七十五層 : 決意の代償.05
翔はすぐには返事をしなかった。
ユヴェも急かさず、言葉を慎重に選びながら続ける。
「お墓のこともそうだったけど……結構、知らないことが多いように見えて──」
「……」
「凌とイデラに住んでるから、そのせいかもって思ったけど、オリジン・リズムのことまで知らないとなると……ちょっと気になっちゃって……」
翔はどうすべきかと悩んで、ちらりとユヴェを見上げた。
彼女の、色の濃いゴーグルの下の目は、見つめることが出来ない。
「……ごめんね。余計なことだったら」
「…ううん」
でも、その言葉の選び方に、刺すためじゃなく、寄り添うための意図を感じた。
僕が、壊れないように。そんなふうに。
そう思えたから、翔は静かに息を吸い込み、ぽつりと語り始めた。
「……僕、一年くらい前に交通事故に遭ったんだ」
「交通事故……?」
「うん。イデラで。家族で買い物に行く途中、大型トラックが後ろからどかーんって」
「……」
「……覚えてるのはそこまで。目が覚めたら、病院じゃなくて知らない部屋で、凌が隣にいた」
「……」
「内臓破裂で、死にかけてた」
思い出しながら紡がれる過去は、予想よりもずっとずっと重かった。
ユヴェがかける言葉を見つけるより、あえて先回りするように、翔は話し続けていく。
「でも──凌が助けてくれた。あんまり覚えてないけど……たぶん、前にもここに来たことがあるんだと思う」
「そう、なの?」
「うーん……なんか、聞いてた話から、きっとドクターが手術してくれたんだろうなって、今になって思ってる」
ユヴェはそっと翔を見つめる。
小さな手のひらは震えていない。
もう飲み込んだ過去として話しているように見える。
けれど、少年の眼差しは、やっぱり少年のままだった。
「気づいたら、凌の家にいた。……僕の臓器は、悪魔のなんだって」
「それって──」
「だから……“ほとんど人間”ってこと」
ユヴェは、ゆっくりと目線を落とした。
毛布の端をそっと撫でながら、小さく息を吸い、静かに言葉を返す。
「……ありがとう。話してくれて」
ぎゅ、と分厚い耐熱手袋を握りこみながら、ユヴェは翔を優しく見つめる。
「……そんなふうに話してくれるって、すごく……嬉しいよ」
翔は、ふっと笑って言った。
「ユヴェさん、いい人だから思わず話しちゃった。でも──内緒だよ?凌には“悪魔ってことにしとけ”って言われてるから」
そして、少しだけ真剣な顔で言葉を続けた。
「……でもさ、僕──正直人間でも悪魔でも、どっちでもいいと思ってるんだ」
ユヴェは驚いたように顔を上げる。
「え?」
翔は、ユヴェを見て、それからそっと視線を落とした。
見つめていたのは、ベッドからこぼれる亜月の指先。
握られてもいないその手を、ただ黙って見ていた。
「凌とかは“種族”ってよく言うけど、僕にはあんまり、ぴんとこないんだ。目の前の人が優しいか、ちゃんと怒るか、助けてくれるかって方が、ずっと大事な気がしてる」
「……」
「そんなんじゃなくて、もっと──今、目の前にいる人がいい人なのか、その方がずっとリアルなんだ」
何の変哲もない、翔の黒い目。
それがふとこちらを向いて、思わずユヴェは息を呑んだ。
「凌は無愛想だけど誰より優しいし。ユヴェさんも、今こうして傍にいてくれてるし」
少しずつ落ち着き始めている亜月の手を握って、翔はそっと言う。
「……そういう単純なのが、僕は好きかな」
ユヴェはその言葉を、胸の奥で何度も反芻するように目を伏せた。
フォールドラークは、“繋がり”を重んじる種族だった。
けれどそれは、あくまで“どこに繋がっているか”という、位置や意味を読み取る技術。
“誰と繋がりたいか”という、意志の問題とは、少し違う。
この世界では、ずっと昔から、種族の違いによる争いが絶えなかった。
規律と秩序。誇りと戦争。不変と退化。
血に宿る越えられない壁が、常にある。
固有能力の損失は、それを余計に加速させた。
見目が揃い、種族の区別が一見つかなくなってきたからこそ、私たちは記号を掲げる。
漆黒を纏う悪魔。
肌を褐色に焼く天使。
薄い羽を隠さない妖精。
鱗刺繍の衣を、手放せないフォールドラーク。
翔の素朴な感性は、その差異にまっすぐに触れてくる。
言葉の重さではなく、ただその温度だけで、ユヴェの中の「鍵の形」を、少しずつ変えていった。
「……なんか、ずるいな、翔くんって」
ユヴェがぽつりと呟くと、翔は首を傾げた。
「え?」
「それって、すごくフォールドラークっぽくないなって思って」
「どういうこと?」
「私の種族は、星を渡る技術があるけど……それを“平等”に“共生”するために、秘密にしてることが多すぎるの」
垂れてくる濃紺の髪を、そっと耳にかける。
その横顔は、どこか寂しさが滲んでいた。
「鍵の鋳造技術も、扉の接続方法も……他にもいろんなこと。ここで、言えないこと、たくさんある」
「……」
「だから、他の“誰か”と一緒にいたい、繋がってたいって、みんな思わない。どんなに心を開いても、あるところで必ず、立ち止まらなきゃいけなくなるから──……でも翔くんは、“誰と繋がりたいか”でまっすぐ選んでる」
翔はまっすぐに頷いた。
「うん。僕は選びたいな。自分で。……怖くても、ちゃんと」
ユヴェは少しだけ目を伏せ、微笑んだ。
「それって……すごく強いよ。ちっちゃいのに、ちゃんと選べてる」
「僕、ちっちゃいかな?」
「……うん。でも、心はちょっと、私より大きいかも」
ユヴェはそっと立ち上がり、ベッドの端で亜月の毛布をかけ直した。
包まれている小さな体が、ほんの少しだけ動いた。
眠りの中で、誰かの名前を呼んだような気がして──
ユヴェはその声に、心のどこかがあたたかくなるのを感じていた。
この子は、もう “新しい星層” を生きている。
私はその鍵を、扉を、ちゃんと作れるかな。
ふっと、小さく、ユヴェの肩の力が抜けた。
「…あれ、てことは翔くんって、いま何歳なの?」
「僕?今年で11歳だよ」
「……うそ……ほんと、人類ってすごい成長力」
「それ、よく凌にも言われるよ」
その夜、フォールドラークの鍵職人ははじめて──
“繋がる”ということの意味を、計算ではなく、心で学んだ。
毛布の中で、亜月がほんの少しだけ身じろぎする。
まどろみの中、その“言葉の温度”が、きっと伝わっていた。
まだ泣き腫らした目のままだが、その表情には、ほんのわずか、確かな色が戻っていた。
やさしい沈黙が、病室を満たしていた。




