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Shangri-La ─ 生きて、死を越え、何かを遺せ。  作者: sora
【第一幕】灰の中から

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七十九層 : 灰の中から.02


傷口の縫合を終え、少しの間を置いてから、凌は二階の病室へ移動した。

亜月はベッドで眠りについているようで、微かな寝息だけが聞き取れる。


カーテンを挟んだ隣のベッドに凌を横たえて、しばらく。


病室の空気が静まった頃、ユヴェはそっと立ち上がった。


「……ごめん、少しだけ、外の空気、吸ってくるね」


翔が差し出したマグカップは、手に持ったまま飲まれなかった。


廊下に出ると、冷たい空気が肺を刺した。

まるで、自分が少しずつ薄くなっていくような感覚。


光のウフの淡い明かりが、無機質な床をぼんやりと照らしていた。


ゆっくりと階段に足をかける。

一歩、また一歩。

身体が、階下へと引きずられるように降りていく。



──槍は、もうどこまで運ばれたかな。

あれから三時間。

きっと、もう裁判所に届いちゃったよね……



もう……私の手の届かないところだ。


指先に、力が入らなかった。



そんな時だった。



階下、入口ホールの方から声がした。



「……獏と鍵職人が潜んでいるという報告がある。確認させてもらおう」



抑えられた威圧感のある低い声。


間違いない。

──悪魔兵の声だ。


「何度来られても返答は変わりません。患者情報はすべて保護対象です。こちらからお見せすることはできません」


応じる声はヒヨだった。

いつものように機械的で、けれどほんの少し、語尾が硬い。


「ドクターは?こちらには正式な書状が──」

「治療中です。そちらのご要望に対応できる状態ではありません」

「ねえ、あんまりうるさくするとドクターに怒られるよ?」


シマのはつらつとした声は、いつになく刺々しかった。


「天使までいるのか……」


悪魔兵が小さく舌打ちする。


小さな応酬が階段の踊り場にも届いていたが──

ユヴェの耳には、すべてが遠く、靄の中に響いていた。


膝が、抜けた。


階段の壁にもたれ、そっと座り込む。

抱えていたマグカップが、ごとり……と軽く揺れた。

中身はこぼれない。

でも、湯気も出ないコーヒーが静かに揺らいでいた。


壊したのかもしれない。

すべて、自分が。


覚悟はしてた。できてた。


でも──つもりだったみたい。


息が吸えなかった。

心臓の音だけが、どこか遠くから響いているようだった。

視界が、急に霞んでいく。



このまま誰にも見つからずに、ひっそりと、ここで溶けてしまえたら──



そんなことを、初めて、本気で思った。



*



一方そのころ、病室には静寂が戻っていた。


ドクターも看護師たちもいない。

ユヴェもいない。


緊張が解けたのか、翔は眠っていた。

残された病室には、点滴の音だけがぽたり、ぽたりと響いていた。

外の気配も静まり返っていた。

あれほど荒れていた空気が、ようやくどこか落ち着きを取り戻しはじめている。


亜月は、ブランケットの裾を握りしめたまま、そっとまぶたを開いた。


隣のベッドに、カーテンがかかっている。

けれど、差し込む日の光が、ぼんやりとそこに眠る影を映し出していた。


「……ありがとう」


それは、小さな声だったが、確かに、誰かを救おうとした人に向けられた“感謝”だった。


凌は、その言葉にすぐには答えなかった。

ベッドに背を預けたまま、天井を見つめる。

深く息を吸って、吐く。

そして、淡々とした声で返す。



「……勝手にやったことだ」



言葉は短くて冷たいはずなのに、その後に残った沈黙が、どこか温かかった。

叱るようでも、突き放すようでもない、ただの事実としての返答。


亜月は首を横に振った。


「でも、あのままだったら私、たぶん……」


死んでた?二度と牢屋から出られなかった?

正確な結果はわからないし、この世界の仕組みを知らなさすぎて、想像もつかない。

でも、なんにせよ——最悪なことになっていたに違いなかった。


「……私のお父さんへの恩返し……なんだよね?それで、こんな命懸けな……肩のケガだって、深そうだし……」


言葉を探しながらぽつぽつと話す亜月に、凌はふと視線を落とした。

複雑な光が、紅い瞳に揺れる。


「……自己満足でやってる」


そう言ったきり、凌はしばらく言葉を探すように口を閉ざす。

病室に、また点滴の音だけが戻った。



しばらくして──



「……名前も知らない。お前の父親のこと」



不意に、凌が呟くように口を開いた。


「お前の悪夢——……お前の父親が、裁判所の悪魔に捕まる時の記憶だった」


亜月が息を呑む。

凌は続ける。


「だから……お前はもう、自分の父親のことなんて……何ひとつ、覚えてないはずだ。お前は赤ん坊だったし……夢は、記憶は、俺が食っちまったから」


言葉は平坦だった。

でもその裏には、何度も反芻(はんすう)してきた後悔と罪の重みが滲んでいた。



「……お前の父親、俺の命を救ってくれた悪魔だった」



視線を天井から逸らし、掌を見つめるように手を開く。

かつてその手で救われた命を、今度は自分が握りつぶしてしまったような感覚──

その感覚だけが、今もどこかで燻っていた。


まぶたを閉じれば、また何度でも蘇る。

悪夢が見せた三時間。

あの地獄の業火が、皮膚を焼く感覚。


ほんの少しだけ、まぶたが震えた。

声が、喉元でひっかかる。



「……でも俺は、そんな恩人に……“忘れられる”っていう、()()()()()を与えたんだ」



口にした瞬間、自分の胸の奥に響いた痛みは、思った以上に鋭かった。


……だから、余計に、助けたかった。

亜月の父親が、確かにいたって証明は……もう、亜月の生存だけだから。


ただ、その言葉は声にはならなかった。


けれど、亜月は黙っていなかった。

凌の言葉のすべてを受け止めて──それでも、彼女はまっすぐに言った。


「そんなことないよ」


その声は、小さいけれど、揺るぎない響きを持っていた。


ゆっくりと、カーテンの向こうで彼女が体を起こしたのがわかった。

布擦れの音がわずかにして、控えめに、カーテンが捲られる。


その視線を、正面から受け止める勇気はなかった。

でも、視界の端で、亜月が凌を見つめているのがわかる。



「だって、私が覚えてなくても──凌が覚えてるじゃん」



涙は、もうどこにも残っていなかった。

そこにあったのは、ただ温かな光のような声だけだった。



「人って、ひとりの記憶の中に生きてるわけじゃないと思うよ」

「……」

「大勢じゃなくていい。誰かがひとりでも、覚えていてくれるなら──それで充分だよ」



その言葉が、どれほどの重さで凌を救ったか、亜月はきっと知らない。

けれど、凌の胸の中にあった沈殿のような罪悪感が、その一言で、ほんの少しだけ光に染まった気がした。


音もなく、ぽたり、とまた点滴が落ちた。

けれどその音は、もう痛みを刻むものではなかった。



それは、確かに──静かな救いだった。



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