八十一層 : 灰の中から.04
突然背後から聞こえた声に、亜月と翔が肩をびくつかせる。
藤色の着物。
黒い髪をまとめ、しなやかに立つ彼女は、名前など必要ない。
彼女が誰かは、空気ごと告げていた。
「……店長」
凌が呟く。
彼女は長いまつ毛を落として、柔らかく笑う。
「闇丸を連れていきなさい」
そうこぼす店長の影から、ぬるりと小男が姿を現す。
闇丸だった。
笠の影から、一つの大きな眼が嫌そうにこちらをみている。
亜月が小さく悲鳴をあげた。
「…ウルネス層に行くなんざ、出来ればごめん被りたいんですがねえ」
「あら、蝶の羽音がするわ。美味しそう」
「……へい、任せておくんなせい」
笑顔は崩さぬまま、店長が指先をひとつ、軽く振る。
それだけで、闇丸の肩がびくりと跳ねた。
闇丸が、そそくさと扉を潜って凌の脇へと寄ってくる。
「この子達は私がちゃあんと見ていてあげる」
びくつく亜月と、店長をまじまじ見上げる翔の肩をそっと抱く。
甘い香木の匂いに包まれて、少しだけ、亜月が緊張を解いた。
「食べ頃になる前に帰ってくるのよ?」
「……冗談に聞こえないからやめろ」
「ふふ。それだけ特別ってことよ」
わずかな風に揺れる翔の前髪を愛おしそうに払ってから、店長がドアノブに手をかけた。
「可愛い我が子のためだもの」
──パタン。
扉が閉まる。
しんと静まり返った病室に、店長の香りだけがわずかに残っていた。
そのなかで、凌は視線を逸らして息を吐いた。
「…だから、いつまでもガキ扱いすんなって」
ぼそりと呟かれた言葉に、ユヴェはようやく微笑んだ。
ほんのわずかでも、顔を緩める余裕が戻ってきたことが、嬉しかった。
「扉を開いても?」
ふと、ドクターが機材を一式持って声をかけた。
ユヴェは慌てて、今しがた閉められた扉のドアノブへ駆け寄っていく。
「凌」
「…ん?」
ドクターは低く冷たい声で凌を呼んだ。
まだ痛む肩を、無意識に庇う仕草を、ドクターの金の目が捉える。
「痛み止めを処方する。あまり動かさないように」
「……」
「それと」
ドクターは一瞬だけ視線を落とし、言葉を飲み込んだ。
ユヴェが病室のドアを開く。
そのさきに見えるいつも通りの病棟の廊下を確認し、ドクターは白衣の裾を翻す。
ドクターの言葉は続かなかった。
ただ、薬の入った小瓶を机に置き、背を向ける。
「…ドクター?」
凌が声をかけると、彼は姿勢のいい立ち姿を崩すことなく、廊下へと出た。
「…気の迷いだ。気にしなくていい」
「……」
「どうせ、全てが終わったらまたここへ顔を出すだろう」
包帯に隠された表情は、相変わらず読めない。
でも、低いドクターの声は、いつもより静かで、穏やかに耳に響いた。
「その時、休む場所くらいは提供しよう」
それは凌だけではなく、ユヴェにも向けられた言葉に聞こえた。
驚く彼女の脇をするりと抜けて、静まり返った廊下に、彼の足音だけがしばらく響いていた。
「……まったく。店長もさることながら、ドクターも不器用なお方ですね」
姿が消えてから、天井の蜘蛛を気にしながら闇丸が肩をすくませた。
「それにしても、やっと出てきたと思ったら、すぐ次の地獄に飛び込むってか?」
やれやれと、わざとらしくため息をつく闇丸。
突然現れたこの案内人を、ユヴェはつい目で追っていた。
「えーっと…」
なんと声をかけるべきか悩む彼女に、闇丸は手慣れた調子でお辞儀する。
「あっしが一つ目の闇丸ってもんですよ。どうぞお見知りおきを、鍵屋のお嬢」
「あ…どうも、手伝ってくれてありがとう」
「へへ。いい子じゃないですか」
ユヴェは少し戸惑いながらも、その人懐っこさに肩の力が抜けた。
肘で凌を突くその気安さに、ユヴェはほっと胸をなでおろす。
「あたしはあくまで、あんたらの“サポート役”だ。お嬢さん、命は大事にね」
ユヴェは少し驚いたように眉を上げたが、すぐに気を引き締めて頷いた。
*
静かな灰色の廊下を抜けて、診察室へ。
廊下より光のウフの揺らぎが少ないそこに、回収してきた器具と点滴スタンドを壁際に寄せる。
すぐさまカーテン裏からヒヨが出てきて、それらを回収していった。
自分のデスクに腰をかけると、ぎいと椅子が鳴る。
「…よかったのかね」
ふと、誰もいない空間にドクターが呟いた。
彼の瞳は次の患者カルテに向いている。
しかし、その視界の端には、窓枠に居座る蜘蛛を捉えていた。
「ふふ。可愛い子にはなんとやらって言うでしょ」
「……」
旅どころか、千尋の谷を越えて、あの子たちは今まさに奈落へ向かっている。
そう思ったが、ドクターは口にしなかった。
この女郎蜘蛛の口車の滑らかさは、遥か昔からよく知っている。
「君のそれは建前だろう。本音は違う」
「本音?」
柔らかく、どこか笑みを含んだような声。
「凌を鬼灯通りに縛りたかったか」
ドクターの声は低く、地を這うような重さがあった。
窓枠から落ちる店長の声は、相対するように軽く、くすくす笑う。
「あらやだ。気づいていたのね」
「……何千年の腐れ縁だと思っている」
「ふふ。そうね。そうよ。──あの子を“ここ”に置きたかった」
珍しく、店長が誤魔化さずに答えた。
ドクターは包帯の巻かれた下で、片眉を上げる。
「あなたも気づいているでしょう。戦争の兆しがあること」
「……」
少しトーンを落として答える店長。
しかし、それさえも建前のように聞こえてしまう。
女郎蜘蛛の行動原理は、妖怪のためになるかどうか。ただそれだけだ。
至ってシンプル。だが、その単純さの中に唯一濁りを落とすとしたら…
それはきっと、“凌”という存在そのものだ。
おそらくこの女は全てを最初から見通していた。
あの少女が裁判所に捕まるところから。
凌は病棟か、鬼灯通りをアテにした計画を立てるしかないことを。
そしてそれを利用して、自らの巣に引きずり込む未来を。
……歪んでいる。
でもそれが、この女のやり方だ。
ドクターは、そう思っても口にしなかった。
「それに、いざとなったら闇丸がここへ運び込むわ」
「……厄介事しか持ち込まないな」
しかし、病棟としては正しい使い方ではある。
医者としての矜持を持つ彼には、そうなれば言い返す言葉はない。
それを承知の上で踏み込んでくるのだから、この女は本当に厄介だ。
「私はあなたが反対するかもと思ったわよ」
「…私が?する必要がない」
「あら、あの子を幼い頃から診てくれてるじゃない」
妖怪という種にこだわりを持っているのか。
唯一の獏の生き残りだからか。
あるいは、凌という個を見ているのか。
それは店長だけではなく、ドクター自身にも分からなかった。
ただ、彼は、彼の敷地に入るものの“生”を保証すること。
それ以外に目的も誇りも持たず、悠久に近い年月を過ごしていた。
今更、短命な彼の肩を持つ理由を知ろうとするのも、無意味だった。
「……ドクター。次の患者を通しても?」
カーテンの向こうからヒヨの声がかかる。
背もたれに預けていた体を起こし、ドクターは短く返事した。
窓枠の蜘蛛はいつの間にかいなくなっていた。




