六十八層 : 静かな導火線.02
大扉の街“ノード”に古くから存在する、最古の建物。
フォールドラークの鍵屋──
そこは今日もウフの輝きや神獣のモチーフに彩られ、沈黙には、神聖さと緊張が混じっていた。
澄んだ空気に満ちた空間。
けれどその前室に、黒い外套を纏った悪魔がひとり現れた瞬間、空気はわずかに揺れた。
開け放たれたままの扉の向こうから、工房で槌を振るっていた職人たちの視線が集まる。
鍵屋を訪れる悪魔は珍しくはないが、裁判所の所属となると話は別だ。
それぞれの立場上、神聖な沈黙が緊張感を孕む。
「第六裁判官付き、エノワールです」
堂々と名乗ったエノワールに、工房の入り口付近に立っていた神官が、わずかに眉をひそめた。
濃紺の衣の裾を正しながら、神官は無言のまま長身の悪魔を見上げる。
エノワールの体は全身黒に包まれて大きく、見た目は明らかに男だ。
だが、その口ぶりにはどこか女らしさを思わせる、柔らかい響きがあった。
けれど、それは決して“甘さ”ではない。
神官を見下ろす彼の瞳は、どこまでも静かだった。
神官がわずかに眉をひそめても、エノワールは意に介さず、外套の内側からひとつの封筒を取り出した。
漆黒の封筒に、銀で描かれた惑星の円環紋様。
それは、正式な裁判所からの書状であることを示していた。
封筒を受け取った神官は、目を細める。
ただの紙切れのはずなのに──そこには、場の空気ごと圧すような“重み”があった。
「ユヴェ・セルトゥーについて、お話が。責任者をお願いできますか?」
ユヴェの名が出た瞬間、工房内に小さなざわめきが起きた。
「ついに何かやらかしたか」──釜の炎に照らされながら、職人たちが囁き合う。
そんな中、工房の奥から一人のフォールドラークが姿を現す。
色の濃いゴーグルと、分厚い耐熱服に身を包んだ壮年の男──メテオ。
彼もまた屈強な体を持っていたが、エノワールと並ぶと、わずかにその影が薄れる。
代々工房を継いできた古参の鍵職人であり、現・鍵屋の責任者。
そしてユヴェの師でもあった。
「……あの子が、何か?」
眉根を静かに寄せて問いかけるメテオに、エノワールは穏やかに微笑んでみせた。
「最近の彼女の動向について、いくつか確認させていただいてもいいかしら」
「…何もおかしなことはないが?」
「そう。──でも、今日は彼女の姿が見えないわね」
ちらりと工房内を覗くエノワールの瞳。
その動きを、メテオは遮ることなく、むしろ静かに睨み返す。
ゴーグルの奥の眼差しは、熱ではなく、明確な拒絶の色を帯びていた。
エノワールは、彼女がどこにいるのかを知っている。
今朝方、ガットから聞かされた情報──グレイロック診療所へ入ったという話だ。
あれから、まだ二時間。
病院の敷地内からは、誰ひとり出てきていない。
……けれど、この様子を見るかぎり、どうやら工房側にはそのことは知られていないらしい。
工房の奥からも、ざわめきが再び広がる。
職人たちの間を、不安とも困惑ともつかない視線が飛び交っていた。
まるで、彼女の姿を探しているように。
「ユヴェの何を調べてるんだ?」
明らかな敵意を含むメテオの声。
それに対してエノワールは、肩をすくめて、あえて軽く返す。
「それはまだ明かせないわ」
「……ここはお前ら悪魔が『第三禁足地』に指定したはずだ。鍵の鋳造依頼、鍵帳簿の調査……それ以外に、裁判所の悪魔どもは立ち入らないと」
吐き捨てるような口調に、エノワールはさらりと応じた。
「そうね。でも──」
神官に渡した封筒へ、さりげなく視線を投げる。
そこに記された紋章は、裁判所からの正式な命令書に他ならなかった。
「裁判所からの“形式的な”要請があるのよ。だから──形式的に、部屋を確認させてもらうだけ」
それは昨日、ハーウェンの時間を迎える直前、ソルヴァンから直接手渡されたものだった。
ユヴェはフォールドラークの鍵職人。
もし彼女が獏に肩入れしているとしたら、黙って通せる話ではない。
なかなか尻尾を出さない凌はガットに任せ、
──鍵職人の方から、揺さぶれ。
それが、ソルヴァンの指示だった。
……そりゃそうよね。
この種族の在り方一つで、世界はいくらでもひっくり返るんだから。
それに、この封筒があったとしても……
こういった“正規の手筈”はガットにはできない。
第六の影は、あくまでも“いないもの”として扱われているのだから。
いつものガットなら、静かに情報を集めるのに二日……長くて三日しかかけないはず。
それなのに、今回はいつまでも手をこまねいている。
……それも理由のひとつでしょうね。
そんなことを思いながら──
メテオは神官から書類を受け取り、中身を流し見る。
そして、そのまま目の前の巨漢を睨みつけた。
「確認だけ」と言いながら、この男はすでに“有罪”の空気を纏っている。
“見つける”というよりも、“見つかったことにする”。
その覚悟を、エノワールの指先は、隠そうとすらしていなかった。
メテオはしばしの沈黙ののち、頷いた。
「……いいだろう。だが、中に入っても大したものはない。あの子のことだ、どうせまた勝手に出歩いてるだけだ」
職人たちのざわめきを無視し、メテオは鍵屋を出た。
そのままふたりは鍵屋の前の小道を進み、ふと脇道へ逸れる。
進むほどに、石畳はまばらになっていった。
言葉も目線も交えずに、淡々とユヴェの小屋へ向かう。
ここ数日、ユヴェの監視を担当していたのはエノワールだった。
彼はメテオの背を追いながら、見慣れてしまったその道に、改めて視線を走らせる。
小道に点在する割れたタイルの隙間を、柔らかい草が覆っている。
雨が降ったあとについた泥は、すでにない。
足跡も、ガットへの報告後すぐ確認したにもかかわらず、見当たらなかった。
鍵屋を囲む森林に沿う様に進み、少し開けた空間に出ると、そこにユヴェの小屋が見えてくる。
街の喧騒からは切り離された鍵屋同様、そこは静かで穏やかだ。
小屋の周囲には小さな菜園があって、ハーブなどの香草や、小さな畝が作られている。
いつもなら花が植えられていそうな花壇を、冬の風が寂しく撫でた。
風に揺れる小さな風見鶏が、カラカラと音を立てて回っていた。
役目は一緒でも、その見た目は──花の形をしていたけれど。
白い土壁とレンガの屋根。
煙突は傾いているが、それさえどこか優しい雰囲気をもっている。
ただ、軒にぶら下がる蝙蝠だけが、浮いて見えた。
メテオは合鍵を使って、使い古した戸板を開ける。
中は静かだった。
色とりどりの塗料で描かれた神獣のモチーフが、天井や床、壁に所狭しと描かれている。
工具や半端な鍵の素材が片隅に積まれたまま、埃もかぶっていない。
ただ、釜の火が落ちていることを、メテオは見逃さなかった。
部屋の中央には、二枚の扉が並んでいた。
どちらも鍵穴は閉じており、装飾もシンプル。
けれど、ドアノブや蝶番の繊細な装飾が美しい。
何度もユヴェの仕事を見てきたメテオには、彼女が仕上げたものだと一目でわかる造形だった。
エノワールが一歩踏み込む。
「これ、どこに繋がってたのか、痕跡は……?」
言葉は濁されていた。
それが軒下の蝙蝠を意識してのことなのかは、メテオには分からない。
でも、メテオは鼻で笑った。
「さあな。…あの子の腕を侮らない方がいい。痕跡がないなら、もともと“どこにも繋がってなかった”ってことにしとけばいい」
「……つまり?」
「使ったとして、だから何だって話だ。裁判所は職人の道具にまで手ぇ突っ込むつもりか?」
メテオの声音は冷たかった。
……なるほど。守る気ね。
エノワールは思った。
表面上はあくまで協力的だが、これは“ここまでが限界”という線引きだった。
ただの空間に、不自然に立つ扉に触れてみる。
温度はなく、開けても向こう側は部屋に口を開けるのみ。
専門知識もないエノワールには、そこに何かを見つけることは出来なかった。
ただ、とても丁寧だと感じた。
扉の飾りすぎない装飾や、ドアノブの滑らかさ。
それらが部屋の雰囲気を壊さず、溶け込んでいる。
監視対象として外側から見ていた鍵職人。
その内面に踏み込んで見ても、やっぱりというか、彼女らしさが滲み出ていた。
「……とても腕がいい職人のようね」
「それが取り柄で、ノードに越させてきた」
メテオは肩をすくめて答える。
「フォールドラークはみんな、鍵だけじゃなく扉も作るの?」
「そうでもない。ほとんどは片方だけだ」
「彼女は?」
「…言っただろう。あいつは腕を買われてここに来た」
つまり、どちらも出来る。
エノワールは目を細める。
「……扉は、どこにでも繋げられるのかしら」
壁に立てかけられた二枚の扉を見つめながら、エノワールはぽつりと呟いた。
けれどその声は、誰でもなく“この場にいないユヴェ”へと向けられていた。
いわゆる不正扉は、裁判所への申請なく星層を繋ぐものを指す。
それは既存の扉に繋げるより、”どこにも建物がない地点”に繋げる方が、圧倒的に多い。
けれどそれを可能にさせるには、ピンポイントに座標を指定しなければならない。
相当の高等技術が必要なはずだと、エノワールでも想像がついていた。
「…計算を間違えなければ、星は渡れる。それは全てに言えることだ」
ただしその”計算”が、多くのフォールドラークがただの空間に扉を立てたがらない、最大の理由だった。
必要なのは、ただの緯度経度だけではない。
この世界では、星層という”重なり”が存在する。
──異なる層が、同じ時間軸に重なるように存在しているのだ。
そして星層は時に”揺らぐ”ものだった。特に、“悼み月”のこの時期は。
──だから、答えは常に”一定ではない”。
けれど、計算方法はフォールドラークによって完全に秘匿されていた。
星層が揺らぐという事実さえも、誰も口外しない。
世界の秩序のためでもあったが……それはフォールドラークの、種としての“誇り”だった。
エノワールも当然、計算方法は知らなかった。星が揺らぐ事実に関しても。
でも、メテオの一瞬の間から、彼女の持つ才能を察するには十分だった。
きっと、いくらこの扉を調べても、何も出てこない。
それほど未知で、奇怪で、神聖ななにかを持っていた。
メテオは静かに目を閉じた。
星層を一度でも繋いだ扉は、たとえ“剥がした”としても、開けば向こうにわずかな揺らぎが見える。
ほんの少しの水を張った水盆のように。
けれど彼は誰より知っていた。
ユヴェは、それを完璧に“剥がせる”。
誰が見ても──たとえそれが、メテオのような研鑽を積んだ職人であっても。
“ただの扉”だと見間違わせるほどに。
「…わかったわ。報告は……必要最低限にしておく」
「それが賢明だ」
メテオの言葉には、まるで彼自身が“鍵”のような鋭さがあった。
エノワールは扉を一瞥してから、小屋を出た。
これらの報告をすべく。
次に向かう場所は──ソルヴァンの執務室。
……なんて報告しようかしらね。
そのあとはまた、病院前に戻って、出てくる気のない対象の監視……
思わずため息がこぼれる。
気が重くなるのを振り払うように、彼は木製の戸を静かに閉めた。
*
小屋に残されたメテオは、遠ざかる悪魔の大きな背中を見送ってから、小さなテーブルに軽く腰かけた。
深く、とても大きなため息をつく。
「……あいつ…」
釜の火を落とすなんて、戻らないと言ってるようなものだ。
部屋に佇む二枚の扉。
どこへ繋げたかまでは分からなくても、どこかに“繋がっていた”ことは分かる。
奔放なやつだとは思っていた。
でも、鍵職人としての腕は買っていたし、種族に対する誇りも持っていると思ってた。
他の職人より、目をかけていたつもりだった。
買い被りすぎたんだろうか……?
それとも──俺の独りよがりだったのか。
最後に事務室に呼び出した時のユヴェを思い出す。
男が多い職人の中で、当然ながら、女のユヴェは体が小さい。
でもあの時は、思い返せば、いつもより小さかったような気がした。
煙草を取り出し、火をつけようとして、やめた。
ここで煙を吐くのは忍びない気がした。
「──どこ行ったんだ、馬鹿野郎」
故郷のグラルメアで、長老たちに槌さえ握らせてもらえず──
雨の中で泣いていた、あの時の彼女の背中を思い出す。
また囲われたいのか?
それとも、また“誰にもわかってもらえない”って思い詰めたか。
自由に焦がれながらも、もう少し理性的だと……
それさえ、俺の色眼鏡だったのか。
自問自答を繰り返すが、目の前の扉が開くはずもない。
そこからひょっこり顔を出しそうな気さえするのに。
もう一度息を吐いてから、メテオは小屋を出て行った。




