六十七層 : 静かな導火線.01
深い樹冠の隙間から、わずかばかりのソルの日が差し込み始めた朝。
それでも原生林に近い自然地帯の森は深い。
ガットは、病院の敷地を囲む黒い柵に寄りかかったまま立っていた。
目深にフードを被り、静かに佇む彼の元へ、二つの影が寄る。
「……揃ったか」
眼差しを向ければ、リリーとエノワールが立っていた。
「翔とユヴェ、両方とも病院に入った。相変わらず星層ゲートの出層・入層記録はねえ。──が、ノードの関所を通った記録は確認済みだ」
淡々と。流れるような口ぶりで、彼は嘘を吐く。
いや、正確には嘘ではなかった。
ハーウェンの時間が終わる前に、関所の記録はすでに”書き換えられて”いたから。
「この病院は『第三禁足地』だ。敷地内に足を踏み入れるな」
低く、だが強い声が空気を切る。
「えーっと…第三区分ってことは…」
「”完全中立地帯”ってことよ。第一区分の“危険地帯”とか、第二区分の“境界不明瞭な土地”とかじゃなく」
「あー…」
リリーが小さく口を開きかけたが、エノワールがすかさず言葉を補った。
それにわずかに顔をしかめながら、リリーは思い出すように視線を落とす。
細い指が、手癖のように眼鏡のつるを弄ぶ。
その仕草に、エノワールは薄青の瞳をちらりと向けた。
けれど、わずかに眉根を寄せて、すぐに格子の向こうの病院を見た。
「まあ、どの区分だろうと、裁判所の認可なしじゃ、無闇に入れないってこと」
「なんで?」
「この病院の場合はいろんな種族が来るからよ、それこそ天使も」
「鉢合ったら面倒でしょ」とエノワールは肩をすくめた。
理知的な光が滲む、エノワールの瞳。
けれどどこか、諦念のような疲れもそこには含まれていた。
「ゼノラ層の“自然地帯”も、ウルネス層の未開拓の地“神獣の森”も──複雑な利権と領土争いの過去が絡み合ってて、まだまだ第二区分から仕訳けられてない土地が多いのよ」
「天使と悪魔の領土争いはわかるけど、なんでゼノラまで?」
「バカねえ。この層は最初に世界が交わった場所なのよ?ずっと昔、それこそほとんどすべての種族が旗を掲げて争った歴史があるの」
朝の木漏れ日は、夜の冷たい月明りと陰鬱とした空気よりも静かに足元で揺らめいていた。
エノワールは伐採禁止の育ちすぎた木々と、遠慮なく伸び続ける草花を見ながら、ため息のように言葉をつづける。
「その時焼けた土地の再生のために、都市外のほとんどは“手を入れず”が原則になった。ウフ採掘と、たまの伐採も、全部裁判所の認可に則ってるのよ」
──そうだ。だからこそ、獏の里は長いこと裁判所には見つからなかった。
そこに祀られていたという“悼む槍”も。
土地の管理を担っているのは悪魔たち自身……その最高権力、裁判所だ。
悪魔という種は、何よりも秩序に従順だった。
濫用よりも管理を尊び、善意よりも整合性を重んじる。
彼らは少しずつ、しかし慎重に──地図の空白を塗り分けながら、確実に領土を拡げていく。
彼らは正義のために動くことは少ない。
けれど、崩れた秩序を見過ごすこともできない。
それが、悪魔という種の“正しさ”だった。
エノワールの声は低かった。
ガットは何も言わず、どこか遠くを見つめる巨躯の彼をチラリと見た。
年齢的にも、戦争を経験した世代なのはわかる。
天使と悪魔の最後の戦争は、たったの二百年前のことだ。
そのころ戦えない年齢でも、戦火を逃れる生活を強いられたのは想像がつく。
とくに、ソルヴァンが上司である第二から派遣されているエノワールが、こういった領土問題に詳しいことは納得だった。
何せ、その裁判所の許可という形で判を押す男こそ、怠惰なダーツの代わり…ソルヴァン本人なのだから。
獏の里はゼノラの自然地帯に複数点在していたらしい。
だが、裁判所の管理が及ぶそのたびに、獏たちは影を潜め、森はひとつずつ“名前”を得ていった。
その多くが、神獣の名を冠する。
“安寧の森”の裏にある神獣の森の一角……「イェオロフの鱗跡」もそのうちのひとつだった。
──誰の手でそう名付けられたかなど、もはや記録には残らない。
名前がつかないからこそ神聖なはずの土地は──
“神獣の名を借りた誰か”によって、明確な座標を得ていく。
名付けた奴の信仰心なんて、とうに失われてる。
ガットの脳裏に、ふと、ユヴェの地図が思い浮かんだ。
……フォールドラークの技術も、同じようなもんだ。
地図の線が、静かに信仰の亡骸をなぞっていくように思えて、ガットは目を伏せた。
リリーは不満げに唇を尖らせた。
「ただの病院なのに……入ったら種族間の争いの火種になる、ってことですか」
「わかってんなら話が早い」
どんな怪我や病気も治すという名医のいる病院。
その外観はあまりに不気味だが、その腕の確かさは、長年培ってきた信頼と実績で保証されている。
フォールドラークに次いで、ここもまた、裁判所の悪魔にとってはなかなか手がつけられない場所でもあった。
「…ほんと、厄介なところばかりに入り込むわね、獏って」
ため息混じりに漏らすエノワールを無視し、ガットは小さな手書きの地図を取り出した。
ふたりにひとつずつ視線を向ける。
「外から見るなら、それぞれこの高台が死角にならねえ。必要なら張っておけ。だがあくまで“偶然通りかかった”ていだ」
「えー、せっかく三人で同じ場所張るのに…それじゃガットさんの顔見られないじゃないですか……」
リリーのぼやきに、エノワールがため息をついた。
「いいのよ。任務中にニヤニヤされるより、よっぽどマシ」
ガットは軽く鼻を鳴らすと、背を向けたまま最後に言った。
「──限りなく黒に近い白だ。残念ながら不正扉の使用は見れてねえがな」
「うーん…でも、影のウフって星層は越えられないですよね?」
「無理よ。最長四キロが限界。ここからノードの都市までだって届かないわ」
「えーじゃあ、死角踏んで、影踏んでって移動するの…?無理だよそんなの。絶対扉使ってるって」
リリーがお手上げだとばかりに首をもたげた。
エノワールが呆れたように肩をすくめる。
でも、それを完全に否定できない限りは、どうしようもない。
「もー、ガットさんが張ってて証明出来ないんだから、誰にも無理だって〜」
近寄りたくないと公言していた病院を見張らなければならないことに、リリーは不満げだった。
ピンクのネイルの汚れをふき取りつつ、遠慮なく文句を垂れる彼女。
対してエノワールは、巨体を一歩も動かさず、腕を後ろに組んだまま、病院の屋根を静かに見上げていた。
──まるで、その建物ごと“計っている”かのように。
「今日の正午、ここから近い街道を護送車が走る。獏の狙いは十中八九それだ」
エノワールはガットの低い声を聞きながら、先ほど渡された地図を見た。
街道と病院と、見張り場所。
その距離の取り方は、さすがと言えるほどに的確だった。
「昼前には戻る。交代はしねえ。追加で目を向けててやる」
──その声には“任せきれない”という意思ではなく、単に“自分が気になっているから”というような、かすかな温度があった。
……ほんと、そういうところよ。
悪魔の上司たちにはない、生き物らしさが滲む、そういうところ。
エノワールはわずかに笑みすら浮かべそうになるが、すぐに真顔に戻す。
そして無言のまま、無口な上司を見送った。
ガットは目深にフードを被り直して、静かに歩き出した。
枝葉が多い地面の上を、ごついブーツが音もなく進んでいく。
歩幅や体重のかけ方に違和はない。
なのに、音がならない。こんな森の中でさえ。
それが、エノワールの背筋をほんの少し緊張させた。
「…次の交代まで、しっかり見張っとけ」
「はい!」
すぐさま姿勢を正すリリー。
その元気な返事を背に、彼は枝を踏む音すら立てずに遠ざかっていく。
エノワールだけがその言葉の意味を探るように黙っていた。
その“気になっている”という感情が、どう転んだ結果なのかを、見計るように。




