七十八層 : 灰の中から.01
──三時間。
短いようで長い時間が、灰色の病棟に沈黙をもたらしていた。
地下処置室の、鉄の重い扉が、ゆっくりと開かれる。
強化ガラスの内側。
光のウフの明かりが、静かに揺れている。
少し前までは、全てが悪夢の闇に包まれ、何も見通せなかったそこ。
中を覗いたヒヨは、わずかに息を飲んだ。
それに続いたサブとシマも、言葉を失う。
凌は、部屋の真ん中に倒れ込んでいた。
肩に矢を刺したまま、包帯もずれたまま。
けれど、痛みよりも先にある感情に、心を持っていかれていた。
片手で顔を覆いながら、もう片方の手は拳を固めて、投げ出されている。
すすり泣きでも、嗚咽でもない。
けれど、確かに泣いていた。
誰も声をかけなかった。
ただ、そこにいる彼を見て、何も言えなかった。
そして──その静寂が、何より重かった。
重い扉の向こうで、ドクターの足音だけが響いた。
ヒヨたちは一歩下がる。誰も何も言わない。
ドクターはただ白衣の裾を翻し、血の滲んだ矢を見下ろす。
一拍だけ、その場に立ち止まり──静かに膝をついた。
「……随分、我慢したようだな」
横たわる彼の傍に膝を着いた。
それだけを言って、何の感情も交えず、矢に手をかける。
「いま抜けば、かなり痛む。……動くな」
凌は何も返さない。
返せなかった。
矢が抜かれた瞬間、喉の奥で何かがせり上がったが、声にはしなかった。
ただ、唇を噛んで、静かに耐えた。
痛みではなく、自分の中の何かを封じ込めるように。
指先が震えている。
涙はもう止まっていたが、熱がこもったままのまぶたは腫れていた。
ドクターは、それに目を留めたが──何も言わなかった。
「ヒヨ、止血用意。抗感染剤も」
「はい」
慣れた動作でヒヨが駆け寄る。
そのあいだ、ドクターは黙ったまま、傷を診ていく。
「……体温、やや低下。血圧、不安定。だが心拍に異常なし。
──生きている」
その言葉が、誰に向けてのものかもわからなかった。
厚い扉の向こうで、ユヴェと翔が立っていた。
声をかけられない沈黙が、ただ、そこに寄り添っていた。
記録のように淡々と、誰の心も波立てない調子で紡がれていく。
けれど──それが、この病院で生き延びた者たちへの、最大限の肯定だった。
その様子を見たユヴェと翔は、張り詰めていた息をようやく吐いた気がした。
……それほどまでに、あの一言は重かった。
「来たまえ。少し休む必要がある」
凌は何も言わず、ゆっくりと、ふらつきながらも立ち上がった。
ヒヨに支えられながら、処置室の中にある簡易ベッドへ誘われる。
空気が張り詰めていて、重かった。
血濡れのカーディガンを脱いで、ポロシャツの肩をめくる。
赤く裂かれた傷口は痛々しいが、凌は、無言のままベッドの端に腰を下ろした。
ヒヨが治療道具を部屋に運び入れる。
続いてサブにより持ち込まれた点滴スタンド。
縫合道具だけではないことに、凌は目を細めた。
「点滴も打つ。抗毒処置と貧血の補正が必要だ」
「……いらない」
声は枯れていた。
凌は視線も寄越さずに答えたが、ドクターは止まらない。
無言のまま、点滴スタンドを引き寄せ、器具の準備を始めている。
「必要ない。早く移動を──」
「必要だ」
低くも一切の揺らぎを許さぬ声音。
ドクターは一歩前へ出て、鋭利な瞳で凌を見据えた。
「この病院の医療権限は私にある。私が必要と判断したなら、君の意志は関係ない」
「……」
しばしの沈黙ののち、凌は諦めたように目を閉じた。
「凌、しっかり治してもらいなよ。無理して倒れたら……僕もやだよ」
「……」
翔の労るような声に、凌は返事はしなかったが、治療を拒否はしなかった。
ただ、ほんの少しだけ、凌の肩の力が抜けたように見えた。
天井に埋め込まれたウフ灯が、点滴のボトルを透かし、ゆらりと揺れている。
その柔らかい光の中で、ドクターの無駄のない手の動きだけが静かに時間を刻んでいた。
針の貫通音と、消毒液の匂い。
それに混じるようにして、凌がぽつりと口を開いた。
「──ユヴェ」
呼ばれた名に、彼女は一度、反応が遅れた。
扉の外から、ゆっくりと顔を上げる。
「……うん?」
視線は交わらなかった。
凌のまなざしは床の一点に向けられたまま、縫合の針の痛みにわずかに眉を寄せている。
その顔は、いつもより数倍白くて、儚くて、今にも壊れそうだった。
「槍は……持って来れなかった」
その言葉に、ユヴェの肩がわずかに揺れた。
目を伏せたまま、扉を抑える指先が、ほんの少しだけ強くなる。
凌は、それでも言葉を続ける。
「……悪い」
謝罪は短くて、乾いていた。
だが、その一言の中に詰まっていたのは、血のように濃い責任感だった。
ユヴェは、返事をすぐに返せなかった。
何かを飲み込むように、小さく唇を噛む。
「……仕方ないよ」
ようやく出た声は、掠れていた。
「誰も死なずにすんだってことの方が──」
“大事だよ”という言葉は、声にならなかった。
喉の奥でつかえて、言葉の形を失った。
手が、微かに震えている。
ポロ、ポロと、音を立てるように、ユヴェの目から涙が零れ落ちた。
滅多に外さないゴーグルを押し上げた、その瞬間──
自分でも止められないほど、涙が溢れた。
分厚い手袋で顔を覆い、そのまま、ずるずるとしゃがみ込む。
「ごめん……責めたくなんかないのに…なのに──」
嗚咽をこらえながら、ぎゅっと目を閉じた。
…私……もう、なんにも残ってない……
声に出来なかった。
しちゃいけないと、最後の理性が押しとどめた。
けれどそれは、誰にも届かないような、静かな崩壊の言葉だった。
槍も信念も、鍵に込めてきた想いも、全部、置いてきたみたいだった。
ドクターは、何も言わず、縫合を続けていた。
翔もまた、掛けるべき言葉を見つけられずに、ただ、その場の重みを受け止めていた。
それでも病室の空気は、完全な絶望ではなかった。
この痛みを共にする誰かがいるということ──
それだけが、救いだった。




