決めてちょうだい!」
ふと彼女が側に立っていた部下へ目線を投げた。
薄金の髪の男が仮面の下で静かに答える。
「──今夜のデザート抜き」
「うっそ。嫌すぎ」
「今日は『カナリエ』のシュクトパイだぜェ」
「蜂蜜とレモンの美味しいやつだ!絶対当てる〜」
間の抜けた会話と、テーブルに落とされている緊張感の落差に、ユヴェはかすかに震えた。
チェリルはプレイヤーの記入用紙を見ずに、狼を指名するというルール。
つまり、彼女は自分の“勘と観察だけ”を頼りに推理することになる。
こういうところは、ちゃんとフェアなんだな。
ただ……
これは圧倒的に羊が勝ち逃げしやすい構造になっている。
嘘を見抜くんじゃなく、真実を語る一匹の狼を探す構図。
羊はいくらでも、嘘がつけるのだから。
そういう点では、チェリルが最も勝ちやすいように設計されているゲームだった。
凌はちらりと視線を巡らせる。
誰もが仮面をつけたまま、相手の真実を見破ろうと目を光らせていた。
“狼”は、ひとりだけ。
けれど──誰もが“それ以外”になりたくて、息を殺している。
誰が何を願い、どこまでが嘘で、どこからが本気か。
その境界線を読むことが、このゲームの本質だ。
凌は無言で札を見つめたまま、わずかに息を吐いた。
──さて。どこまで欺けるか、試してみるか。
「じゃあゲームを始めよっか。お題は“あなたの本当の願い”よ。──ひとりずつ、願いを聞かせて」
チェリルが指先でくるりとグラスを回す。
中のジュースがゆるやかに揺れ、その色が星形のランプに反射してきらめいた。
最初に声を上げたのは、酒の匂いを濃く纏った賭博狂の男だった。
仮面は赤銅のようにくすみ、右の頬に深く刻まれた傷跡が見える──本物か、装飾かすら分からない。
黒ずんだ指先には、賭け札の破片を挟んだままの癖が残っていた。
「……俺の願いはよ、“世界一の富を手に入れること”だ」
どこかで聞いたような、薄っぺらな台詞。
フロアの一角から笑いが漏れる。
けれど男は、それすら気づかないように、真剣そのものの姿勢で席に戻った。
椅子の背もたれが軋む。
その音が妙に生々しく、どこか場の緊張を削る。
次に口を開いたのは、重たそうな仮面をつけた女だった。
仮面は黒曜石のように艶めき、縁には金細工で涙の模様が彫られている。
紫のドレスは布の重みで引きずるほど長く、動くたびに花の香水がふわりと広がった。
指先には、鋭く磨かれたネイル。
その先端が、グラスの縁をなぞるたびに光を弾いた。
「アタシの願いは、そうねぇ──」
芝居がかった動きで深く一礼し、
まるで観客へ語るような口調で続ける。
「“ハンサムな悪魔に養ってもらうこと”かしら」
再び、笑い声。
だが、その笑いはどこか乾いていた。
誰もが、それを“嘘”だと信じて疑わない。
彼女の声も、身振りも、あまりに完璧に“演じられて”いたからだ。
仮面の内側にどんな表情があるのか、誰にも想像できない。
女に続いたのは、若い青年だった。
控えめな三つ揃いのスーツ。色味は地味だが、仕立ては明らかに一流。
時計の革ベルトも、足元の磨かれた靴も、貴族社会の育ちを物語っている。
その証拠に、彼の胸ポケットには色鮮やかな宝石花のブローチが付いていた。
けれど、そこに浮ついた感じはなく、どこまでも沈着だった。
仮面の奥の表情は読めない。
視線すら透けない黒い布に覆われているはずなのに──
彼が視線を上げた“気配”だけで、場がわずかにざわついた。
「僕の願いは──」
言葉は穏やかだった。けれど、それが返って不気味だった。
「“人生の中で一度は、死刑判決を下してみたい”です」
……誰も笑わなかった。
空気が、すっと冷える。
熱気に包まれていたフロアの片隅に、氷を落としたような感覚が走った。
その言葉に込められたのは、狂気ではなかった。
しかし、明確な理性があった。
だからこそ、誰もが咄嗟に距離を測れなかった。
背後の観客席──
金縁の仮面をつけた中年の男が、ゆっくりとグラスを回す手を止めた。
ゼノラの富裕層。
おそらくは、この青年の後ろ盾だ。
けれど、その“後ろ盾”ですら、青年の本当の“重さ”に気づいていないのかもしれない。
「ふふん、いいねえ。“多様性”ってやつ?」
チェリルがワイングラスを弄びながら、くすくすと笑う。
けれどその笑みの奥に、わずかな興味と──ほんの少しの警戒が滲んでいた。
その銀の瞳が、次に向けられたのは、黒いフードを目深に被った男──凌だった。
「さあ、次はあなた」
チェリルの声は柔らかい。
けれど、その一言で、まるで舞台の照明がひとつだけ、彼に当たったような圧がかかった。
仮面の下で、凌はわずかに目を伏せる。
光の届かないフードの影が、その表情をさらに遠ざけていた。
椅子がわずかに軋む音。
ゆっくりと足を組みなおすと、静かに息を吸い、吐く。
たったそれだけの動作が、不自然なほど静寂の中に染み込んでいく。
「……俺の願いは──」
一拍。
ほんのわずかな間に、いくつもの視線の圧が集まる。
「“死んだ先に、何があるのかを知りたい”」
言葉は低く、掠れるようでも、明瞭だった。
その瞬間、空気が変わった。
誰かが咳払いをした。
誰かが椅子を軋ませた。
けれど、誰も言葉は継がなかった。
仮面を通して見えない“顔”の奥で、観客たちがそれぞれに目を見開いていた。
欲望でも、野心でもない。
この街では、あまりに“純粋すぎる”願いだった。
「おやおや……なかなかダークな願い。そういうの、好きだよ?」
チェリルがくすりと笑う。
けれどその声も、ほんの少しだけ掠れていた。
“遊び”の中に混ざり込んできた“本気”。
その匂いに、場の空気が微かにざわめく。
凌は再び椅子に腰を下ろし、何も言わなかった。
ただ、仮面の奥で息を整える。
──この願いが“本当”か“嘘”か。
その問いが、ゲームの幕を少しだけ深くしていく。
最後に、呟くように口を開いたのは、スカーフを巻いた仮面の女──ユヴェ。
仮面の下から覗く瞳は、どこか光を帯びていた。
透明な虹色。
だが、透かし布で覆われたそれを、誰も見ることはなかった。
「……私の願いは──」
その声は、とても小さかった。
けれど、その場にいた誰にも、確かに届いた。
「“信じたものを守ろうとした気持ちが、いつか……ちゃんと誇りだって言ってもらえること”」
仮面の内側で、彼女の肩がほんの少しだけ上下した。
息を吸うのか、それとも吐くのか。わからないほど静かな動きだった。
一瞬、沈黙。
そして──誰も笑わなかった。
誰も囁きもしなかった。
まるで、“誇りとはなにか”という問いが、場の空気をかすかに照らしたかのようだった。
それが“真実”なのか、それとももっとも巧妙な嘘なのか、誰にも判断がつかなかった。
短絡的な富、愛のない庇護、身分不相応な権限、死の先への興味、そして──自己への肯定。
チェリルは、その曖昧さを愉しむように目を細めた。
「最高。思ったより──味わい深い願いが揃ってる」
チェリルは背もたれに体を預けながら、グラスの縁をくるくると指先で撫でた。




