八十四層 : 腐れ森.03
“安寧の森” ──第六区ダラン。
扉の向こうに踏み出した瞬間、足元がわずかに沈んだ。
ふかりとした感触──
それは柔らかな絨毯のようでもあり、何かが朽ちて土に還っていく過程を踏みしめるようでもあった。
腐れ森。
第六区ダランの中でも、最も立ち入りが難しいとされる一角。
太陽はここに届かない。
けれど、光がないわけではなかった。
周囲の木々の根元や、倒れた丸太の表面から、点々と光のウフに満ちた菌類や苔が、淡く発光している。
緑というより、どこか灰色に近い。
生きているのか死んでいるのか、判別がつかないような光だった。
凌はふと、湿った空気を吸い込んだ。
その瞬間、喉の奥が、音もなく震えた。
──甘い。
尋常じゃないほど、甘い匂いだった。
普通の人間なら、気づきもしない。
けれど獏である凌には、わかる。
この腐れ森には、悪夢が染み込んでいる。
生きてなお死を拒んだ悪魔たちの、果てしない恐怖と執着。
それが澱のように積もり、腐った土から、枯れた枝から、菌糸を吹き上げる地面から──
夜霧のように滲み出していた。
それこそが、“悪魔の病”の元だった。
かつて、夢の中を渡り歩いた悪魔の固有能力。
その損失と引き換えに得た記憶力によって、悪魔種がみる“夢”は、他種族にはない“濃度”を持っていた。
長い寿命の中で見続ける悪夢。
自らが歩んできた過去の過ちや、罪悪感、恐怖、忘れたい記憶。
それらは魂にこびりつき、“重さ”になる。
そして埋葬された地の中からか、あるいは、昼のない森の中で生きる悪魔たち自身からか。
空へと還れないほど質量を得たそれらが、滲み出ている。
そしてまた──別の悪魔の病になる。
悪夢は“伝染する”。
この森は、まさにその蔓延の抗えなさを、匂いで訴えかけていた。
普段口にする生き物の夢とは、比べ物にならない。
熟成され、凝縮され、腐りかけた飴のように、ねっとりと甘ったるい。
喉が鳴った。
胃が、空腹にひくりと攣った。
食いたい。
食べたくて仕方がない。
そんなふうに感じる自分に、瞬間、ぞっとした。
でも。
——こんなもん、食ったら、死ぬ。
直感でわかる。
こんな濃度の悪夢を一口でも食べたら、消化もできず、体の芯から壊れていく。
悪夢が血を汚し、骨を蝕み、影を腐らせる。
ポケットの中の指が、かすかに震えた。
耐えろ。ここは、俺にとって──墓場と同じだ。
凌は、乱れそうになる呼吸を無理やり押さえ込んだ。
できるだけ深く、空気を吸わないように。
その一呼吸には、にじむような疲労があった。
けれど、それでも、目の前の森を、凌は真正面から見ていた。
凌はチャメっ声飴の瓶から、赤い粒を一つ取り出し、そっと口に放る。
途端に、ピリピリと痺れるような感覚が舌に走り、喉奥で何かが切り替わる感触がした。
でも、甘い悪夢の匂いが、少しだけ薄れた気がした。
そして何かの味がしたようだが──獏の舌では、分からなかった。
ユヴェも、黄色い飴を慎重に口に含む。
柑橘にも似た香りと甘さのあと、聞こえた彼女の声は──
「……光ってる」
ハスキーで掠れた、聞きなれない声だった。
それは確かに彼女の口から出たのに、まるで別人の声のように聞こえた。
本人も思わず驚いたように喉に手を当てる。
「これ……私の声?」
闇丸はその変わりようにくつくつ笑い、肩をすくめた。
「チャメっ声飴は味と一緒に声も変えるって寸法でさ。舐め終わるまでは、誰かになりきれる」
くるりと自分の長い舌を見せるようにして、青白い飴を転がしてみせる。
闇丸の声がみるみる高く透き通るような声に変わっていく。
普段との落差に、おえ、と闇丸は舌をつきだした。
「ただし、外れもある。クジラの鳴き声に当たったら、森に響き渡るからねえ。……派手に」
小さな笑いが漏れる。
けれど、その空気を切るように、木々のざわめきがふっと止まった。
ほんの一瞬の静寂。
鳥の声が消え、風の音すら止む。
代わりに、どこかで“チリ……”と微かな金属音のような、擦れた音がした。
「……蝙蝠か?」
普段の語尾が抜ける声ではない、低く重たい声で凌が呟く。
「姿はみえないけど…でも、空気が……狭いね」
ユヴェの言葉もまた、いつもの声ではないのに、どこか緊張が伝わる。
森の奥——見えない枝の先に、誰かが息を潜めているような気配。
音もなく、ただ意志だけがそこに浮いているようだった。
「……こっちはまだ、隠れてるって思わせときましょうか」
闇丸がそう言って、飴の瓶を口元に転がす。
一瞬、いつもよりその瞳が細く笑っていた。
「それにしても、名前より幻想的な場所だね」
「ここは光のウフの産出量が多い。森は腐るだけじゃなく、根が燃えるように生きてるんですよ」
確かに、この森は美しいと言えなくもなかった。
けれどその光には温度がなかった。
ただ“発光している”だけで、命の気配はどこか希薄だった。
一歩ごとに、腐葉土が音もなく沈む。
湿った空気が肺にまとわりついて、呼吸すら静かに制限される。
周囲を見渡していた凌が、ふと振り返った。
森の一部になった、朽ちかけた建物と、崩れかけた扉。
今しがた出てきた枠の向こうには、見慣れた灰色の病室。
ユヴェが慎重に扉を閉じた。
蔦に覆われ、半ば崩れかけた古い石造りの建物は、かつての威厳の名残だけが辛うじて残っていた。
ユヴェが壁際の装飾を指先でなぞる。
「……議事堂だったんだ、ここ。第六区のね。ずっと昔のものだけど、座標は記録されてる。扉が“開く”状態で残ってて良かったよ」
かつて秩序を語り合うために建てられた場所が、今では不正扉の投棄場所となり、森の闇に埋もれかけている。
けれど、その中の一つの扉だけが、まるで“再び使われることを待っていた”ように静かに残っていた。
廃墟の片隅、傾いたテーブルの上に影が一枚伸びた。
凌がそこに指を滑らせ、影から折り畳まれた地図と腕時計を取り出す。
「……今、10時42分」
凌が今までしていた腕時計を外しながら、新しいそれを見て言った。
文字盤が三つ。ゼノラと、ウルネスの悪魔領、天使領のそれぞれの時刻を示す“多層時計”だった。
相変わらず針はない。
けれど、手首に巻くと、わずかに振動が伝わる。
耳の中に直接響くような、時を刻む音が一瞬鳴って、次第に遠のいた。
廃墟の中に傾いだ時計塔があるが、機能は当然ながらしていない。
けれど、凌の中ではすでに“時間”が地図のように組み上がっている。
その声は静かで、しかし焦りを隠さない。
「最初の三時間が、そろそろ終わる頃だ」
「……」
なるべく言葉を伏せながら、凌が呟く。
闇丸が死角の隅から現れ、壁に背を預けながら短く答える。
「あっしの調べじゃ、賭博場が開くのは十時過ぎ。陽が落ちるまでの間ですよ」
「……移動する前に着替えよう」
凌はそう言い、自分の影の中から手早く衣装を取り出した。
漆黒の上着。影に溶けるような、真っ黒な服。
悪魔の地で目立たないための、最低限の“鎧”だった。
闇丸は踵を返して薄闇の奥へと消えていく。
「あっしは、死角に隠れてますんで」
そう言い残した声は、すでに距離の向こうから届いていた。
どこに立っていたのかさえ、ユヴェには分からなかった。
「……顔とか首とか手とか……あんまり出したくないんだけど……」
ユヴェが少し戸惑いながら言うと、凌は一言だけ返した。
「……スカーフはある。手袋くらいはつけてて大丈夫だろ」
ユヴェが頷くよりも早く、闇丸の声がどこからか落ちてきた。
「顔なら心配いらないぜ、お嬢。スロワでは仮面を外せねえんだ」
「……いよいよ怪しい街だね……」
溜め息交じりに呟くユヴェ。
受け取った服を手に、彼女は廃墟の影へと消えた。
凌も衣服を整え、影の中で輪郭をなくしていく。
深くフードを被り、灰銀の髪を隠し、瞳の色を隠す眼鏡をかけた頃、ユヴェが戻ってきた。
相変わらず、ゴーグルと分厚い手袋だけは変わらない。
ふたりは互いに目配せだけをして、ダランの城壁の切れ目へと向かう。
城壁へと向かう小道は、無音だった。
踏みしめる腐葉土の音さえ吸い込まれるような森の中、ところどころで悪魔たちとすれ違う。
浮浪者のようにうずくまり、動かない者。
寝ているのか、生きているのかさえ分からない影。
顔を伏せて通り過ぎる者もいれば、逆に目だけがぎらつく者もいた。
ユヴェは思わず目を逸らしながら、その空気の重さに喉を詰まらせた。
──ここは秩序の森じゃない。
形だけ残した街の皮膚に、薄く悪意が染みている。
沈んだ空気だった。
土も、木も、光すらも、すべてが重たく……ゆっくりと、じわじわと、腐りかけている。
無言のまま、三人は寂れた路地を抜けていく。
そのときだった。
ふと、路地裏の隙間に、白く細いものが見えた。
布きれのような何か。
骸のような何か。
凌は立ち止まった。
かすかに風が吹き、草の隙間から、それが覗いた。
崩れかけた浮浪者の死体だった。
もう誰にも弔われない。
誰にも見つけられない。
この都市の地べたに沈み、やがて、ただ土に還るだけの存在。
ユヴェが視線を巡らせかけた。
すぐ隣を歩いていた闇丸が、さりげなく身体をずらして視線を遮る。
「……急ぎましょう」
闇丸は、静かにユヴェの背中を押す。
彼女は小さく頷き、何も気づかないまま歩を進めた。
凌は、一瞬だけ立ち止まったまま、その骸を見つめた。
言葉はなかった。
祈りもなかった。
ただ、心の中で、
──覚えておく。
名前も顔も分からないけど。
誰にも知られなかった命。
誰にも愛されなかったかもしれない魂。
けれど、たしかにここに、生きた跡があったことを。
凌は、背を向けた。
無言のまま、腐れた空気の中を、静かに歩き出した。
その後ろでは、誰も気づかないまま、
冷たい土が、そっと骸を抱きかかえていた。




