七十二層 : 決意の代償.02
──パチン。
照明が瞬き、影が床から這い出してくる。
自分の影じゃない。
あまりに大きい。
「見てる」
──見られている。
壁の隙間、天井の角、医療器具の陰。
無数の“目”が、開いた。
赤く、白く、青く。
色の違うそれらが、すべて「おまえ」を見つめていた。
その瞬間、背中を“何か”に引っ張られた。
振り向いた先で、黒い腕が──影から生えた腕が、こちらへ手招きしていた。
床がぐにゃりと沈んだ。
影の中から生えた無数の指が、凌の脚を掴み、腕を縛る。
ぞわりと生えた黒い腕が、ぬめるような動きで背中を這い上がる。
「──!」
凌は叫ばない。ただ、目を見開いた。
けれど声にならないまま、そのまま影に──“引きずり込まれた”。
ぐしゃり。
重力の感覚が反転し、思考の外に何かが飛び散った。
視界が歪む。
重なる。
ぐるぐる回る。
──気づけばそこは、もう「ここ」ではなかった。
最初に感じたのは、風のにおいと土のぬくもりだった。
子どもの目線で見上げる世界。
指先が小さく、声帯が細い。
自分の背丈が、三歳児のように感じられた。
翡翠の屋根と、緋色の布が干された縁側のある、森に溶け込むような里。
木蓮の白い花が咲いていて、思い出せないほど昔のことのはずなのに──
ひどく懐かしいと、思ってしまった。
「……おかえり」
声がした。思わず凌は息を呑んだ。
とても、優しい声だった。
ゆっくり振り向いた先……そこに、母がいた。
もう忘れたと思ってた、あの声、あの顔、あの眼差し。
やわらかな手。
あたたかな匂い。
呼吸するだけで、涙が出そうだった。
ちがう。これは夢だ。
……けれど、腹の底から涎が出るような、悪夢の甘い匂いはどこにもしない。
抱きしめられた服からは、確かに、母さんの香りがした。
「かあさ──」
抱きしめ返そうとした。握っていたかった。
暖かさを手放さないように、今度こそ、強く、つよく。
でも──言葉を言い切る前に。
涙を堪えるようにまぶたを閉じて、開けた時には。
世界が、燃えていた。
目の前にはもう、火と灰しかなかった。
家が、家だったものが、燃えている。
耳をつんざく悲鳴。焼ける肉の匂い。
地面が灼け、空気が飽和している。
分かってる、分かってた。
これは夢だ。
悪夢の暴走。過去だったけど、今じゃない。
でも、
皮膚が焼けていく感覚まで、鮮明すぎる。
骨が鳴る。熱に耐えきれず、軋むように。
全身に火が這い、喉の奥から獣のような叫びが漏れる。
「……やだ……やだやだ、やだ……!」
走る。走れない。足が溶ける。
熱で視界がぶれて、もうどっちが現実なのかわからない。
母さんがいない。
あの時と同じだ。
逃げ惑う影が誰か判断もできない。
斧を持った悪魔が、誰かの頭を割った。
漆黒の服。大人の足が、赤ん坊を踏みつぶした。
「やめろ……! やめろ、やめろ、やめろ──っ!」
逃げる途中、男が目の前に立ちはだかった。
焦げた服。焦げた顔。
刃を握る手が震えている。
「殺せ」
凍えるほど冷たい声で、誰かがそう言った気がする。
でもその男──あの悪魔は、殺せなかった。
ひどく、困ったような顔で。
「……逃げろ」
焼ける皮膚の背を無理やり押して。
体が崖の下に落とされる。
どぼん、と。
水だ。息ができない。焼けた肌が急速に冷える。
沈む、浮き上がらない。肺が、うまく動かない。
そのまま視界が暗転して、意識を失うように、闇に引き戻された。
けれど、まだ、終わらない。
甘い匂いがした。
鼻腔をくすぐるその匂いが、悪夢のそれと分かっているのに。
肌を撫でる生暖かい夢が、まるで生き物の舌のようにざらついている。
目を開けていないのに、目の前で鬼灯が揺れる。
病院の淡いウフ灯が、無機質に空間に浮いていた。
朱く白く、魂を導く光が交互にゆらめく。
ひそひそと誰かが耳裏に囁く。
「可哀そうに」
店長の声だった。
「皮膚は完全には治らない」
ドクターの声もした。
でも、誰の姿も見つけられない。
灯りが怖い。
──影が怖い。
泣き叫んでも、誰も来なかった夜が、延々とつづく。
火傷の痛みが、いつまでも消えない。
包帯が巻き付く。
体温がない。暑さも寒さも感じない。
感触でさえも曖昧になった、引き攣った肌に。
どうして生き残ってしまったのか──分からない。
泣き疲れて、動けなくなった頃、誰かが影を踏んでくれた。
そこに棲む悪夢を蹴るように。
妖怪たちが、無遠慮に、でも泣きそうな顔で──次々と。
それが、救いだった。
目の前にたくさん腕が伸びていた。
人の手、獣の手、紙の手、布の手。
でも掴めなかった。
新しく背負うことが怖い。
これ以上抱えきれない。
それなのに、
誰かに掴んでほしかった。
支えていてほしかった。
繋がりを断ちたくない。
でも、もう誰とも繋がっていたくない。
ほっといてくれ。
構わないで。
見えない存在になりたい。
誰にも気づかれずにひっそりと、死ぬまでの呼吸を繰り返すだけでいい──
──ブレーキ音。
どかん、と何かが破裂した。
体が飛んでた。小さな子供。
助けなきゃ。でもどうすればいい。
抱きかかえた重みを、腕が思い出す。
ぞわりとした。
心臓が冷えた。
思い出すな。思い出すな。
でも、命がこぼれていく。
冷えていく。
意識してしまう。
死ぬってこと。
「翔……!」
名前を知らないはずだった。
いや、ちがう、知ってる。
でも、あの時はまだ、知らなかった。
ああ、そうだ、だから、ここは夢だ。
忘れるな、吞み込まれるな。
でも、足を止めたら翔が死ぬ。
走れ、止まるな、病院まで、絶対に──
転がるように扉を開けた。
ドクターを呼んだ、はずだった。
なのに、扉の先は、
また、夜の街だ。
また、焼ける臭い。
でも、里じゃない。違う街角だ。イデラだ。
灯りのない裏路地に、ひとりで立ってる。
腕が赤くない。翔がいない。扉もない。
目線が今の高さだった。
影に沈んだ街で、何かが起きている。
遠くで叫び声。怒号。
捕物中の悪魔たち。
そこを、ひとりの男が逃げてくる。
ボロ布に包まれた何かを抱えて。
──赤ん坊。
その顔を見た瞬間、
「……!」
記憶が、今と昔をねじ曲げた。
炎の中の男。
逃げる男の顔。
あの夜、自分を庇ってくれたあの悪魔──
……が、追われている。
亜月だ。──違う。
そんなはずない。
これはイデラだ。ここは、獏の里じゃない。
あの男も、あのときの悪魔じゃない。
──なんで赤ん坊が亜月だってわかった?
腕を引かれる。背を押される。
煤けた手に、“生きろ”と押される。
「ちがう、俺はそんなこと思ってない。
でも——死んだ方が楽だった。
死にたくない。でも、生きたくもない……!」
顔を覆った手が、いつの間にか赤く染まっていた。
自分の血か、誰かの記憶か。
呼吸の仕方すらわからなくなる。
影が囁く。
──なぜ、お前だけが生き残った?
──なぜ、また生きようとする?
「……うるさい……っ、俺は……俺は……!」
その声すら、涙の味にかき消されていった。
大丈夫これは夢だ。
三時間、それさえ耐えれば、もう過去だ。
肩を抱く。耳を塞いで目を閉じる。
そうやって言い聞かせようとするのに──
うずくまった先で、目が合った。
炎の中で、自分を逃がしたあの男と。
──逃げられない
たしかな絶望の色だった。
焼けた記憶。
ぐるぐると回る死者の顔。
何度目だ。いつ終わる。どこまで続く。
声を上げても、また炎が塞ぐ。
記憶が、回る。
ぐるぐると、焼かれた記憶が、皮膚の下から暴れ出す。
「殺せ」
「殺せ」
「殺すな」
「逃がせ」
「獏を殺せ」
どこからともなく、“火の中の指令”が降ってくる。
──獏の里がまた燃えた。




