七層 : 夢を食う男.06
凌は新聞を広げたまま、視線すらこちらに向けずに言った。
まるで天気の話でもするように、静かに呟く。
けれどはっきりと言い切った彼の言葉は、亜月に大きな衝撃を与えた。
普通であることに、そこまで過敏な方ではなかったと思う。
でも「普通の人間じゃない」と告げられると、言いようのない不快感が沸き起こる。
さすがにバカにされてる。
こんなデタラメな話に付き合う必要なんてない。
恐怖や困惑よりも苛立ちが勝りそうになった。
けれど、それを察知したのか、翔が困ったように眉根を垂らした。
「正直、どうするのが一番いいのか、僕も凌も悩んでるんだ。だから慎重に話を進めてるの」
「……」
自分より明らかに小さな子供に、そこまで言われてしまうと気が引ける。
苛立ちは残る。
けれど、翔が真摯に説明しようとしてくれているのは事実だった。
亜月は文句を言うために開きかけた口を、仕方なく閉じた。
「…話せることが限定されてるってこと?」
一から十までベラベラ話すつもりはないことは、ふたりの様子を見ればわかる。
なにか、理由があるのかも。
「……なんでそんなに隠すの?なんか、遠回りっていうかさ…」
人に言えない事なら、そもそも私をここに連れてくること自体がおかしいじゃん。
咎めるような口調になってしまい、翔は困ったように凌に目配せした。
まるで何かの許可を得るような仕草だった。
けれど、凌は目線を新聞からあげもしない。
……どうやら許さないという意味らしい。
「…ごめん、隠したくて隠してるんじゃないよ。隠さなきゃならないんだ」
「誰から?」
「──黙っとけって言ってくる奴らがいるんだよ」
「……」
困ったように眉を垂らす翔に比べ、凌はぶっきらぼうに答える。
…だから、それを教えて欲しいのに。
なかなか的を得ないというか、要領が悪いというか。
何一つ確信的なものを得られずに歯がゆい気持ちになる。
でも、どうやらお金目当てでは、なさそうな気がする。
油断は出来ないけど。
「でも、今の時点で全部話すのは、僕らにもリスクがあるのも事実だし…」
再び翔がちらりと凌を振り返った。
ソファに腰掛けたまま、その紅色の目は新聞に向けられている。
少しの沈黙。
その後に、凌がため息のように言葉をこぼした。
ようやく、ちらりと彼の紅い目がこちらを向いた。
壁にかけられている小さな時計を指さして。
「……とりあえず飯でも食べたら。長くなる」
凌の言葉で、一度その場はお開きになった。
*
そうはいっても、家に帰れるわけでもなかった。
相変わらず、目の前のローテーブルに置き去りにされているスマホ。
それに手を伸ばせないまま、亜月は、キッチンへ消えていった翔を見送った。
こんな訳が分からない話をしてたはずなのに、突然“飯”って……
急に日常が混ざると、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
でも、凌や翔の態度を見てると、自分の方が常識知らずみたいな気がしてくる。
得体の知れない相手とふたりきりという状況が、息を詰まらせる。
しかし、翔は予想より早く部屋へ戻ってきた。
その手に、よくあるお惣菜を持って。
「亜月ちゃん、何がいい?色々あるよ!」
「……もしかして、いつもこんな感じなの?」
「あ、揚げ物じゃないほうがいい?ポテトサラダはたしかあったはずだけど…」
再びキッチンへ向かう翔を追いかける。
冷蔵庫の中を一緒に覗けば、いくつかの惣菜パックとペットボトルの水。
それと申し訳程度に残った卵や調味料。
そして、おそらく翔のものだろう、扉のポケットにはオレンジジュースの飲みかけと、大量のチョコレートが詰め込まれている。
ここに連れてこられてからずっと、何も分からず、ただ話を聞くだけだったし……
せめて、何か自分から動いてみたほうが、少しは落ち着くかもしれない。
「…お米とか、ある?」
「パックご飯があるよ」
「オムライス……作ってあげようか?」
「いいの?!」
他人の家のキッチンの使いづらさに戸惑いながらも、亜月は無心で卵を溶いた。
…ここ、全然使ってないみたい。
ガスコンロも、調理台も、汚れひとつない。
唯一シンクだけが、たまに使われている過去を示すように、水滴を残していた。
有り合わせで作ったオムライス。
それを手に、にこやかにダイニングテーブルへつく翔。
でも、椅子は二脚しかない。
凌はソファに寝転がっていて、立ち上がる素振りもみせないので、とりあえず残りの一脚へ亜月は腰掛けた。
「あ、凌の分も作っちゃった?」
二皿手にもつ彼女をみて、翔が「先にいえばよかった」と申し訳なさそうに漏らした。
「凌は普通のご飯を食べないんだ」
「え、そうなの?」
「うん。飲むのも水くらい」
「そう、なんだ…」
節々に散りばめられる、非常識。
それがあまりに当然のように言葉や行動に現れるから、どこまでお芝居なのか分からない。
事実、凌はふたりが食べ始めても、全く動く素振りを見せなかった。
薄いまぶたを閉じて、眠っているのか、静かに呼吸している。
甘いケチャップ味の赤と黄色をスプーンですくう。
いつもと変わらない自分の味なのに、飲み込むのに苦労した気がした。
「…そもそも、その“層”っていうのがよく分かんないんだけど……」
育ち盛りの翔は、あっという間に自分の皿を空にして、凌用に作った皿を引き寄せる。
それを横目で見ながら、亜月はゆっくり言葉を選んだ。
「…だよね。じゃあ、ちょっと簡単に説明するね!」
翔はスプーンを置き、何かを思い出すように宙を見上げた。
少し考えたあと、手をひらひらと動かしながら話し始める。
「うーん、つまりね。世界って、こう、一枚の地図みたいになってるわけじゃなくて、何層にも分かれてるんだ」
「…何層にも?」
「そう。たとえば、いまいるのは『イデラ』っていう層で、人間しかいない。でも、他の層には天使や悪魔、妖怪みたいな異種族がいる。だから、人間の常識が通じるのは、この層だけってわけ」
「──は?」
スプーンを持つ手が止まる。
亜月は思わず顔をしかめた。
……理解が追いつかない。
「だから…うーん…地球儀を思い浮かべてみて。で、その地球儀の表面に、人間が暮らしてる普通の世界があるでしょ?」
「……うん」
「でも、その他にも違う世界があるんだよ。普通の人間には見えないけど、重なって存在してるの」
翔が指を何層にも重ねて見せる。
説明はシンプルなはずなのに、亜月の頭の中ではハテナががどんどん増えていく。
そもそも、そんな”層”が存在するなら、宇宙へ行く途中で気づくと思うんだけど?
「あ、でも物理的に重なってるわけじゃないよ!成層圏にあるとか、そういうんじゃなくて、別次元?にあるって感じ。正確には、たぶんちょっと違うけど」
まるで彼女の心の内が見えたかのように、翔は慌てて手を振った。
「それが星層の仕組み。でも、層同士は普通は行き来できないんだ。だから『鍵』が必要になる」
「鍵……?」
「普通の人間は層を移動できない。でも、僕たちは“鍵”を使えば移動できるんだ」
「これだよ」と翔が白衣のポケットから小さな鍵を取り出した。




