八十七層 : 狼と羊.01
腕時計の振動と、11時を告げる音が鼓膜を直接揺らしてから、少し。
やがてシャーディンが緩やかに減速し、滑るように停止した。
音もなく、屋根が静かに開く。
冷たい空気が流れ込んできて、暗闇の揺籃から現実の空間へ引き戻される。
目の前に広がったのは、第七区スロワ——虚構と遊戯の街。
ダランの朽ちかけた城壁とは違い、ここは石の一つひとつが磨かれ、歪みなく積まれていた。
すぐそばで誰かが“使っている”気配がある。
呼吸をし、視線を持った都市。それが第一印象だった。
だが、不思議なことに、その城壁を越えた先の街には、生き物の気配がほとんどなかった。
「……静かだね」
ユヴェがぽつりと呟いた声が、森よりもよく響く。
それほど、この街の空気は澄んでいて、整っていて、…そして“空っぽ”だった。
建物は美しかった。
精緻な装飾がほどこされた劇場、バルコニーに布を垂らした館、香を炊く煙突すら芸術の一部のよう。
けれどここでも、通りに悪魔たちの姿はほとんど見えない。
あっても、仮面の奥に感情を隠したまま、音もなく通り過ぎていく影。
「ここは“夜”の街ですからね。“悼み月”の間はなおさら、昼に歩く者は少ない」
闇丸が肩をすくめる。
彼の声が、やたら大きく響いて聞こえた。
空を見上げると、他の都市とは違って、ちゃんと“空”があった。
ここでは、空が“開いている” ——それすら、この街が仕掛けた照明のように思えた。
光のウフの揺らぎではなく、本物の光が、街並みに落ちていた。
「夜になれば、街灯が一斉に灯るんですよ。まるで劇の始まりみたいにね」
「……虚構の街って感じ」
ユヴェが苦笑する。
それは風刺でも、皮肉でもなく、ただの事実だった。
この都市は、虚構を愛している。
本当のことなんて、誰も望んでいないのかもしれない。
「賭博場は、アカシャ・オペラハウスの裏手にあります」
闇丸が街の中心方向を指さす。
凌は静かに、前を歩き出した。
街の中心——幻想劇場。
その名前はゼノラ層に届くほど有名だった。
新聞にも取り沙汰されることがある、有名な歌手も多く抱えている。
漆黒の大理石に、無数の仮面のレリーフが刻まれていた。
笑い、泣き、怒り、愛す——けれど、どれも仮面だった。
誰のものでもない感情が、そこに貼りついている。
そびえるその建物は、まるで街そのものが“舞台”であることを証明するように静かに佇んでいた。
「……私、生で見るのは初めて」
「演者がいて、観客がいて、誰もが仮面をかぶってる。それがこの街の“秩序”ですからね。名前も、罪も、何もかも隠して踊る」
闇丸がそう言ったとき、風に乗って仄かに甘い香水の匂いが漂ってきた。
誰かの気配だけが、空気に沈んでいる。
そこには狂気も正気もない。
ただ、虚構の余韻だけが漂っていた。
「…ノア、行こう」
立ち止まって見上げるユヴェを凌が呼ぶ。
彼女は目線を最後までレリーフに向けながら、一歩踏み出した。
——幻想劇場の裏手。
華やかで高級な仮面舞踏会が開かれる建物の、その背後には、場違いなほどに無骨な階段が口を開けていた。
降り口の脇には、仮面を売る露店が一つだけ。
悪魔の女が、誰に語りかけるでもなく仮面を並べている。
仮面は、仮面でしかなかった。
誰の顔も偽らない。
ただ、“顔を無くす”ための道具。
凌とユヴェは黙って一つずつ選んだ。
ユヴェは銀地に繊細な金と紺の装飾が入った、蝶の羽のような仮面を手に取った。
つける前に、無意識にゴーグルへ手を伸ばす。
ぎし、と小さな音を立てて、ユヴェがそれを外す。
その瞬間、凌の視線がふと動いた。
彼女の目に、光が射す。
——ダイヤモンドみたいだ。
色がないのに、光を反射して、虹のようにきらめく。
それは透明な水晶を覗き込んだときのような、不思議な深さを持っていた。
「……」
凌は何も言わなかった。
ただほんの数秒、じっとその目を見つめただけだった。
ユヴェは視線に気づいた様子もなく、仮面をすっと顔にかける。
仮面をかけた瞬間、彼女の目が“消えた”。
全ての仮面の裏側には、ただの“目の穴”はなかった。
穴の内側には、黒い透かし布が貼られている。
その布越しに外の光景は見えるけれど、外から彼女の瞳を覗くことは、もうできない。
仮面の目は、ただ“こちら側”を閉ざすためにあった。
表情も視線も、全てが“無かったこと”にするための仕掛け。
凌も、漆黒の簡素な仮面を手に取り、静かに装着した。
ふたりは言葉も交わさず、階段の先へと足を踏み出す。
階段は深く、空気は冷たい。
仮面を通して見る景色は、どこか現実離れしていた。
ユヴェが足元に気を配りながら、ゆっくりと降りていく。
その背中を追って、凌も降りかけたところで、ふと——足を止めた。
「……」
背後に気配があった。
だが振り返ることはしない。
気配に向けて、そのまま言葉を落とす。
「……分かってると思うけど」
「ん?」
死角の中から現れた闇丸の声は、わざとらしくも、どこか穏やかだった。
「いざって時は、ノアを優先しろよ」
その声音に、迷いはなかった。
抑えられたようでいて、熱を孕んだ芯のある声だった。
闇丸はしばし沈黙し——
やがて、ゆるりと笑った。
「言われなくても、分かってますよ」
笑っていたけれど、その声にはどこか、哀しさが滲んでいた。
この旦那ときたら——
誰かを守るために、平気で自分を差し出しちまう。
そうやってしか生きられないやつらを、何人も見てきた。
“いざってとき”ってやつが来るたび、置いていかれるのは決まってる。
それでも、守る価値があるって言えるのなら——
闇丸は、ほんの一瞬だけ凌の背に目をやった。
「……ほんと、お優しい旦那だよ」
静かにそう呟くと、死角を保ったまま、階段の闇へと身を溶かしていった。




