七十六層 : 決意の代償.06
適性反転開始から、およそ一時間。
病棟の地下では変わらず、地獄の蓋が開いていた。
何度巡ったか──分からない。
悪夢の中、焼け焦げた地面に膝をついたまま、凌は動けなかった。
何回、炎立つ里を見て、
何回、水に息を沈めて、
何回、翔の体を抱えて、
何回、亜月の産声を耳にしたのか。
そしてまた、目の前に広がるのは──焼けた獏の里。
崩れた小屋。転がる影。
嗅ぎ慣れてしまった焦げた肉の匂い。
そこに混ざる、甘美な香り。
けれど、ここには何もない。
ただ、過去だけが繰り返されていた。
その時だった。
黒い足音が、砂利の音もなく近づいてくる。
炎の向こうから、もうひとりの「凌」が現れた。
けれど、それはあまりに無垢な顔をしていた。
あの夜、業火の中に取り残された、幼い自分と同じ顔だった。
身体は焼け爛れ、絶望の色を目に宿した「自分」が、蹲る凌を見下ろして、首をかしげる。
「──凌」
懐かしい自分の声が、呼びかけてくる。
優しいような、冷たいような。
それでいて、温度がない平坦な声で──
「ありがとうも、ごめんも、死んだやつには届かないんだよ」
まるで、教訓でも伝えるように。
それは、悪夢の“自分”が、あまりに無垢な声で告げた、揺るぎない事実だった。
慈悲のない正論。
自分自身に、殺される感覚。
火の粉が宙に浮かぶ。
焼け焦げた地面に膝をついたまま、凌は──何も言い返せなかった。動けなかった。
何も持たず、誰も守れず、ただ生き残ったままの自分を抱えきれずにいた。
炎はどこまでも高く、死者たちの囁きが耳を塞いでも、その一言だけが、脳裏に深く焼きついた。
──誰も、お前に生きててほしいなんて、言ってないのに。
瞬間、視界が揺らいだ。
それは熱のせいではなく……涙だった。
自分でも気づかないうちに、こぼれていた。
炎の赤がにじんでゆく。
焼けた空が、やけに滲んで見えた。
……何も、聞こえなかった。
ただ、心臓の音だけがしていた。
なぜ今さら、と思う。
でも、止められなかった。
何度も、何度も何度も何度も自分に叩きつけてきた言葉だった。
種族の絶滅が確実なのに──
自分だけが生き残ってなんの意味があるのか、と。
どうして俺だけ?
どうして、母さんは救えなかった?
どうして、どうして──
涙だけが、唯一、悪夢に置いてこられなかった現実だった。
──ああ、耐えられない
あと何巡すればいい?
あと何分、何時間凌げばいい。
襲い狂う悪夢を全て食べてしまえば、楽になるかもしれない。
でも、食えば食うほど、寿命が削れる。
──でもこの命に、なんの意味がある?
自分を誤って飲み込むかもしれない。
──飲み込んでもいいかもしれない、いっそのこと。
ただ、それを許さない場所にいる。
──ドクターは絶対に死なせてくれない。
救ってもらった命を無碍にはできない。
──店長に、あの悪魔に、多くの妖怪たちに支えられた記憶が、まだかろうじて思い出せる。
でも、もう──
もう、どうにもできなかった。
……その時。
闇の中で、ほんのわずかに“風”が揺れた気がした。
焦げた空気のどこか、遥か遠くから──焦げていない“風”が吹いた気がした。
誰かの声が──
「凌……」
誰の声かはわからなかった。
けれど、その一声が、炎の色をほんの少しだけ薄くした気がした。
……まだ、終わっていない。




