八十五層 : 腐れ森.04
朽ちた石畳の隙間から苔が滲み出し、森の中とはまた違う”深い沈黙”が、足音を飲み込んでいく。
闇丸の姿はいつの間にか見えなくなっていた。
でも、死角を踏んで、着いてきていることは確かだった。
「私は、ノアでいいよ」
そんな中、ユヴェらしくないハスキーな声が唐突に響いた。
凌がわずかに振り向くと、彼女は視線を前に向けたまま言葉を続ける。
「ノア・セメナ」
少しの間を置いて、ユヴェは続けた。
「恋の神獣の名」
ゴーグルの奥にある表情までは読み取れない。
けれど、その声は風よりも静かで、どこか微笑を含んでいた。
分厚い手袋がポケットから取り出した、ユヴェの鍵。
自分の鍵の意匠から偽名をとった、と言葉少なに伝わった。
たしかに、不用心に名前を呼び合うわけにもいかない。
凌は軽く頷いた。
「あなたは?」
「……」
凌は歩を止めず、代わりにポケットからひとつの鍵を取り出した。
金の鍵。その表面には、星と狼。
小さく揺れたそれを見て、ユヴェが足を止める。
「……あなたの鍵、キング・ハーウェンなの……?」
風が、木々の隙間をかすかに鳴らす。
凌は答えず、ただ少しだけ視線を逸らす。
……槍に相応しいとか言い出すかと思った。
けれど、ユヴェは深く追及せず、控えめな声で答える。
一歩だけ、彼に追いつく足音。
「なんだか、似合ってるよ」
「……は?」
「だって、ハーウェンは誰より慈悲深い神獣だもの」
何も返せなかった。
慈悲深いだなんて、自分で頷くような評価でもない。
「それに、狼っていうのも、よく似合ってる」
「……一匹だから?」
呟いた声は静かだった。
でも、ユヴェは「違うよ」と柔らかく否定する。
「狼って、群れで行動する優しさも、一匹で行動する勇気も持ってるんだよ」
──そんなのこじつけだ。
そう思ったけれど、胸の中心がかすかに暖かくなったのも、事実だった。
少し悔しい思いをしながら、凌は何も言わず、短く息を吐いた。
その声が届いたのか、ユヴェがふっと笑う。
「で、あなたは?名前」
「……“ハウ”でいい」
「ハウ?」
「“吠える”って音。…まあ、向いてるだろ」
「……ふふ。吠えてる感じはしないけど」
小道の先、要塞の入り口がかすかに軋む音を立てた。
それは風のせいか、それとも、どこかの枝が微かに揺れたのか。
ユヴェは一度だけ背後を振り返る。
そこには、何もいない。
──はずだった。
きっと、小さな目が見張って…いや、耳をそばだてている。
今、この瞬間も。
やがて、石畳が崩れかけた要塞の入り口が見えてきた。
そこには、無言のまま門の前に立つ黒衣の悪魔。
その動き一つない姿は、まるで石像のようだった。
「ふたり」
凌が言葉を投げる。
「片道100ノワ」
それだけを返すと、悪魔は背後の扉を静かに開けた。
現れたのは、漆黒の影の中から滑るように進み出るソリ型の乗り物だった。
音は一切しない。細く鋭い金属の脚が、地面を掠めるように接地している。
シャーディン──影の滑走車。
前部には、ひときわ目を引く“造花”が一輪挿されていた。
淡い青紫。
布で作られた花弁が、静かに風もない空気の中に揺れている。
凌が視線を戻すと、乗り込もうとした車両の後部に、すでに誰かが乗っていた。
「……え」
「乗り心地はいいですねえ。全く揺れなくて」
背後からひょいと顔を出した闇丸が、気の抜けたような口調で言った。
「え!?どこにいたの!?」
ユヴェが思わず身を引くと、闇丸はにやにやしながら目を細めた。
「ずっといやしたよ。言ったでしょ、死角にいるって」
「……よ、…そういうの得意なの?」
「性分ですよ。生き方みたいなもんでさ」
妖怪と言いかけて、ユヴェが言葉を飲み込む。
闇丸は肩をすくめて笑った。
シャーディンの屋根が閉じられ、乗員を静かに包み込んだ。
金属の身体が一度だけ低く鳴動し、次の瞬間、森の管理道を滑るように走り出す。
音もなく、ただ影だけが流れる。
御者はいない。
管理道に埋め込まれたウフのエネルギーを、なぞるように走っている。
無駄のない動き…
ユヴェはかすかに光る二本の線を見ながら、そう思った。
ただ静かに、目的の都市へシャーディンは進んでいく。
風もないのに、背後へと空気が裂けていった。
車輪もなく、衝撃もないその移動は、まるで“時ごと移動している”ような錯覚を与えた。
静寂の中、凌がふと目を細める。
「──あの花」
車両の前方に挿された造花が、ちらちらと視界を揺らす。
ユヴェはすぐに視線を辿り、少しだけ顔を上げた。
「前見たそりにはついてなかったな」
ふとした疑問に、ユヴェは小さく頷く。
たぶん、亜月を奪還した時に見たシャーディンのことだ。
「ゼノラでは、イェオロフを怖がる必要がないからだと思うよ」
「……」
「このシャーディンの屋根が異様に頑丈に作られてるのも、樹冠の上を泳ぐ巨大な神獣…イェオロフに見つかっても、潰されないようにってことらしいし」
「へえ…」
何気なく、そりの屋根を見上げる凌。
たしかにこの森は鬱蒼としていて、生き物の気配が多く潜んでいるのは分かる。
でも、森の中にそんな巨大な魚が泳ぐのを、うまく想像できなかった。
そのくせ、不思議と否定する気にもなれなかった。
「影のざわめきが聞こえたら、それはイェオロフが近い合図。だから悪魔たちは、なるべく声を出さない。“沈黙は命を繋ぐもの”って、ディアナ・ホロの文化的にも深く染みついてる」
「……」
凌は黙って耳を傾けていたが、その表情はどこか穏やかだった。
どこか、遠い記憶を辿るように。
「……で、あの花は?」
「“愛”の神獣アネモラの花だね。愛は誰にも見えないけれど、確かに感じられる。風を象徴にする神獣なの。花は、風に揺られるから愛の視認としてよく使われるんだ」
静かに揺れる青紫の造花を、ユヴェは見つめる。
「──“恐怖に向かうには、愛がいる”って考え方なんだと思う」
ユヴェの声には、信仰者というより、“知っている者”の静かな敬意が滲んでいた。
そしてどこか、神獣に対して恋するような語り口調だと思った。
「……いいね」
ぽつりと、凌が呟いた。
「……希望がある」
「…うん。私も、好きだよ。怖いものを否定しないで、でもちゃんとそれと一緒に生きようとする、そういうところが」
隣で、闇丸がぼんやりと窓の外を見ていた。
表情は変わらない。
闇丸は神獣を信じていなかった。
けれど、それを語る者を否定するほど、彼は若くなかった。
「……さ、次の分岐を抜ければ、スロワはすぐ先ですよ」
闇丸が軽く肩を伸ばしながら言った。
緊張が少しずつ戻ってくる。
シャーディンは、依然として静かだった。
けれど、周囲の木々の影が、わずかにざわついていた。
凌はそっと喉を鳴らした。
シャーディンの中では悪夢の甘い匂いも薄れている。
空腹を意識しないふりをして、ただ青紫の花を見つめた。
風もないのに、花弁だけが静かに揺れていた。
まるで、誰かがそこに触れていたかのように。




