八十六層 : 腐れ森.05
闇牢の奥、空気すら動かない空間に、微かな“脈”が届いた。
ペナルティの終息を告げる脈動の欠片が、耳の奥で微かに感じられた。
──終わった。
それと同時に、ガットの中では、既に正確な“カウント”が始まっていた。
──今、10時54分18秒。17、16、15…
視界は、ない。
目元に巻かれた布は分厚く、完全に光を遮っていた。
ガット・ビターは、動かない。
いや、動けない。
けれど、思考は研ぎ澄まされている。
眠気も痛みもない。まるで意識だけが生きているようだった。
腕、足、胸部、喉元には、それぞれ異なる構造の拘束具。
重力と地のウフを素材にした特製のものだろう。
そのどれもが、皮膚の呼吸や関節の遊びをほとんど許さない。
だが、耳は塞がれていなかった。
ガットはわずかに手首に力を入れてみる。
…体の拘束具のほとんどはついでだな。
保険のひとつとして付けてるにすぎねえ。
問題は、自分が今座っている椅子。
座る対象を”引きつける”特注椅子だ。
下ではなく、椅子の表面に均等に体が引っ張られる感覚。
皮膚に密着した重力椅子の圧は、全身を押し潰すようにまとわりついている。
身じろぎすらできない。
だがその重力の波には、わずかな“ゆらぎ”が混じっていた。
古い音だった。
金属のきしむような、わずかに震えるような、重力のウフが正しく循環していない気配。
構造が古い。重力の波が均一じゃない……
ウフの出力管理ができて、時間経過で再補充が必要なタイプか。
だったら。
──“波のブレを増やす”って手があるな。
脳裏で思考が動く。
もし意図的に重力反応値を増幅させておけば──
数時間後にはウフ切れを起こし始め、補充直前には更に揺れるはず。
制御が甘くなれば、ノイズの乱れは臨界点を超える。
その一瞬が、逃げ道になる。
……ここは、地下だな。音が響く。
指一本動かせない状態でも、ガットの頭の中には、既にこの“研究所”の構造が描かれ始めていた。
空気の流れ、紙や薬品の匂い、わずかな機械音──
……2時方向、3m強、観測モニター。反射素材。
彼は思い出す。自分が育った場所。
そこには、似たような音があった。音を感じ、記憶と重ねる。
それだけで、モニターの角度と位置が浮かび上がる。
全体的に、あの頃よりも古臭さを感じるのは、悪魔と天使の違いだろう。
科学に特化した人類。
その次を追うのが天使という種族だったから。
もし、奴らが俺の目を分析しようとするなら……
視界を奪っている漆黒の布。
それを外すその一瞬に、わずかな隙が生まれる。
モニターに映る“反射”さえあれば、そこから見えるものを“記憶する”ことができる。
……ま、十中八九、瞳孔確認はするよな。
口元がわずかに動いた。
それは、誰にも気づかれない静かな笑みだった。
と、背後から足音。
革靴。硬めの音。おそらく若い男。
一歩が浅く、かかとから着く癖──体型のわりに自信過剰。
声が落ちた。
「反応なし。……記録データ、時間のウフは不安定。精神波、通常レベル。……解除の兆候なし」
若手。声が軽い。鼻音が混じる。夜更かしの気配と、香水。
そのすぐあとに、重く軋む靴音。ゆったり、確実に床を踏みしめてくる。
足が少し外側に流れている。体重のある男。
「反応がないなら重力場、少し上げとけ。……念のため、な。逃げられたら笑えない」
喉の奥に引っかかったようなしゃがれ声。酒焼けだ。
間違いなく上層の現場主義。声の質でわかる。人の命を“数字”で測る癖がある。
──こいつがリーダーだな。
ガットは静かに確信を得た。
「逃げられますか…?この椅子から立てた奴、今まで居ませんよ」
「天使だからな。体の作りは全種族でも最も頑丈だ」
若手と酒やけ。
それぞれが会話する中、第三の靴音。
軽いな。履き潰したスニーカー。薬品の香りが強い。
「どうやったら逃げられるか……教えてくれよ。なあ、天使さんよ。もうペナルティは切れたはずだ」
スニーカーがぼそりと呟いたのが聞こえた瞬間、周囲がぴたりと止まった。
息を飲む音。皮膚が軋む気配。
全員がガットが言葉を発するのを待っていると、空気の緊張で伝わる。
ガットは微かに口元を歪めた。
「……不安なら、もっと圧上げとけよ」
沈黙。
そして、数秒後、若手がふっ、と笑った。
「……だそうです。さすが、天使。誇りのために死ぬ種族ですね」
笑う声の奥で、ガットはゆっくりと呼吸を整える。
耳が拾う波のずれ。声の質。
壁の向こう、機械が何秒でパルスを出しているか。誰がどこに立っているか。
何が必要で、何が無駄か。
すべてを、目を閉じたまま“読む”。
情報は、揃ってきた。
──あとは、タイミングだけだ。
動くなら、沈黙の時間の開始直前。
光が消え、すべての都市が眠る瞬間。
その時は、研究員すら離れる可能性がある。
けれど、同時に警戒も強まる。
恐らくまたソルが顔を出すまで、より厳重な拘束が追加されるはず。
──懐かしいな、この感覚は。
ずいぶん昔に捨ててきた……
呼吸を整える暇も、暗闇に目を慣らす暇さえ与えられなかった、遠い記憶が蘇る。
ガットは人知れず、口角に笑みを浮かべた。
──“沈黙”が訪れるまで、あと6時間と23分22秒。21、20、19……




