七十七層 : 決意の代償.07
凌のペナルティが始まってから、一時間と九分。
静まり返った通路に、規則正しく並ぶ鍵と書類の数々。
その一角、G列の棚の前に、ガットは立ち尽くしていた。
手元のファイル。
開かれたページの一行が、じわりと心臓に貼りつくように視界に焼きついている。
《ガット・ビター 刑期:無期限》
その下には、滲んだサイン。
“死神”の印。ダーツの名によるものだった。
そしてもう一枚。
記録書の下に重ねられた、誓約書の正本。
何度も眺めた手元の控えとは、紙質がまるで違う。
硬く手触りの悪い羊皮紙のようなそれは、紙と言うには、重かった。
時間と、言葉と、罪と──魂。
それらが綯い交ぜになって染み込んだような、たしかな質量だった。
指先に残る、鉄のような匂い。
まるで自分の名前が、もうひとつの“罪”のように刻まれている気がした。
「……ふざけた話だ」
独りごちるように呟いたとき──
些細な音が保管庫の奥から生まれた。
ガットは目線を走らせる。
布擦れのような、微かな音。
悪魔社会でよく耳にする、影移動の出現音。
その直後、複数の足音が響いた。
「やはり来たか」
冷たい声だった。
まるで氷を落としたような、冷えきった声。
棚の奥から姿を現したのは、第二裁判官ソルヴァンと、数名の警備兵だった。
「……」
ガットは誤魔化す様子もなく、誓約書を手に取ったまま振り返る。
「報告は?」
「…何の?」
ソルヴァンの圧を気にもとめず、ガットは静かに見つめ返した。
「ゼノラ刻正午、リウェルタを出た護送車が襲撃された。貴様の監視対象による奇襲だ。知らないとは言わせない」
「報告も要らねえだろ、知ってんなら」
「問題はそれだけじゃない。コウヤからの報告によると……」
ソルヴァンはその切れ長の目を眼鏡の奥で細め、忌々しげに吐き捨てた。
「“ガット・ビターによる妨害の可能性が高い”……と」
ガットは眉ひとつ動かさず、肩をすくめた。
「監視しながら眺めてたら、妙なもんがチラついたから壊した」
「…それが、偶然悪夢の詰まった瓶だったとでも言うのか?」
「そりゃ運が悪かったな」
あくまでシラを切り通すガット。
その態度に、ソルヴァンの額に血管が浮いた。
ガットは、手にした誓約書の角で指をなぞる。
鋭い紙の感触が、呼び起こすのは“かつて誓った従属”と“これから破る覚悟”の温度だった。
「誓約書は破れてねえ。それがなによりの証拠だろ」
ひらりと古びた紙をチラつかせる。
わざとらしく。嫌味たらしく。
ソルヴァンが一歩、踏み出した。
「貴様は四律動と二年…ここで贖罪の機会を得ながら、何も変わっていない。心は未だ天使領に置いてきたままだ」
「……そんなもん、どうだっていいだろ」
「許せるものか」
ソルヴァンの声に冷気が宿る。
「貴様はあの夜、自ら罰を償いに来たはずだ。だが──蓋を開けてみれば、未練がましいことこの上ない」
「……」
ガットの唇が微かに動いたが、言葉にはならなかった。
「……ジャック・J・ジッパー、だったか?」
ソルヴァンが、わざとらしく名を呼んだ。
はじめて、ガットの眉がわずかに動いた。
誓約書を持つ手に、力が籠る。
指先が、無意識に紙をぎり、と軋ませた。
「貴様の命を守るために誇りを売った男……奴は知っているのか?貴様がここで何をして生き延びているのか」
押し殺したような呼吸が、ガットの喉から漏れる。
それでも言葉にはならない。
ただ、睨むでもない瞳の奥が、フードの下で静かに揺れていた。
「誓約書を破らなければ何をしてもいいと?」
「……」
「呆れた野蛮な思考だ。貴様のような獣が称えるその天使も、今や天使領ではバケモノ扱いを受けているとか」
ソルヴァンの口調には嘲りしかなかった。
ソルヴァンの声が途切れた瞬間、保管庫に満ちていた空気が一度“沈黙”という名の凍り付く気配を纏った。
誰も動かず、呼吸も止まったまま。
ただ、その場に控えていた悪魔兵のほとんどが、背筋に氷が伝うような寒気を感じていた。
それは、ソルヴァンの冷徹さによるものではなかった。
もっと冷たくほの暗い。
目深にかぶったフードの奥に光るコバルトブルーに宿る、静かすぎる“怒り”。
その温度が、部屋の気温すら凍らせているようだった。
「──口を閉じろソルヴァン」
ガットの奥歯が鳴った。
誰かが無意識に鍵を握りしめた。
けれどそれさえ計算のうちのように、ソルヴァンの冷たい目は細められるだけ。
「貴様が奴に向けるのは憧れか?あるいは敬愛か──まさか純愛ではあるまい?気持ち悪い」
ひとつ鼻を鳴らして。
蔑むように。こけ下ろすように。
「貴様のせいで、奴は翼を折った。天使どもは誇りを掲げるくせに、それすら捨てて──奴は、何を守ったつもりだった?」
その言葉が、静かに、しかし確実に火を灯した。
「今や天使社会の底で沈黙。すべての天使がそのバケモノを殺す準備をしているとすら聞く」
「……」
「足手まといを庇って堕ちた、ただの──“英雄のなり損ない”だ」
──ビリッ
ほんの微かな音。
それは、ガットの指先が、紙を裂いた音だった。
その音に、誰もが一瞬、耳を疑った。
紙が裂けただけ。
それだけのはずなのに、まるで世界の均衡が崩れたような気配が、空気を震わせていた。
手の中の誓約書が、断ち切るように二つに裂ける。
焦げた紙片が、黒い灰となって宙を舞い、呪詛の気配が空間に滲んだ。
破られたのは紙ではない。
それは獰猛な獣を縛るための、“枷”だった。
ガットの動きは最初、とてもゆっくりだった。
だがその“静けさ”が、逆に内に溜め込んだものの大きさを物語っていた。
呼吸が、低く、荒い。
肩が一度だけ上下する。
そして、その目が──完全に“殺す目”に変わった。
「……その名に、触れるな」
明らかな熱が篭っていた。
怒気と侮蔑と、殺意。
普段の淡々と停止した声色とは全く異なる、ガットの低すぎる声。
引き裂いた誓約書の残骸が、空中で燃え尽きる。
瞬間、時間がねじれはじめた。
世界の音が急速に遠のく──
ギィィ……ン……
金属が軋むような音と共に、空間そのものが歪んでいく。
「……ふん」
ソルヴァンは鼻を鳴らし、半歩だけ後退。
そして自らの鍵を取り出し、握り込む。
ジャラリ。
その手に漆黒の鎖鎌が現れた。
「結局、貴様の“心”は止まったままだっただけだ」
その顔は笑っていた。
だが次の瞬間、ガットが動いた。
動いた、ように見えた。
──正確には、止まりながら、“動いていた”。
ソルヴァンの鎖鎌の鎖がゆるりと床を引きずる音だけが、場に残された。
視界が点滅する。
ガットの体の機能全てが、停止と再生を繰り返す。
目が、自分の動きを追いきれない。
ガットは動きながら、瞬時に自分の“適性反転”の分析をはじめた。
止まってんのは体の機能だ。鼓動、血流、代謝はすべて停止する。
ただの一秒が、異常に長くて、静か。
視界は固定される。瞳もまぶたも動かねえ。
空気の揺れも、熱も、何ひとつ感じねえ。
でも──“考えること”だけは、続けられる。
それだけあれば、十分だ。
ガットにとって、制限がある状態での戦闘は何の障壁でもなかった。
体が動かなくても、目は開いたまま。
鼓動も血流も、すべてが凍るように静止する。
それでも、視界はある。
思考は生きている。
だからこそ──“止まっている間に考える”。
そして、“動ける一瞬で殺す”。
時間は、もう切り刻まれていた。
世界がコマ送りになるなか、ガットの戦意だけが、一直線に進んでいた。
──時間がねえ。
ここにいる奴ら全員を、“一撃で倒す必要がある”。
踏み出す足元が、“抜け落ちる”。
一歩ぶん、時間が存在しない。
動こうとしたはずの瞬間だけが、抜け落ちている。
感覚も力も記憶もないまま、次の瞬間には“戻っている”。
……これが、時間のウフの適性反転。
自分の動きそのものが、ごっそり“停止”する。
けれど、その一歩前に刻んだ“慣性”だけは、止まらない。
動作は途切れる。筋肉は硬直する。
だが、止まった瞬間までに加えた運動量は、“そのまま飛ぶ”。
刃は宙を滑り、ナイフの重量が、そのまま獲物を裂く。
音も、息も、感覚もない“虚無の一秒”。
ただ、刃だけが結果に辿り着いている。
──止まりながら、殺せる。
停止しつつも、ナイフの刃が濡れていた。
目の前には息絶えた悪魔兵がいた。
狭い機密保管庫の棚の間で、確実に、正確に、静かな獣が牙を剥いていた。
「…なるほど、時間のウフのペナルティは”止まる”のか」
冷たいようで、どこか関心が宿るソルヴァンの呟きが落ちる。
ガットはソルヴァンとの距離を正面にとる。
だが、彼は動かない。
鎖を振る音が、遅れて耳に届いた。
次の瞬間、ソルヴァンの足元から“氷”が走る。
鎌の鎖が、ソルヴァンを囲うように丸く落ちていた。
その鎖に霜が渡り、瞬時に逆さのつららが立ち上る。
それは柱のように彼の周囲を覆い、蒸気のような霧を吐きながら、雪の結晶を空気に刻んだ。
キィィィィン……
ガットのナイフが、氷の表面に触れた瞬間、弾かれるように軌道を逸らされた。
ソルヴァンを囲う氷の檻。
その中に、ナイフを差し込めない。
「…チッ」
舌打ちをひとつ。けれど止まらない。
逸れたナイフは、まるで最初からそう狙っていたかのように、滑らかに左前の兵士へ向かった。
瞬間、身体が止まる。
視界は続いているのに、動きはない。
──が、その一瞬前に軌道と位置を捉えている。
本来なら喉元を裂く刃が、間を飛ばして“結果”にだけ到達する。
停止。再生。
すでに血が噴き上がっていた。
動きの中の“穴”を、自分で埋めろ。
右後方──三人目の兵士。
適性反転の波の直前に体を倒し、その“停止”を利用して、刃の重みごと滑らせる。
刃が止まる前に、刺す。
刃が止まった時には、すでに貫通していた。
世界が理解する前に、死が訪れている不可思議。
四人目の兵士が銃を構える。
その腕を、“再生の谷間”で記憶していた。
停止直前。その一秒のあいだに、膝を折って銃床を蹴り上げる。
動かぬ時の中、記憶の軌道をなぞって銃が持ち主の顔面に跳ね返る。
再生。一瞬のひるみに刃を差し込む。
一時停止。
再開の瞬間、兵士の背は壁に叩きつけられていた。
体がまた沈黙する。
色が失われ、世界はわずかに白黒に滲んだ。
だが思考は止まらない。視界はある。
その間にも、ガットは次の動きを“決めて”いた。
すべてを補正する。
すべてを繋げる。
時間が止まるたび、“予測と記憶”で殺す。
連続するはずの時間から、“抜け落ちる一秒のラグ”。
ガットは、自分が“動ける瞬間”を先読みし、動けない時間ごと、敵の未来に踏み込んでいる。
──時間が動かなくても、死は動く。
殺意だけは、どのフレームにも途切れず存在していた。
──残り、7秒。
目の前には、まだ氷の結界に守られたソルヴァンが立っている。
その足元に、またも氷が走る。
さらに分厚い結界が展開されるその一瞬でさえ、ガットには“処理すべき遅延”だった。
踏み込む。
だが足元がまた抜ける。
風だけが、肌を撫でた。
代わりに、右足の着地を再生開始と同時に“狙う”。
次のフレームで、氷の結界が完成する。
滑り込んだ刹那、減速。
襲ってくる凍結の波を膝下で躱し、刃を抜く──
しかし、
“その一歩先”が踏めなかった。
動きが止まる。
腕は伸びたまま。
刃が、ソルヴァンの喉元に、あと数ミリ。
──ぴたり、と。
ガットの全身が凍りついた。
……届かねえ。
時間が、完全に停止した。
「惜しかったな。──あと、一秒あれば、届いたかもしれない」
ソルヴァンが低く囁く。
その足元では、氷の結界がふわりと“雪”となってほどけていく。
保管庫に立っていたのは、ソルヴァンと、ガットだけだった。
床はべったりと赤く染まり、生き物の気配は他にない。
結界が解かれたその空間から、影が、ぬるりと立ち上がる。
血の気配を持たない“新たな兵士たち”が──重力のウフで出来た鎖を無言で持ち上げる。
「だが、これで貴様は正式に“反逆者”だ。贖罪も、契約も、貴様がジャックの自由と引き換えに得た命も、ここで終わった」
そして、ソルヴァンはナイフを押し下げながら、手袋の中で、指を微かに強張らせた。
「……さあ、連れていけ。再拘束だ」
星の重さを纏う鋼鉄の鎖が、動かないガットの四肢に巻きついていく。
だがその瞳だけが、まだ“動いて”いた。
──次こそは、この空白さえも、殺してみせる。
そう告げる、沈黙の殺意が、そこに燃えていた。




