八十三層 : 腐れ森.02
時間は少し巻き戻る。
それはガットが闇牢へと捉えられてから、およそ一時間後のこと。
── 安寧の森、第三区ヴィタ。
深い森の中にあっても、ここはどこか温もりのある場所だった。
茶系を基調とした、第三裁判官リーテの執務室。
重厚な書棚と緩やかなカーブを描いた天井。
天球儀の意匠を模した暖色のウフ灯が、柔らかく空間を照らしていた。
天井の灯りは朝の光と溶け合い、絨毯の上に複雑な影を落としている。
厚手のカーテンは開け放たれ、森の葉が風に揺れる音が微かに聞こえる。
時刻はまだ午前中。
外から差し込むわずかな陽の光が、分厚くしなやかなカーテンの縁を撫でていた。
執務室の中央──リーテが窓際から立ち上がり、ゆっくりとデスクを回り込む。
その目の前には、リリーが立ち尽くしていた。
「……ガット・ビターは、闇牢行きになったわ。……第六は、解体される」
その言葉が空間に落ちた瞬間、室内の暖かな空気が一気に冷えたような錯覚すら覚える。
「え……」
リリーの声は、どこか現実を受け入れきれないまま、足元の柔らかな絨毯に吸い込まれていくようだった。
彼女の目の奥に浮かんだのは、ただ、信じたくないという本能的な拒絶。
リーテは静かに、その黒い瞳を見つめていた。
「……どうして、ですか」
リリーは一歩前に出た。
瞳は揺れ、声には明らかな震えが混じっていた。
「何をしたんですか!?彼がどんな想いで、ここにいたのか……リーテ様だって、知らないわけじゃないでしょう!」
リーテは無言で彼女に歩み寄る。
その足取りは静かで、けれど、決して逃げなかった。
「……リリー」
「休まず働いて、命令には何も言わず……天使なのに、悪魔のために──どうして、ガットさんが……!」
震える声で叫ぶリリーの肩を、リーテはそっと抱きしめた。
その手は酷く優しく、酷く冷静でもあった。
「……分かってるわ。けれど、庇いきれない罪を重ねたのも、事実よ」
「……そんな……」
「それに、あなたまで壊れてしまっては、彼がひとりで背負ってきた意味がなくなる」
その言葉に、リリーの視線がかすかに揺れた。
リーテは、静かに、けれど決定的な声で続けた。
「本来なら、あなたも処分を受ける立場よ。彼の監視は、あなたの職務でもあった。……けれど、彼は巧妙だった。あなたが気づけなかったのは、当然のこと」
「──それは」
「だから私は、“あなたを私のところへ戻す”という処理にしたの」
リリーの肩がぴくりと震える。
それが、安堵か悔しさかは、自分でも分からなかった。
「お咎めは、形式上の謹慎処分。それだけで済むわ」
「……」
リリーは小さく、拳を握りしめた。
静かな沈黙の中で、自分の中に芽生える言葉を、どうにか声に変える。
「……一言くらい、相談してくれたって……」
喉から漏れた声は、まるで誰かに許しを乞うように、細く掠れていた。
彼の決意に、自分は何ひとつ触れられなかった。
あの背中を、何も知らずに見送っていた自分が、ただ悔しかった。
「私……ただ、見ていただけだったんですね……」
その自覚が余計に苦しかった。
リーテは静かに彼女を抱いたまま、最後の言葉を落とす。
「……だからこそ、今はここで休みなさい。部屋には蝙蝠を置くけれど、それは監視ではない。あなたが“誤った賭け”を選ばぬため。……それだけよ」
「……はい」
「あなたには、まだ果たすべき役目がある。私の元で、その意味を取り戻しなさい」
「……」
「それだけは……忘れないで」
その声には森の奥に暮らす者としての静けさと、権力者としての決意が、たしかに宿っていた。
リリーは何も言わず、ただ頷いた。
眼鏡の下へと両手を差し入れ、そっと顔を覆う。
涙を拭うわけでも、溜息を吐くわけでもない。ただ、誰にも見せたくなかった。
促されるままに扉の向こうへ歩き出す。
けれど、絨毯の柔らかさも、差し込む光のあたたかさも──
今の彼女の感覚には、まるで届かなかった。
──どうして、私は気づけなかったんだろう。
そう思うたびに、心臓の奥を小さく針で突かれるような痛みが走る。
思い出すのは、あの人の無表情の裏に一瞬だけ揺れていたもの。
何も言わなかった背中。
それでも、たしかに感じていた静かな炎。
私……まだ、何かできる?
そう問いかける声が、心の奥から静かに上がってきた。
リーテの言葉には恩情があった。
それは分かっている。
だからこそ、今は従うべきなのかもしれない。
けれど──
それでも、諦められるわけ、ないじゃん……
ひとつの結論が、心の奥で静かに灯る。
リリーはガットを愛していた。
上司として、一個人として。
恋焦がれる気持ちと同等に、彼の在り方に強い憧れを抱いていた。
そこに、種族は関係なかった。
……一度だけ。もう一度だけ、リーテ様に掛け合おう。
正式な手続きを通してでも、非公式の手段を探してでもいい。
それで何も変わらなければ──
廊下を進むリリーの背は、まだ震えていた。
けれどその足取りには、確かに意志があった。
その姿を、リーテは最後まで黙って見送っていた。
まるで彼女自身の“選択”を、静かに待っているかのように。
扉の向こうへと歩き出すその背に、リーテのまなざしは最後まで静かに注がれていた。
*
一転して、そこには温もりの欠片もなかった。
第二区ナジェムに構えられたソルヴァンの執務室は、壁、天井、床まですべてが徹底して“黒”で塗り潰されている。
家具も机も、革張りの椅子すらも光を吸い込むような黒で統一され、唯一書類だけが色を持って存在していた。
分厚いカーテンは開いているが、外に広がるのは鬱蒼とした樹冠であり、日光が差し込むことはなかった。
部屋に落ちる光はほぼなく、天井に引かれた細いウフ灯の光のみ。
それを反射するのは、ソルヴァンの若葉色の髪と、金の瞳だけだった。
そこに通されたのは、ひとりの巨躯だった。
エノワール。
二メートルを優に越す体躯。けれど、どこか柔らかさを併せ持つ男。
漆黒の内装に身を沈めるようにして、彼はただ静かに、上司の声を待っていた。
「ガット・ビターは、闇牢落ちだ。……第六は解体する」
書類を捲る手を止めることなく、ソルヴァンが告げたのは、乾いた事実だった。
エノワールは、ほんの一拍だけ間を置いて、静かに目を閉じた。
──やっぱりね。
言葉には出さない。
ただ、そう呟くように、胸の奥で息を沈めた。
「エノワール。貴様はこの時点をもって、第二へ戻れ。指揮系統は再編する。……異論は?」
「……いえ」
その答えには迷いがなかった。
ただ、背後で組んだ手を、強く握りしめていた。
「処分は下す。降格とする。第三補佐だ」
エノワールは無表情のまま、頷いた。
「期待はしていなかった。貴様程度では、ガット・ビターの本懐など見抜けぬことは、最初から分かっていた」
ページが一枚、静かに捲られた。
冷酷な断罪は、まるで日々の業務の一環に過ぎないように淡々としていた。
「下がれ」
「……はい」
エノワールは踵を返した。
その動きに無駄はなかったが、その背中には──確かな、沈黙の重さがあった。
“誇り”に賭けた者を、止めることも、支えることもできなかった。
何も残せなかった。
それが、己の弱さだと分かっていた。
仕方ない……けれど──
心の奥に、かすかな熱が灯る。
大きな手のひらが拳を作る。硬く、固く。
納得なんて…到底できないわね……
閉じた扉の先、エノワールの歩みは重たく、しかし、どこか静かな決意を孕んでいた。
建物を出たとき、風はなかった。
高くそびえる樹冠に覆われた街は、光も熱も拒まれているかのように、ただひたすらに“沈黙”だけを湛えている。
エノワールは、その冷たい空気を胸いっぱいに吸い込むと、ひとつ、長く息を吐いた。
「……第三補佐、ね」
言葉にしてみても、何も変わらなかった。
肩書きは重みを失い、責任感は形骸化し、裁判所は今日も“仕分け”のように誰かを処理していく。
──処分は妥当だ。
上司の目論みを見抜けなかった自分の責任だ。
ルールに照らせば、何も間違っていない。
それでも。
胸の奥にひっかかっているものは、言葉にも論理にもならなかった。
それはたぶん──“温情”の不在だった。
何ひとつ、ソルヴァンからの、情けがなかった。
ガット・ビター。
天使でありながら悪魔社会の中枢に入り込んだ、異端の存在。
誰より冷静で、誰より規律を守った男。
けれど、それはただの“演技”だったのかもしれない、とエノワールは思っている。
誰かのために、全部を破って消えていくなんて──普通、考えないわよ。
秩序と規律と法と……
“正しさ”の積み重ねの先に、誇りある死を望む悪魔。
でも、彼は最初から違かった。
ずっと、もっと別の炎の中で生きていた。
──天使と、悪魔の差なのかしら。
でも、そんなことはわかってたはずだった。
そしてそんな上司を、何一つ止められなかった。
見抜けなかった?──いいえ、違う。
可能性には気づいてた。
気づいた上で、願うことしかできなかった。
だって──私に止められるわけないじゃない。
彼は、ガットは、私にとって理想の上司だったんだから。
信じたかったのよ。
少しでも、私やリリーの存在が、彼の重しであればいいと。
ガットが死ぬとは思っていない。
闇牢は確かに“出られない”場所だが、彼がそこで終わるとは、とても思えなかった。
だから。
きっと彼は“出て”くるわ。
そしていつも通り、なんの痕跡も残さず──“消えて”しまう。
まだ何も決まっていない。
何をするのかも、何ができるのかも、分かっていない。
でも、自分の足で、彼の結末の続きを見に行きたい。
何も言わずに姿を消すのを、黙って受け入れたくない。
それはもう、決まっていた。
──闇牢。
裁判所の者だとしても、最も踏み入れづらい領域。
けれど、ガットの“心”が今も天使領にあるなら、きっと、すべてはそこから動く。
エノワールはゆっくりと足を踏み出した。
規律の中で与えられた立場を受け入れながらも──
その足音だけは、確かに、“黒”から逸れた音を立てていた。




