六十九層 : 静かな導火線.03
湖上に建てられたリウェルタの街は、大扉の街ノードより、西にしばらく街道を伸ばした先にある。
星層の大扉ができたばかりのゼノラ層では、異種族たちの領土争いが長らく続いた。
その頃の要塞──それが、都市として残っていた。
多くの要塞は、戦争と風化で失われた遺跡となった。
今では神獣が棲むための場所として伐採が禁じられ……
深い自然地帯に呑み込まれたまま、姿を消している。
残った要塞都市のうち、ひとつ──湖上都市リウェルタ。
過去の要塞の名残をとどめる唯一の吊り橋は、今も跳ね上げ式で、通行時以外は常に閉じられている。
その名の通り、青緑に澄んだ湖の上に、土もなく浮かんでいる。
湖の底は見えず、深く、暗い闇が続く。
その仄暗は、神獣フーナルースの漏刻によって溜まったものとされていた。
時間の象徴である神獣の、湖水の棲家。
故に、この街ではそこかしこに水音が響いている。
その収容所内は──あまりに静かだった。
独房の壁に背を預けて座っていた亜月は、静かに膝を抱えていた。
冷たい石の床。鉄臭い空気。
どこからか、絶え間なく水音がする。
ぽたり、ぽたりと、まるで時間の代わりに落ちてくる雫のように。
「……いま、何日目だっけ……」
独り言すら、自分の耳に届かないほど掠れていた。
小さな窓からは、わずかな光しか届かない。
朝か夜かも分からない。
差し入れられる食事の間隔だけが、時の流れを教えてくれる。
パンは固く、スープは味気なくてぬるい。
でも、それを残したことは一度もなかった。
食べなければ、どこかへ行ってしまいそうで。
その「どこか」は、きっと二度と帰ってこられない場所だ。
鉄の扉の小窓から、時々足音が近づいてくる。
重く、均等な足音。悪魔兵のものだ。
亜月は自分の影を見た。
細く、壁に這うようなその影が、まるで何かに繋がっているように思えた。
ここにいることを、誰かが知っていてくれたらいい。
そう願わずにはいられなかった。
悪魔たちは、まったく無駄な話をしなかった。
しかしそんな中でも、護送の話は聞こえてきている。
慣れない発音で呼ばれる、自分の“アツキ”という名前。
その度に、彼女は自分の膝を抱き込んでいた。
でも、それももう終わる。
ついに今日、もうすぐ──ここを出るらしい。
「……凌…翔くん……」
ぼそりと名前を呼んだ。
行き先は“裁定の塔”というところ。
──そこへ入ったら、もう、自分では出られない気がした。
「……やっぱり……怖いよ……」
そう呟いたそのとき、影がほんの少しだけ揺れた気がして、目を見開いた。
気のせいかもしれない。
でも、そのわずかな揺れが、ほんの一瞬でも、凌の影の揺らぎに見えた。
何度か落ちた彼の影の中。
そこはおぞましすぎて、二度と潜りたいとは思わないけれど……
でも、今だけは、温度ももたないその影が「きっと来てくれる」──そんな希望に思えた。
亜月はもう一度、影に向かって囁いた。
「……助けて…」
壁の高い位置にとられた小さな窓。
外から吹き込む風に、蜘蛛の巣が揺れていたが、彼女が気付くことはなかった。
*
不意に、鉄の扉が、低い音を立てて開いた。
その音が響いた瞬間、亜月の体は小さく跳ねた。
壁にもたれていた背が離れ、緊張で固まった膝がぎこちなく伸びる。
数人の悪魔兵が無言で部屋へ入ってきた。
ひとりが足音を立てずに近づき、何の感情もない手つきで、彼女の両手首に鎖を巻いた。
カチリ。
重みが腕にずしりと落ちる。
金属ではない。もっと柔らかく、もっと重い。
──重力のウフの鎖。
手を持ち上げるだけで、地面に引き戻されそうになる。
まるで、「逃げるな」と重力そのものが囁いてくるようだった。
「歩け」
悪魔兵の声は淡々としていた。
抗う理由はどこにもなかった。
亜月は言われるまま、独房の外へと足を踏み出した。
背後に閉まる扉の音がしても、振り返る余裕もなかった。
それが最後の“独房”の音だったのか、自由への扉だったのか……判断する力もなかった。
久しぶりの外気を吸い込む。
でも、それは思っていたほど自由ではなかった。
風はあるのに、動くたびに鎖が擦れる音がする。
空は広いはずなのに、まるで全方向から見張られているようだった。
来るときは目隠しをされていたから、わからなかった。
そこが、湖の上に浮かんでいることに。
足元はところどころが透明だった。
ガラスのような透ける何かが、青緑の湖上の底を見通すように点在している。
ノードの街のように、都市は全体が高い壁に囲われている。
この街の温度が、すべてこの壁の内側に凝縮されているような。
そして、その積み上がった煉瓦の色までもが、全て黒かった。
はるか昔から、ここが悪魔たちの要塞であったことを示すように──煉瓦ひとつひとつが、夜の記憶を宿しているかのようだった。
街中のあらゆるところで、湖の水を汲み上げ、落とす、漏刻があった。
螺旋を描くように突き上がるそれらは、一見すると美しい。
黄金比のように無駄がなく、水であることを忘れるほど、正確な時間が流れている。
収容所の裏手に出された亜月は、要塞の壁とはまた別の壁の中にいたことに気がついた。
…刑務所の壁みたい。ちょっと、低いけど。
でも、越えていくことはできそうにない。
その壁の上部に、転々と金色に輝く球体が設置されていた。
潔癖なほど等間隔に並ぶそれは、微かに熱を帯びていた。
目に見えぬ電流が、まるで「越える意思」そのものを焼き払うようだった。
護送用だろう乗り物が、収容所裏にいくつか並んでいた。
──そり…?
悪魔兵に連れられながら、亜月はそれを眺める。
黒く鈍色にひかる、鉄のような冷たさと、重さが伝わる車体。
車輪ではなく、スキー板のようなものを履いた、大きなそりだ。
けれど、屋根が付いている。
……屋根の方が、車体より頑丈そう。
上からの攻撃を見越しているのか──亜月にはわからなかった。
そのそりの周囲には、黒衣の悪魔兵たちが数倍の数で囲んでいる。
……なんで、こんなに……?
理由は教えられていない。
ただの護送。そう言われた。
でも、様子が違う。
まるで、自分が何か“大きなもの”の中心にいるかのようだった。
そのときだった。
視界の端で、別のそり──シャーディンに何かを乗せているのが見えた。
大きな、黒い木箱。装飾も印もない。
ただ、厳重に封じられた箱。
けれど、それを持ち上げている悪魔兵たちの顔が──おかしい。
苦悶のような表情。
片膝をつきそうな者もいる。
ふらつく手元から、黒い靄が立ちのぼっているように見えた。
それが、“何かを喰らっている”ような錯覚に襲われた。
……あれって……悪夢……?
胸の奥がざわついた。
凌の足元から、時折滲んで見えた靄。
彼の影に棲む“それ”の、あの冷たくて、どこまでも深い世界。
……もしかして。
もしかして、凌が来てる……?
確信なんて、ない。
でも、ほんの少しだけ、影が揺れた気がした。
風が吹いただけかもしれない。気のせいかもしれない。
けれど、希望は、音を立てずに心に灯る。
……来てくれるの?
唇が震え、何か言いかけた。
けれど、その瞬間、背中を押される。
「乗れ」
悪魔兵に促されて、シャーディンの扉が開く。
内部は暗く、座る場所は固定され、足元に重りが据えられている。
一歩、乗り込むと、鎖が床に繋がれた金属に絡め取られた。
完全に“固定された”音がした。
背中の扉が閉じられ、光がひと筋、線のように落ちてきて──
それさえも、やがて閉ざされた。
漆黒のシャーディンの中。
目の前と両隣を、無言の悪魔兵三人が囲んでいる。
そのうちの一人の手には、氷の球体の中に凍結された、自分の鍵。
座った座席でさえも、まるで感情を拒むかのように、凍えるような冷たさだった。
亜月は静かに、膝の上に手を置いた。
震えていなかった。
でも、心は、今にも何かを掴みたがっていた。
たとえば、あの影の気配。
あの、見えない悪夢の揺らぎ。
たとえば、凌の名を。
あるいは、誰かの声を。
ふいに、街のすべての漏刻が音を立てた。
流れていく水音ではなく、雨のようなバラバラと降る音。
分厚いカーテンが引かれたわずかな隙間から、外を覗き込む。
都市の中心に聳える時計塔の文字盤が、ちょうど正午を指しているのが見えた。
鐘の音が鳴ったわけではないのに、耳の奥に響くような気がした。
そりが動き出す。
重力も摩擦も感じさせない、滑らかな動きで。
亜月は自分の手をしっかり握りしめた。
もう一度だけ、心の中で呼んでみた。
……助けて
声にはならなかった。
──でも。
足元に落ちる自分の影が、ほんのすこしだけ、揺れた気がした。
見えないはずの誰かに、触れられたように。




