八十層 : 灰の中から.03
点滴の残りがあとわずかとなったころ、凌がベッドからゆっくりと起き上がる。
まるで示し合わせたように、ドクターが病室に現れた。
淀みない動きで、凌の腕に刺さっている針を抜く。
ユヴェは部屋の外にいたらしい。
ドクターの後を追うように、入り口まで来て、入らずに佇んでいる。
凌は、カーディガンに腕を通しながら呟いた。
「……移動する」
いつまでもここにはいられない。
悪魔たちが強硬手段を取らない保証はないし、逃げ道があるうちに、鬼灯通りへ避難すべきだ。
「ユヴェ」
扉の先で動けないでいる彼女の名前を呼ぶ。
ゴーグル越しに目が合った気がしたが、すぐ逸らされたようにも思えた。
無理もない。
彼女だけ、この先どうすることもできないところまで来ているのだから。
ユヴェは、凌の声かけを「扉を用意しろ」と言われていると察した。
彼女は何も言わないまま、静かに病室に入って、今潜ったばかりのドアを閉めた。
そして、自分の鍵を取り出すと、静かに扉のドアノブへ近づける。
鍵穴さえなかった扉が、彼女の鍵の気配を受けて、ゆっくりと変化していく。
「…鬼灯通りの正確な座標が分からないから──中じゃなくて、一番近くの森林管理棟の扉に繋げてあるよ」
まるで、感情を封じ込めたように、平坦な声だった。
ガチャリ。
鍵を捻る。
無機質な病室の外──消毒液の匂いすら漂うはずのその向こう。
そこに広がっていたのは、木々のざわめきだった。
白い蛍光灯の光が途切れたその先に、揺れる木漏れ日。
鳥の声。湿った土の匂いが、胸の奥を静かに撫でていく。
あまりに唐突で、現実味を欠いていた。
そこは「病院の廊下」ではなかった。
「世界の裂け目」が、そこに口を開けているようだった。
凌は、亜月と翔の背中を押した。
後ろ髪引かれるように進むふたりを、光の中に誘う。
「…店長。少しの間頼んだよ」
その言葉を遮るように、カサリ、と乾いた音が響いた。
天井から、一本の蜘蛛の糸がするすると降りてくる。
その先に、小さな黒い影。
店長の使い蜘蛛だった。
一瞬、蜘蛛が動きを止める。
まるで告げるべき言葉を探しているように。
「──ええ。食べないように、妖怪達にも声をかけてあるわよ」
それを聞いて、凌はふっと笑った。
その笑みは、懐かしいぬくもりに触れた時のように、ほんの少しだけ柔らかかった。
けれど、なかなか扉の先へ進まない凌。
ユヴェが訝しげにその背中を見上げると、振り返った紅い目と目が合う。
「……俺らはまだ、終わってない」
静かだったけれど、確かな覚悟がのった声だった。
ユヴェも、亜月も、翔も目を見開く。
ドクターだけが、静かに目を細めた。
「もう一度、最初から練らなきゃならない。時間はかかる。──それでも、槍があれば……少なくともフォールドラークへ顔向けはできるだろ」
「……」
「お前がやる気あるなら、だけど」
付け足された言葉には、思いやりが滲んでいた。
無理しなくてもいいと、その裏に潜んでいる真意に、ユヴェの涙腺が再び緩む。
「…やる」
今度はゴーグルを押して目を擦る必要はなかった。
涙を堪えて、ユヴェは顔を上げた。
光が戻ったその目は、もう迷っていなかった。
「やっぱり、そうなるのね」
蜘蛛は天井の高いところから、はっきりとした声を落とした。
柔らかいが、どこか諦めのようなものを孕んでいる。
「それじゃあ、一つだけ教えてあげる」
その切り出しは、とても不穏だった。
そして実際に、蜘蛛が告げたのは、誰も望んでいない“真実”だった。
「“ガット・ビターが裁判所の闇牢に入れられた” 。
──彼はもう、当てにならないわ」
室内が、凍りついたように静まり返った。
翔が息を呑み、ユヴェは小さく悲鳴を飲み込む。
凌だけが、糸を見上げながら、じっと黙っていた。
ユヴェの肩が震えていた。
叫ぶでもなく泣くでもなく、ただ感情の重さに、体の芯が揺れているようだった。
ドクターは無言のまま、静かに器具の後片づけをしている。
翔は俯いたまま、か細く指を組んでいた。
小さな手の震えが、悔しさを滲ませていた。
自分の何もできなさが、ただ辛くてたまらないのだろう。
亜月がそれをみて、そっと翔の手を繋いだ。
一方で、凌の視線は一点を見据えていた。
「うそ…だってほんの少し前まで……」
ユヴェの声が震えていた。
張り詰めた心の糸が、細く軋んで軋んで、今にも切れてしまいそうだった。
「行かなきゃ。助けなきゃ…!」
それは祈りでもあり、叫びでもあった。
思わず前に出かけたその体を、凌の低い声が引き止める。
「…無理だ。今はまだ」
その言葉は氷のように冷たかった。
けれど、それだけじゃない。
あまりにも現実的で、だからこそ胸に突き刺さる。
「無理って……裁判所の闇牢に入れられたんでしょ!?そんなの、もう…!」
叫びのような声に、翔が間に割って入る。
彼の声もまた、不安で揺れていた。
「凌、闇牢って……?」
凌はわずかに目を伏せた。
その目に浮かぶのは、遠い記憶か、あるいは断罪された者たちの末路か。
「裁判所の裁定の塔の地下にある、光が一切届かない監獄。…出てきたやつはいない。みんな──終身刑だ」
沈黙が一瞬、場を支配する。
凍りついたような時間の中で、ユヴェはゆっくりと拳を握った。
「……どうしよう…あんなに慎重で強そうな彼でさえ…捕まるなんて……」
彼女の声は、ほとんど喉の奥で震えていた。
理屈では理解しても、感情が追いつかない。
ユヴェはガットに警戒と、恐れを抱いていた。
悪魔の裁判所の、第六裁判官。
本当に手助けしてくれるのか……最初から、この計画すら罠なんじゃないかと疑っていた。
実際に、彼は最初から槍を手に入れる気はあまりないようだった。
無理だと切り捨てろと、そうはっきりと言っていた。
ほんの数時間だった。
作戦を話しただけ。情報をやりとりしただけ。
それなのに──
彼が時折見せた、何かを諦めきれていないような目。
誰にも頼らず、誰も頼らせないようにしている距離感。
それが、どうしようもなく引っかかっていた。
彼女の中では、もう、ただの“共犯者”として見殺しにできる存在ではなかった。
凌は少し考えるように目を細める。
「たぶん…ガットは最初から自分の時間を差し出すつもりだった。誓約書を破らなきゃ天使領に帰れないのは、分かりきってたことだ」
静かに、しかし確信を持って告げるその言葉に、ユヴェの目が揺れる。
信じたくない現実が、次々に突きつけられる。
「…ガットの適性ウフって、なんなの?」
震えるユヴェの声。
ほんのわずかな間、凌が言葉を選ぶように沈黙する。
そして、それを破るように呟いた。
「──時間」
病室の空気が、ぴしりと軋む音を立てたような気がした。
ユヴェの体がびくりと反応した。
「そんな…あるはずない。時間って…時間のウフ?本当に?それ、本当にそう言ってたの?」
見開かれた瞳の奥に、じわじわと焦燥が広がっていく。
それは単なる驚きではない。“恐怖”に近い混乱だった。
「聞いたことはないとは思ったけど…」
凌の声が続く。
淡々としていながら、なぜユヴェがここまで動揺するのか分からないようだった。
「そうりゃそうだよ!だって、時間のウフの適性者なんて、フォールドラークの鍵帳簿を全部ひっくり返したっていないよ!」
怒鳴るでも、否定するでもない。
ただ、自分が信じてきた“世界のルール”が崩れたことに、ユヴェはうろたえていた。
「え、それって──」
翔が口を開くが、言葉の続きを見失ってしまう。
「あるはずない…だって、合法で作った鍵は全て記録されてる。時間のウフの適性鍵なんて、世界にはただの一本もない」
ユヴェの言葉は、ほとんど自分に言い聞かせるようだった。
常識。記録。秩序。
彼女が世界を理解するために積み上げてきた全てが、今崩れかけている。
凌は何も言わなかった。
けれどその眼差しは、どこか遠くを見つめていた。
光の届かないどこか──時間の底に沈んでいったガットの姿を、追っているようにも思えた。
「……でも、嘘を言ってるようには思えなかった」
その言葉がぽつりと落ちたとき、ユヴェの揺れはようやく収まる。
目の奥に宿した焦燥と決意は、彼女の中にまだ灯り続ける火を教えていた。
凌はゆっくりと呼吸を整え、まるで何かを切り替えるように声を発する。
「どのみち、ここで時間を潰しても仕方ない。だから、準備する。槍のありかも、裁判所の動きも、全部見極めてからだ」
その声には迷いがなかった。
ただし、焦りもなかった。
冷静であることを選んだ者の、静かな強さがそこにはあった。
「……かといって、時間もあまりかけられない」
凌がそう言ったとき、ユヴェはようやく顔を上げた。
その目に残っていた涙の跡すら、もう過去のものになっている。
「……そう、だね。」
口にしたその一言は覚悟と、そして後悔を振り切る意志の音だった。
ふわり。
不意に甘い香が鼻をくすぐった。
「ええ、そうしなさいな。誰かひとりでも欠けるには、あなたたちまだ青すぎるもの」
声とともに、柔らかな香が流れ込んでくる。
それは、まるで異層から吹き込んできた風のようだった。
その声は天井ではなく、病室の扉の向こう側から聞こえていた。
全員が振り返ると、病室のドアの向こう側に森が広がる奇妙な空間──そこにひとりの女が立っていた。




