七十四層 : 決意の代償.04
毛布に包まれた亜月は、まだ微かに震えていた。
収容所に詰められていた五日間の、凍えるような不安。
だが、今あるその震えは、冷えや飢えよりも、もっと深く、心の奥から滲み出るようなものだった。
翔には、それが分かった。
──凌の暴走する悪夢の影の中にいたんだから。
いつもよりずっと怖かったはずだよね……
記憶の深部をなぞろうとするたび、脳裏に浮かぶ光景にまた心が揺れるのだろう。
毛布の下で体を縮こまらせる亜月の肩は、まだ細かく震えている。
ただ、翔には感じ取れていた。
その涙は、悪夢だけが理由じゃない。
無言で抱きしめてくれた凌の体温──
それが急に引きはがされて、扉一枚向こう側で……
壊れかけているとわかっているのに、何もできない。
だからこそ、安心と恐怖が同時に噴き出してしまってるんだ、と。
「大丈夫だよ、亜月ちゃん。もう誰も来ないよ」
「……」
「ここは本当に安全な場所だって、凌も言ってたよ」
翔の声は静かで優しい。
手にしたマグカップを、そっと彼女の手元に差し出す。
横ではユヴェが無言のまま隣に座り、そっと彼女の肩を抱いた。
翔は、マグカップを渡したまま、ぽつりと呟く。
「……凌、ちゃんと戻ってくるよね」
誰に聞かせるでもないその言葉に、ユヴェが小さく頷いた。
それでも、亜月の震えは、まだ止まらなかった。
「少しでも眠れたら……気分も楽になるよ」
ユヴェのやさしい声に、亜月はわずかに瞳を揺らす。
けれど、何も言わないまま──
亜月は静かに頷き、清潔なシーツに体を預ける。
翔が椅子を引き寄せて、枕元に腰を下ろす。
ユヴェはベッドの端に腰掛けたまま、優しい手つきで拍を取りながら、一定のリズムで背を撫でていた。
でも、横になってもなお、亜月は身を丸めたままだった。
ふるふると震える肩先に、ふたりの視線が自然と重なった。
「……ねえ、子守唄、歌ってもいいかな」
なんとも言えない沈黙を破るように、ユヴェが小さく呟いた。
返事はなかったが、翔がそっと頷いた。
ユヴェは一つ、息を吸い込むと、やわらかな声で歌い出した。
その旋律は、まるで遠い星の記憶を呼び起こすように、優しく部屋を包んでいった。
ひとつ おひさま わらうとき
むねに いのちの ひがともる
ふたつ ほしを うけとめて
まぶたの うらに よるがくる
みっつ かぜが ほほをなで
あいの ぬくもり ゆびにのる
よっつ おとが いしにしみ
こえの かけらが ときはこぶ
いつつ おもいで たねになり
ふりむいた あとに はながさく
むっつ かなしみ ふるえても
こごえる むねに ひをいだく
ななつ ちがいを ならべて
こころの かたち かさねない
やっつ そらから てがふれた
おやすみの あいず なる
ここのつ とおくで なみがよぶ
「さがしに おいで」と ささやいて
とお──やがて せかいは ひらいた
だけど きみは わすれない
──ここに いるよ みえずとも
それは“言葉”というより、
まるで──心にだけ、聞こえる音だった。
翔や亜月の翻訳機では訳しきれていない──わけではなく、
まるでその発音自体が、存在しない音の並びのせいで、うまく言葉に置き換えられないような──
そんな、不思議な歌だった。
しばしの沈黙ののち、翔がぽつりと尋ねた。
「……それ、どんな意味なの?」
ユヴェは微笑みながら、歌の余韻を抱くように答えた。
「“星層のゆりうた”って呼ばれてるの。フォールドラークのなかでは、オリジン・リズムのもとになった歌、って言われてる」
「オリジン・リズム?」
言葉の響きだけで初めて聞いたような顔をする翔に、ユヴェは少し驚いた表情を見せた。
「……知らない?“悼み月”も、ヴァルカニア祭も、十年に一度でしょ?」
翔はきょとんとしながら首を傾げた。
「……そうなんだ?」
ユヴェは何かを言いかけたが、一度それを飲み込んだ。
それから、表情をやわらげて話を続けた。
「大昔、星層が別れるのに十年かかったって言われてるの」
ぽつりぽつりと語る声は、灰色の病院に静かに染み込んでいく。
「生命と誇りのソル・ベリリウム。
死と慈悲のキング・ハーウェン。
過去と名誉のクロイツェル。
そして未来と前兆のプツカ・ポッカ。
──その四神獣によって、世界は少しずつ“星層”という形に分かれていったの」
「……へえ」
翔は感嘆にも似た声を上げた。
「もともと、星層はすべて重なり合っていた。でも、時間が経つうちに少しずつ“たわみ”が生まれて、それぞれの種族や文化が住む層へと分かれていったんだよ。その過程で、神獣たちが現れた……のか、もともといたのかは分からないけどね」
少し肩をすくめるユヴェ。
「このゆりうたは、その“星層が生まれた十年”をなぞるようにして歌われてる」
ユヴェは少し間をおいてから、穏やかに続けた。
「オリジン・リズムっていうのは、十年をひとつの“律動”と考える文化。たとえば、“三律動前”って言ったら、三十年前ってことになる」
「そうなんだ……」
翔が目を丸くする。
ユヴェはその表情にどこか微笑ましさを感じながらも、心の奥にわずかに残る違和感を覚えていた。
……知らない。知らないんだ、この子は。
けれど、知らないことを恥じるでも、隠すでもなく、まっすぐに受けとる。
それが、ただの無知より、よっぽど眩しく思えた。
その無垢さこそが、世界の“これから”を担う鍵なのかもしれない──
そんなふうに、ふと思った。
亜月の震えはようやく落ち着きかけていたが、まだ完全には眠れていなかった。
時折、小さく身じろぎしながら、夢の続きを探るように、布団の中で静かに呼吸している。
静けさの中で、ユヴェはふと、視線を翔に向けた。
躊躇うように、けれど確かに何かを決めた瞳で。
「……ちょっと、聞いてもいい?」
翔は顔を上げて、小さく頷いた。
「…うん」
「答えたくなかったら、いいの。でも……」
目を背けることもできた。でも、それじゃ駄目だと思った。
結構、繊細な話題でもあるから。
でも──
思い切って、少年の幼い眼差しを見つめ返す。
「翔くんって──
……種族は、なんなの?」




