八十八層 : 狼と羊.02
階段を降りきった瞬間、空気が変わった。
上階の静けさが嘘のように、そこは熱と音と欲望にまみれた“別世界”だった。
歪んだバイオリンの旋律が天井から滴るように響く。
酔いどれた笑い声が重なり、賭けチップのぶつかる乾いた音、煙草の焦げた匂いが肺に絡む。
そして何より、その空間は赤黒かった。
漆黒の壁と調度品に織り交ぜるように、深い赤がそこにはあった。
カーペットとソファ。カーテンや、賭博場のスタッフだろう悪魔の制服も。
そこに踏み入る観客が傾けるグラスのワインも──赤い。
そしてその赤黒い空間に存在を主張する、金。
部屋のあちこちのに、金色に輝く賽子があしらわれていた。
音だけではない。
すべてが騒がしく、すべてが濃すぎた。
「……こんなに……上にはほとんど居なかったのに」
ユヴェが小声で呟く。
仮面の奥で驚いているのが分かった。
昼間の街がゴーストタウンだったのは、ここにすべてが集まっていたからだ。
「それに、赤って……悪魔にとっての禁忌色、だよね?」
その通りだった。
赤は“血の色”。死を思わせるその色は、悪魔種にとって最も忌むべき色。
生来の瞳や髪の色さえ、裁判所では調整眼鏡をかけさせ消そうとするのに──
ここではその“思想”さえも、意味を為さないと言わんばかりだった。
「……そういう場所なんだろ」
凌はフードを目深に被り、淡々と応じた。
胸糞悪い……
ユヴェがふと、金の賽子へ目を向ける。
「──神獣トキノケの賽子」
「?」
「博打と、分岐点の象徴。間違ってない。間違ってないけど──」
続く言葉を飲み込んだユヴェの声は、かすかな怒りが滲んでいた。
禁忌の赤と、沈黙の黒。そして、欲望と運命の金。
凌は何も言わない。
それでも視線は忙しく周囲を掃いている。
光源をあえて絞っている天井。
演劇用の照明や、見た目を彩る星形のランプがわざとらしい角度で灯され、色とりどりの仮面に影を落としている。
誰もが顔を隠し、名前も明かさず、それでも“己の欲”だけはさらけ出していた。
ギャンブルの卓には、明らかに上級官僚と思しき服を着た者もいた。
仮面と服装でごまかしてはいるが、仕立てと態度が違いすぎる。
「……なるほどね」
凌が低く呟いた。
一見、ふざけた雰囲気の中で交わされている言葉は、地上では決して耳にできない内容ばかりだった。
官僚たちの裏金の話。
あるいは処刑予定者の買い取り。
時折聞こえる、意味深な“解放”や“取引”という単語。
すべては虚構の街の中でだけ、許された“現実”。
凌はその中を歩きながら、一つずつ耳を傾けていた。
煙草の香に混じって、バーカウンターの片隅から会話の切れ端が流れてくる。
「……聞いたか?裁判所が、ハーウェンの神器を手に入れたってよ」
そのうちの一つ。
妙に浮いて聞こえた台詞に、凌は仮面の下で目を細めた。
「今朝早くから、仕事のねえ奴らは第五区に向かってるらしいな。オルフェンハウスに運び込まれるのを、あわよくば生で見たいってさ」
「ほんとなのかよ。神器ってもんが存在すること自体、俺は信じらんねえ」
「さあな。でも──」
赤ワインで喉を潤して、男が続ける。
「ナジェムや裁定の塔でも、ごたつきがあったらしいぜ」
「……第二区と裁判所で?」
「詳しくは知らねえけどな。噂じゃ、かなりの数の死人が出たとか」
凌は足を止めることなく、すっとその会話を通り過ぎた。
仮面の下で交わされた噂話は、どれも確証には程遠い。
それでも、耳に残った単語は、どこか意図的に漂わせたような温度を帯びていた。
第五区。神器。死人。ごたつき──
何かが、動いている。
でも──
「……ダメだ。どれも表層すぎる」
静かに呟いた言葉に、ユヴェもわずかに眉を寄せた。
酒に溺れている者もいれば、ウフ由来の薬物にやられたような目をした者もいる。
言葉は上滑り、真実には届かない。
「誰かに上手く聞くしかないんじゃない……?」
ユヴェの声に、凌は小さく頷いた。
闇牢の構造──そして、悼む槍の在処。
何かしらの“穴”を突くには、情報が必要だった。
凌が賭け卓の一つに腰を下ろそうとしたとき──
場の空気が、変わった。
入り口の方から、軽やかで乾いた靴音が響く。
騒がしさがゆるやかに引いていく。
まるで舞台に“主役”が現れたような、妙な静寂。
ユヴェがそっと凌に視線を向けた。
その姿を見た途端、凌は肩をわずかに緊張させる。
仮面すらつけていないその少女の姿に、誰ひとり声をかけないのは、畏怖と好奇が入り混じっているからだった。
影の遊戯場に、さらにもうひとつの“ゲーム”が加わろうとしていた。
「あはは!今日もたくさん集まってるね~!」
艶やかな笑い声が、場の空気を裂いた。
歪んだ音楽と喧騒が一瞬で引き締まる。
深い緑の三つ編み。黒いワンピース。
そこに現れたのは、ひとりの少女だった。
まるで演劇の幕開けのように、中央の台座がせり上がる。
少女は“主演”の立ち振る舞いでそこに立ち、金の椅子に軽やかに腰かけた。
周囲にざわめきが走る。
「……お嬢様だ」
「……今日もやるのか?」
「ゲームか……?」
仮面の奥でざわめく声。
誰もが名前を口に出せないまま、ただ“その存在”にひれ伏しているようだった。
「……ハウの旦那。あれが、第七裁判官、チェリルだ」
闇丸が小さく耳打ちする。
凌は目だけで頷き、ユヴェのほうへ視線を送った。
彼女はすでに、階段の上の少女をまっすぐに見つめている。
第七裁判官──チェリル。
仮面をつけずにこの場に現れた唯一の存在。
最年少裁判官にして、第七区スロワの全てを握っている。
そして、この狂騒を“遊び”と称して支配する者だった。
「今日はね、“真実と嘘”を見破るゲームをするよ」
まだ幼さの残る指でジュースの入ったワイングラスを弄びながら、チェリルは愉快そうに微笑む。
「あたしに勝ったら、願いを叶えてあげる。もちろん、あたしが叶えられる範囲でね。でも負けたら…罰ゲーム、だよ?」
口調はあくまで軽やかだった。
けれど、その言葉には絶対の力が宿っていた。
「今日の参加者は──五名にしよっか。はい、やりたい人〜?」
一瞬の沈黙のあと、ざわめきが場を支配した。
ゲームに勝てば“裁判官の権利”で、叶えられる範囲の願いを叶えてもらえる。
それはこの影の遊戯場で定期的に開催される、チェリルの恒例の遊びだった。
多くの官僚や、ゼノラの富裕層、夢を掴みにきた賭博屋などが、その“ご褒美”を目当てに集まっている。
「ハウ…どうする?」
「……やるしかない」
ユヴェに短くそう告げて、凌が一歩前に出る。
「一枠」
凌の声が静かに落とされた。
うるさいはずのそこに、やけによく通る。
仮面越しでも、彼の視線は明確だった。
チェリルの銀の目が、愉しげに細められる。
続いて、ユヴェが一拍の戸惑いの後、ゆるく手を挙げて名乗りを上げた。
「……私も、参加したい」
「いいよ!」
チェリルがぱちぱちと手を叩く。
「じゃあ、あなたたち……と、そこのオネーサン、お金持ちの使用人さん。あとひとり……そうね──運がなさそうな、そこのオジサン!」
挙手する者の中から少女が気まぐれに指差すたび、観客の間から選ばれた者たちが前に出る。
舞台のすぐ下に、丸いテーブルがスタッフによって用意される。
そこに椅子が五脚並んだ。
「さあ、座って。まずはゲームの説明をしてあげる」
その声に促され、全員が席についた。
スタッフの悪魔が手を叩くと、円卓に落とされる照明以外は全て消える。
広い空間に浮き上がるテーブルに、チェリルの指先が軽やかに触れる。
その瞬間、そこに五つの封筒が置かれた。
「今日はね、人間たちの間でやってる“人狼ゲーム”っていうのを真似てみたの」
少女の高い声は、跳ねるように楽しげだった。
「ひとつのお題に対して、“嘘をつく羊”と“真実を語る狼”に別れて話し合いをしてもらう。誰が狼なのかを当てるゲームよ」
くるりとワイングラスを回しながら、チェリルは言葉を続ける。
「封筒の中の“誓約書”には、それぞれ違う“罰”が書いてある。いつもみたいに、“罰ゲーム”は軽めのやつ。でも、その中にたったひとつだけ、“命を賭ける誓約”がある」
──誓約書。
その単語に、凌とユヴェは仮面の下でわずかに眉を寄せた。
それが扱えるということは、チェリルが“死神”であることを指し示していた。
「死の封筒——それを引いた者だけが、“真実”を話す。他は“嘘”しか話しちゃだめよ」
そして、まるで主演女優のように微笑んで言った。
「さあ封筒を選んで」
五つの封筒を前に、プレイヤー同士が静かに目配せした。
それから、一枚、また一枚と手に取っていく。
「中身の“罰ゲーム”をちゃんと確認してね〜。その下にあたしに叶えてほしい“願い”と、あなたの署名を書くのよ」
ランプの明かりが揺れて、仮面の影が踊る。
「──あ、そうだ」
ふと芝居がかったようにチェリルが声をあげる。
プレイヤーも、観客も、皆が視線を彼女へ向けた。
「署名を偽っちゃだめよ。わかるんだから」
どきり。
ユヴェの胸が跳ねた気がした。
ペンを強く握り直して、紙面に滑らせる。
誰もが嘘をつく舞台の上で、たったひとりだけが“真実”を口にすることが許される。
そのルールが、この狂った賭場の中では、最も公平な“裁き”だった。




