七十層 : 静かな導火線.04
鬱蒼とした自然地帯の樹冠を、風が撫でる。
静かで、だが緊張に満ちた気流だった。
木々のざわめきの奥で、一羽の鳥が飛び立ち、それさえも何かの合図のように思える。
グレイロック診療所近郊。
ガットは裸眼のまま、遥か前方の街道を見つめていた。
肉眼では不可能なほどの距離──
だが彼のコバルトブルーは、既に“屋根付きのそり”──シャーディンのスキー板を捉えている。
……護送車が近づいてくる。
時間通りだ。
「──来たか」
低く呟き、自前の銀の鍵を指先で回す。
鎖を渡す双子の影の意匠。神獣シアー。
──依存、束縛、そして解放の象徴。
その形が静かに変わっていく。
まるで彼の性質を示すように音もなく。
黒く冷たく、それでいて手に馴染む。
──スナイパーライフル。
無造作に構えながら、スコープは覗かない。
森の風の流れに耳を澄ませ、視線は一本の線のように遠くを射抜いていた。
彼の視界には、道端の影に沈む“悪夢の瓶”が五つ。
瓶が割れれば、凌が“亜月の影”から出現する。
……まだ、その気配は病棟の中にある。
そして、よく見えすぎるからこそ気づいていた。
遠く、丘に立つ二つの影。
ひとりは黒髪、もうひとりは藍色の短髪。──リリーとエノワール。
「……悪魔ってのは、どいつもこいつも良い子だな」
それは皮肉だった。
襲撃の可能性に気づいていながら、定時にしか動けない。
事前に決められたルートを、決められた数で、決められた時間に通り過ぎる。
それでも通せると信じられているのは、コウヤの守りの腕があってこそだ。
──でも、それだけじゃない。
それは悪魔社会で培ってきた、自分の“信頼”の証でもあった。
長年共に任務に就いてきたリリーとエノワールは、ガットの指示した場所で、待機という言葉を守っている。
それこそが、ガットにとって一番ありがたく、そして一番──
厄介なことだった。
でも、その“信頼”や“敬愛”で腕を鈍らせるほど、彼は甘くなかった。
金の賽子の出目に文句を言うような、甘ったれた心は元々持ち合わせてない。
──決めたなら、あとは最後まで進むしかねえ。
瓶を撃つだけなら、誓約破りにはならない。
”怪しい何か”を排除したにすぎねえ。そう報告するだけだ。
──さあ、時間を進めろ。
自分に言い聞かせるように、ガットは引き金を引いた。
その瞬間、世界が緩やかに、時間を忘れた。
風の動きが鈍くなる。
木々の揺れが遅く、むせかえるほどの土と草の匂いさえ、遠のいていく。
時間が──“折れ”はじめた。
狙撃姿勢のまま、ガットの瞳がわずかに細まる。
視界の中、五つの影──悪夢の瓶──が、それぞれに異なる距離と角度で森に沈んでいる。
通常なら、狙撃するたびにその弾は異なる速度で、異なる軌道で、異なる時間で届く。
だが、ガットは違う。
初速を制限し、空気の抵抗を計算し、最終到達時刻だけを“揃える”。
一発目。
音も立てず、揺れる枝葉の隙間を真っ直ぐ弾丸が突き進む。
けれど、それは的に近づくほど、時間が”遅くなる”。
狙う、撃つ。狙う、撃つ。
引き金をなぞる指先が、次の弾道と着弾時間を“計る”ように動く。
銃身からは確かに発射される。だが──
世界が追いつけていない。
その世界に彼だけが、静かに存在していた。
発射された弾は、それぞれほんの少しずつ前に進んでは、空中でかすかに“たゆたう”。
五発目を撃ち終えた瞬間──
五つの弾が、空中でまるで“同じ拍”に合わせて並んだように、互いの速度を止めかけていた。
ほぼ停止に近い速度。
けれど、”的までの距離”は正確に計算されている。
それはまるで、目には見えぬ糸で“未来の着弾点”に引かれているかのようだった。
ガットの呼吸が、ひとつ落ち着く。
風の速さが戻る。木々がざわめき、匂いが鼻をつく。
そして──すべてが加速した。
時の帳が一気に剥がれた。
パリン、と。
乾いた破裂音が、”完全に同時”に、空気を貫いた。
それは五つの時間が重なった音だった。
瓶の割れた瞬間、森の奥で何かが目を覚ました。




