七十一層 : 決意の代償.01
湖上都市リウェルタから、大扉の街ノードまで続く一本の街道。
ガットが引き金に指をかけていた、同時刻。
第四裁判官コウヤは、静かにシャーディンの座席に腰を下ろしていた。
街道を駆ける護送車は三つ。
ひとつには“悼む槍”を、ひとつには“対象”を。
そして残る一台には、彼が指揮する第四の護衛要員たち。
コウヤ自身が選んだのは、槍が安置された第一車両だった。
信頼できる部下たちが、無言で彼を囲む。
箱に封じられた神器は、大層な名前を冠していながら、明らかに“神聖”とは程遠い。
じっと目を向ければ、箱がふたつにぶれて見える。
視線を逸らせば、蓋の隙間から、誰かが覗いているような気配。
光のウフで箱の影はほとんど消したはずなのに──どこかで“闇”が蠢いている。
……ありえるはずがないと分かっていれも、気分が悪い。
コウヤはその気配から、わずかに視線を逸らした。
「……不気味な槍だ」
誰に聞かせるでもない声が、シャーディンの内部に落ちる。
死を導く神獣とは、こんなにも禍々しいものか?
──神獣キング・ハーウェンの、“悼む槍”。
その名を聞いたときから、どこか引っかかっていた。
けれど、死に対する“恐怖の具現”と考えるなら、槍に近付ける者が多くないのは納得出来た。
それは、悪夢の結晶がこびりついていることだけが理由なのか。
あるいは、もともとそういうものなのか。
コウヤには分からなかったが、そこにハーウェンの“慈悲”が宿るようには思えなかった。
やがて、リウェルタの関所が背後に遠ざかる。
並列していたシャーディンがひとつずつ、縦列に整列した。
その先に広がる、自然地帯の深い森。
木々の影が、車列を一口で呑みこもうとしていた。
この先が最も危険だと、全員が理解している。
だからこそ、完璧な布陣で挑む。
鍵を手に取る音だけが、重く、車内に響く。
コウヤの手の中──黒鉄の鍵が細く伸びた。
黒地に銀の筋が走る長弓が、弓懸用三本指のグローブ上に浮かび上がる。
風のウフが、弦の先端をわずかに震わせている。
──いつでも撃てる。
森の気配が一層深くなるその瞬間、コウヤの瞳が細められた。
その時だった。
──音がした。
それは風にまぎれた小さな破裂音だったはずなのに、自然地帯の樹冠の下では、
まるで、森の心臓が砕けたような響きに聞こえた。
一度に五つ。
ぴし、と。ぱしん、と。ぱりん、と。
不揃いで、それでいて完璧に“同時”だった。
コウヤの耳がその音を拾う、ほんの刹那前。
異変に最初に反応したのは、座席の下──暴れる“槍”だった。
「……!」
箱に封じられているはずの”悼む槍”が、
まるで何かに呼応するように、 軋んでいる。
その直後──
視界が、落ちた。
空が黒く染まったわけではない。
世界そのものが、暗闇という名の中に沈んでいった。
頭上からではなく、足元から。
光を覆い隠すように、重たい影が沸き上がる。
風が止んだ。鳥が鳴かなくなった。
草木の匂いが遠ざかる。
そこにあったのはただの沈黙ではない。“拒絶”だった。
森が、すべてを拒んだ。
誰も何も見えなくなるほどの、圧倒的な拒絶。
そしてその闇の中に、
護送車──シャーディンが、突っ込んだ。
冷気が足元から這い上がり、影が“浮き上がって”くる。
悪夢だ。
瞬時に判断し、コウヤは目を閉じた。
同時に、風のウフが弦を鳴らす。
視界を捨て、気配で矢をつがえる。
「おちつけ──配置を崩すな!」
だが、その声はすぐに悲鳴にかき消された。
別のシャーディンから誰かの叫び声が上がる。
悪夢に呑まれた者たちの幻覚が暴走を始めた。
隣に控えていた部下が転げるように立ち上がり、コウヤの肩にぶつかる。
シャーディンの制御を担っていた悪魔が、我を失って外へ飛び出す。
制御を失った車体が、ぐらりと傾く。
その直後──
衝突音。
後方のシャーディンが、一台目の側面に激突。
鉄と鉄が軋み、弾けるように転がる。
二台目が木に激突する音。
三台目も巻き込まれ、バランスを崩して横転。
「……チッ」
背後からの衝撃を受け流し、シャーディンの外へと飛び出す。
コウヤはすぐさま弓を引いた。目は──開けない。
この闇では、“視界”の方が足を引っ張る。
だが、視界を閉ざしたからといって、すべてを防げるわけではない。
何かの囁き声が、耳の裏に直接、染み込んでくる。
握っているはずの左腕とは別に、なにかが肩から生えているような感覚。
ぬめっとした、生臭い息が、鼻先にかかる。
それでも──
確実に近づいてくる気配を、風の流れが教えてくる。
空気が揺れた。
風のウフが、矢を放つ“方向”を、確かに示していた。
左後方。
混乱を極めた地獄の空間の中で、
ただひとつだけ──確かな意図をもって動く“気配”があった。
コウヤは即座に矢を引く。
放つのではない。“落とす”ように、真上へ。
弓から放たれた漆黒の矢は、風を読む。
空を裂きながら、その軌道を鋭く、曲げた。
ヒュッ、と。
空が鳴いたその次の瞬間──
その矢は、後方にいた“何者か”──
影の中から現れたその“ひとり”の肩を、正確に貫いた。
「っ……!」
肩に激痛が走った瞬間、凌の視界が白く弾ける。
風を裂いた矢は、まるで狙いすましたかのように──
左の肩を、貫通していた。
視界を覆うのは、瓶から溢れた悪夢。
その悪夢がシャーディンを包んだ“直後”──凌は、亜月の影から姿を現していた。
すぐさまその体を抱き寄せる。
氷漬けの鍵ごと、亜月の体を自分の影へと“落とす”。
重力ウフの鎖もろとも、亜月は──悪夢に沈んだ。
その一瞬の隙。
矢は、確実に肉を貫いていた。
左腕がだらりと垂れる。
肩から血が滴り、悪夢に溶けていく。
「……くそ……!」
ウフの適性反転が、じわじわと始まっていた。
自分の影の中の悪夢さえも、ウフの暴走に巻き込まれ、濃度を増して溢れ出てくる。
拳を振るって、視界の靄を裂くたびに──夢が、蠢く。
蛇のように巻きつく記憶と嘘と恐怖。
悪夢が、凌自身までも吞み込もうとしている。
凌は、普段は閉じている右目──金の瞳も開いた。
紅い左目は、恐怖の空間に霞んでいる。
だが、金の右目だけは──はっきりと、それを捉えた。
衝撃でシャーディンから放り出された、黒く、長い箱。
重く閉じられているはずのその箱からも、悪夢が滲み出ている。
辺り一体を包む悪夢の密度は──異常だった。
行く手を阻むように、悪夢の靄の中に目玉が浮かぶ。
幼い手が、凌の服の裾を掴む。
伸ばす自分の腕が、“折れて”見える。
燃えていないはずの身体から、焦げた匂いが立ち上る。
誰かが「たすけて」と、耳元で囁く。
……このままじゃ、全員、共倒れだ。
「間に合え……!」
肩を貫いた矢を無視し、悪夢を裂いて──
目の前の“悼む槍の箱”へと、腕を伸ばす。
だが。
ギィンッ!
矢が、もう一本。空気を切った。
かろうじて体をひねって避けたが、右腕を掠めた刃が、血を弾いた。
このタイミングで──“狙われている”と確信した。
完全に、見えている。
風の矢の軌道は、もはや“風そのもの”が意志を持って狙ってきているかのようだった。
凌は、すぐに判断する。
槍は──無理だ。
影に飛び込むように、背中から倒れ込む。
上下逆さまの影の中。
制御を失い蠢く悪夢に絡めとられながらも、耳を押えて蹲る亜月のもとへ、身をかがめる。
そのまま、彼女をしっかりと抱きかかえた。
影の深奥。
暗黒の中で、唯一抜けるように白い“抜け穴”を探す。
翔の影──
壁に落ちた、強い輪郭を持つ黒。
あった。
「──!」
その影に向かって、跳んだ。
「……凌っ!」
翔の声に、部屋の空気が揺れた。
雨のように降る悪夢の残響をすり抜けて、病棟の地下──
翔が壁に投影した影から、凌と亜月が転がるように現れた。
「凌!!」
「亜月ちゃん!!」
ユヴェと翔が同時に駆け寄る。
すぐさまヒヨが、翔の影を広げるために使っていた照射器の電源を落とした。
シマが亜月の腕に巻き付く鎖を、無理やり引きちぎる。
凌の肩には矢が刺さっていた。
矢柄からはじわりと血がにじみ、白い服をゆっくりと赤く染めていく。
亜月は震えながら凌の腕にしがみつき、涙とともに怯えの息を吐いていた。
悪夢の霧に呑まれたその身は、目に見えない影をいまだ引きずっている。
ユヴェがすぐさま、赤く濡れた凌の肩に布を当てる。
「っ……くそ、しくじった……」
凌が、ぽつりと呟く。
「亜月ちゃん!大丈夫?ねえ、しっかりして!」
翔が駆け寄ってブランケットを取り、サブが手早く薬湯を準備する。
けれど、亜月は反応しなかった。
──声が聞こえていない。
凌のカーディガンを掴んで、嗚咽をこぼすことしか出来ない。
そんな彼女の頭を肩口によせて、凌は子供あやす様に背中を撫でた。
「……大丈夫。ただの夢だ」
ゆっくり繰り返される優しい手の動きに、次第に亜月の強ばった肩が解けていく。
凌がまぶたを閉じて大きく、長い息を吐いた。
ほんの一瞬の安堵。
──でも、終わりじゃない。
「凌、影が……!」
翔の声が震える。
凌は自分の影を見た。
揺れている。いや、膨らんでいる。
明らかに、自分の影の形ではなかった。
ドクターが怒鳴るように命じる声が背後で響いた。
「全員、退避しろ!」
咄嗟に亜月を突き放した。
誰かの靴音。
バンッ、と、空気を裂くように地下処置室の扉が閉まった。
音が跳ね返り、地下の空気が一瞬で変わる。
息を呑むことすら忘れたまま──
そして、静寂──
……と思ったのは一瞬だった。




