七十三層 : 決意の代償.03
ノードへ続く自然地帯の街道──
囚人がひとり、影の中へ消えた直後のこと。
シャーディンは完全に横転状態で停止。
森のざわめきが耳に届き、視界が開けたものの、依然として悪夢の余韻を引きずったまま沈黙していた。
ぼろぼろに倒れた護衛たちの中で、ただひとり──
外に立っていたコウヤは風を払い、静かに箱の前に膝をついた。
槍は、そこにあった。
決して開かぬよう施錠された箱の中に。
だが、蓋を開けることも、触れることもできない。
相変わらず……むしろ、照射が途切れた今、箱の輪郭すら曖昧に見えるほど影が滲んでいる。
もう一歩近寄れば、この精神攻撃は──俺でもあやしい。
コウヤはじっとそれを見下ろしながら、低く呟いた。
「……獏だけじゃない」
静かに、耳を澄ませた。
あの混乱の直前、確かに──複数のなにかが一斉に割れる音があった。
雨のように、しかし精密に散った破片。
彼は立ち上がり、そりの狂った軌道を辿った。
森の影に入ったその直後、揺れた車体の滑る二本の線。
その付近に視線をめぐらせると、樹冠の隙間から差し込む光を反射する”それ”を見つけた。
ガラスの破片だ。
元は瓶のような形だったのだろう。
コルクも一緒に転がっていた。
その中のひとつに、まるで銃創のように丸く抉れて砕けた跡。
コウヤは瓶の割れた位置を確認してから、空を見上げる。
風が吹けば辛うじて枝葉が逸れて、わずかな隙間が出来る。
その先に微かに見える山。
自分だったら、射ることができるか──?
おそらく長距離武器による狙撃。
自分の弓矢とは異なるが、同じ遠距離攻撃に特化したもの。
精密なまでの的当て。
遠すぎる狙撃地点。
風や木立、そしてシャーディンの速度…あらゆるものを考慮して、ピンポイントに撃つ技術。
なにより、”同時”に聞こえた破裂音。
「……まさか、お前なのか。──ガット」
唇を引き結ぶ。
「それがどういう結果を手繰り寄せるか……お前が一番わかってるはずだろ」
風が、彼の分厚い外套を揺らす。
その音だけが、返事の代わりだった。
彼は瓶の破片の中に、もう一度指を伸ばした。
砕けたガラス片が、指先に冷たい音を立てる。
このガラスを撃ち抜く技量と、悪夢の制御──
それを“誓約の枷”をつけたままやってのけたというのなら。
「……何を、賭けてまで」
こぼれた言葉は、風に飲まれていった。
*
——すこし時は遡り、グレイロック診療所近郊の、狙撃地点。
ガットは影に身を沈めながら、静かに秒数を数えていた。
視線の先ではシャーディンが転がる。
黒い悪夢の靄に包まれ、誰が何をしているか、視覚だけでは分からない。
が、ガットはその研ぎ澄まされた嗅覚や聴覚から、気配の数を正確に読んでいた。
「……20、21、22…」
その瞬間、あいつの——凌の気配が消えた。
更に、狙撃地点から近い病院内に、なにかが転げ落ちる音を聞く。
それに合わせて、ガットは音もなく病院へと駆ける。
灰色の壁に寄り添った時、ちょうど——
「……28、29、30」
そしてドクターの声と共に、地下の重たい扉が閉まる音。
それが“適性反転の完全発動”であることは、言葉より早く体が察知していた。
「三十秒か。あいつの影移動での逃走に必要だった時間は、誓約違反からちょうど——三十秒」
静かに、空を仰ぐ。
分厚い森の枝葉の隙間から、わずかな陽光が注ぐ。
いつもなら逃げるように影を踏むガットは、そのソルの光を全身に浴びた。
「俺が同じことをしたとして……この三十秒で、どこまで行ける?」
——時間のウフ。
その適性が反転したとき、果たして“時間は停止するのか、加速するのか”。
そんな単純なことすら、裁判所の記録にはない。
ガットはポケットに両手を突っ込んだ。
その奥で揺れる、古びた金属音。
無意識に、自分の銀の鍵を強く握った。
「破棄、持ち出し、改ざん。誓約の三大違反……どれも、死神の目を逃れられない」
ブルゾンの袖口に、汗がじわりと滲む。
それに気づいた自分に、ガットは小さく笑った。
「…そもそもあいつが待ってんのかどうかさえ、怪しいがな」
思い浮かぶのは——
見飽きるほど見ていた、銀の流れる髪と、意志の強いエメラルドグリーンの瞳。
空から差し込む光の線が、天使領においてきた”あいつ”を想起させる。
ガットは音もなく歩き出した。
途中で逃走用にと隠して設置されていた、不正扉を蹴飛ばして倒しておく。
星層ってやつを剥がせなくても、座標が狂えば、使い物にならなくなる。
不法投棄も増えるよな、と踏み倒した扉を蹴って。
二枚あるうちの、残り一枚。
ウルネスの天使領——ヴェルトルクへ繋がせた扉に足をかけたとき。
ほんの一瞬、ガットは静止した。
でも、それは束の間のことだった。
すぐに扉を蹴り倒す。
でも、この一枚を踏むことは、できなかった。
「……さて。そろそろ、俺の番か」
足取りは迷いない。
向かう先は、ウルネス。
悪魔領、第一区ネスタの——機密保管庫。
森の風が、後ろから吹いた。
それは誰かに「背を押された」ような錯覚だった。
ガットはそれを、否定も、肯定もしなかった。




