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Shangri-La ─ 生きて、死を越え、何かを遺せ。  作者: sora
【第一幕】声なき森にて

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六十六層 : 声なき森にて.08


話し合いが一段落し、少しずつ沈黙が部屋に戻ってくる。

光のウフが天井で微かに揺れ、誰もが次の行動へと気持ちを切り替えようとする中——凌がふと口を開いた。


「…ガット、お前はその後どうすんの」


問いかけは静かで、どこか他人事のようでもあった。

だがその奥にある懸念までは、声の抑揚だけでは隠しきれなかった。

ガットは立ち上がりかけた手を止め、ほんのわずかに、首だけを巡らせる。


「……俺の目的は天使領(てんしりょう)に戻ることだ。お前らと別れたら、勝手にやる」


言い切る口調はぶっきらぼうで、冷めたようにも聞こえる。

けれど、それがかえって——誰も巻き込まないようにするための線引きであることを、凌は理解していた。


「…誓約書を破らなきゃならないのに、ひとりで?」


凌がわずかに眉を寄せて問う。

だがガットは、そのまま無言で視線を正面に戻すと、壁際の影に背を預けた。


その立ち姿は、まるでずっとそこにあった傷痕を、誰にも見せまいとするような、孤独の形に見えた。


「テメーが持ち掛けてきた話だ。情報と引き換えの協力。すでに前払いでもらってる」

「……だとしても…」

「それだけじゃねえ。お前の適性反転(ペナルティ)がどう始まるのか——その情報だけでも、値千金だ」

「……」


凌は言葉をのみ込む。

目の前に立つ男が、無理をしているのか、それとも本当にそういう性分なのか、分からなくなる。


——けれど、どちらであったとしても。

ガット・ビターという男の背に、無理矢理手をかけるような真似は、きっと誰にもできないのだ。


確かに取引を持ち掛けたのは凌だった。

けれど、目の前にある天秤の皿にのせるものとして、命と情報では、あまりに釣り合いが悪い。


「……そもそも、ユヴェの扉を使って、天使領に行けばいいんじゃないの?」


凌の言葉に、ガットは一瞬、わずかに目を伏せる。

その横顔には、ふだん絶対に見せない、わずかな躊躇の影が差していた。


「そうすれば、誓約書は裁判所で破れて、お前は天使領で……適性反転(ペナルティ)は受けるけど、不可侵条約で悪魔たちは——」

「そんな簡単な話じゃねえ」


バッサリと切り捨てる。

それはまるで、自分自身にも言い聞かせるような鋭さだった。


「落とし前をつけてからじゃねえと、戻っても意味がねえんだよ」


わずかに顎を引いて、ガットは言い切る。

脳裏にはひとりの男の姿が思い浮かんでいた。


俺が裁判所で働かされるようになってから…もう四十年近い。

息をしてるようでしてねえ時間が、それだけ降り積もった。


同じ時間を、”あいつ”はまた別の形で重ねている。


そしてそれは、どちらが酷いと比べるようなものではないと分かっていても……

ガットの中では、“楽な道”を進んでいい理由にはならなかった。



「──行けるかよ、そんな綺麗な道」



誰に聞かせるような声ではなかった。

ただぼそりと、零れ落ちていく。


凌がガットに与えたのは、刑期が無期限だという、たった一言の情報だった。

でも、それが終わりの見えないまま、止まった時間に生きていたガットの最初の一秒を作った。


命の鼓動を思い出す一秒。

その一言がどれほどの重さかは、他人には量れないものだった。



「…だから関わるな。ひとりの方がやりやすい」



その言葉だけが宙に残った。


凌は何も言わなかった。

ただ、ガットの言葉の“温度”だけが、胸の奥に残っていた。


言葉は強いのに、背中が寂しい。

まるで自分に罰を与えるように、誰も近づけない場所へ進もうとしている。

そう思えてしまったユヴェが、小さく息を吸い込んだ。

でも、そこには、どうしても()()()()()()()()()()()()ものがあった。



「…待って、天使領に“戻る”?」



疑問というより、確認に近いその声に、ガットの瞳がわずかに細められる。


「……そうだ。俺は()使()だ。悪魔でも死神でもねえ」


無造作な口調。

だが、その一言で室内の空気が少しだけ揺れた。

翔が目を丸くし、ユヴェは驚きと納得の入り混じった顔をする。


「うそ…()()()()()()()もつけてないのに、どうやって低地で生きられるの?」


思わず詰め寄るようなユヴェの声色。

翔が不思議そうに首を傾げる。


「エアフィルターって?」

「…天使の領地は数千メートル上空に浮かぶ、ウルネス層の浮島群(うきしまぐん)。体の作りがもともと他種族と()()()()()


代わりに答えたのは凌だった。


漆黒の服装と、第六裁判官の肩書。

そしてどこまでも”普通”な態度が、すっかり彼の”種族”を見落とさせていた。

今更になって、凌はようやく思い至る。

ガットの沈黙の多くが、“意図的に空気を吸わない”ためだったのではと。


性格や職業柄だけではない。

おそらく彼は、呼吸することすら、最小限にしていた。


だから——

ガットは無駄な言葉を使わない。


「そう。だから、他の種族は浮島では生きていけないし、天使が降りてくることも難しい。エアフィルターで調整しなきゃ、酸素酔いを起こすよね…?」


ユヴェは、考えを追いながらもどこか呟くように言う。

それに対し、ガットはめんどくさそうに眉をひそめて視線をずらした。


「何十年、地べたにいると思ってんだ。息を止めるなりなんなり、方法はある」

「…フィルター使えばいいのに…」


ぽつりと漏らした言葉に、重たい返答がかぶさる。



「風のウフの音が鳴る」



ユヴェは何も言い返せなかった。

その意味が分かるからこそ、言葉を失っていた。


音が鳴れば——“仕事にならねえ”。


そう言われた気がした。


ユヴェの視線が、改めてガットの服装に向けられる。

黒のカーゴパンツに、フードつきの薄手のブルゾン、そして軽いシャツ。

この季節のゼノラでは到底寒すぎる。けれど、彼は平然としている。


——あ。


ユヴェは思い出す。

天使領は極寒の空の上。酸素は薄く、気温は常に零下に近い。

だからこそ、彼らにとって「地上」は暑すぎる。


——だから薄着なんだ。


ぽつりと、心の中で呟く。


地上の空気は、彼らには“過剰”だ。

酸素も、湿気も、気温も。


息をするだけで疲弊するような場所で、それでも黙って立っている。

その異質さは、彼が“天使としても異端”のように見えて——

どこか、見てはいけないものを見ているような、そんな感覚がした。


沈黙のなか、ガットが短く息を吐く。


「俺のことはどうでもいい。自分のことを考えろよ」


切り捨てるような声。

だが、それは拒絶というよりも——自分のことに構うな、という防衛本能だった。

けれど、ユヴェは目を逸らさず、わずかに唇を噛んだあと、迷いを振り切るように前にでた。


「でも、せめて……なにか出来ることないの?」


ガットは静かに目を伏せ、視線だけで彼女を見る。

まるで、何かを測るように。


やがて、その視線が、静かに答えるように落ちた。


「……扉をひとつ用意しろ」

「分かった。どこからどこに繋ぐ?」


言われた瞬間に頷くユヴェの声は、わずかに緊張を帯びていた。

ガットはしばし黙って考え込む素振りを見せた後、ゆっくりと問う。


「……設置は、自分でやれんのか?」


ユヴェはガットの問いに、やや緊張した様子で頷いた。


「え、うん……座標さえしっかり分かれば扉は作れる。事前に鍵を覚えさせれば、あなたでも設置は出来るよ。ただ——少しでもズレれば、”剥がれ”ちゃうけど」


少し早口になるのは、言っていることの難しさが自分でも分かっているからだろう。

“鍵を覚えさせる”。

その一言に、ガットはかすかに眉を動かした。


けれど、あえて何も言わなかった。


「建物がなくても? 扉だけで?」


思わず翔が訊き返すと、ユヴェはわずかに肩をすくめた。


「正確に位置を取れればね。そこに“扉が存在する”ってことを、ちゃんと鍵が記憶できてれば、座標だけで十分。……でも、普通はやらない」

「……あたりまえだ。そんなこと誰でもできるようになったら、世界がぶっ壊れる」


ガットが低く呟いた声に、誰もが納得してしまうほどの緊張感が宿っていた。


「…そうだね。不正扉(ブラックドア)の全部じゃないけど、その多くは、この不正星通(ふせいせいつう)で出来てるんだよ…」


ユヴェの声が暗くなる。

凌と翔は、彼女の小屋の中に扉だけが二枚立っていた光景を思い出していた。


「扉の設置は自分でやる。悪魔領“安寧(あんねい)(もり)”から……ゼノラの郊外に繋いでくれりゃ、それでいい」

「……分かった」


今度はユヴェも静かに頷いた。

言葉の裏に込められた覚悟を、きっと彼女も感じ取っていたのだろう。


ユヴェは座っていたソファから立ち上がると、鞄の奥から一枚の古ぼけた地図を取り出した。


紙は所々角が丸まり、数え切れないほど折り目が刻まれている。

けれどその上に描かれているのは、装飾や境界線を極限まで削ぎ落とした、ただの()()()()()()()だった。


「……扉の出入口、“安寧の森”からゼノラの郊外のどこがいい?」


確認するように言いながら、彼女は一本の鉛筆をくるりと回し、軽やかに動かしはじめた。

指先は迷いがなく、既に頭の中には明確な構図があるようだった。


「ゼノラは悪魔管轄区が多いから——なるべく天使の生活圏が残ってる場所がいいよね」

「……」

「……セレスカなら、山小屋もいくつかあるからそこにしようか」

「…雪面の山脈都市か」

「うん。あとは“安寧の森”のどこに置くかだけど…設置場所、教えてくれなきゃ繋げないよ」


ガットは少し黙ったあと、おもむろに口を開いた。


「…“()()()()()()()()”」

「裁定の塔の裏にある——あの窪地?」

「ああ。そこでいい」

「…分かった。靴、何センチ?」

「は?」

「窪地のどこに設置するか決めなきゃ。端から端まで27.8mと12cm。自分の靴跡で計って設置した方がいいでしょ?」


「それとも巻き尺もっていく?」とユヴェが軽く首をかしげる。

ガットは無言のまま、少しの間沈黙して、やがて「…28」と短く答えた。


自分の情報をどこかに残すことが苦痛と言わんばかりに、その眉根は寄っていた。


ユヴェは幾つもの数字を地図の端に書き写すと、すっと手を止める。

それを覗き込んだガットが、わずかに眉をひそめた。



——その計算、明らかに素人の域じゃねえ。



凌はガットの様子に気づかず、素直に尋ねた。


「…それ、フォールドラークみんな出来んの?」

「うーん……出来るのは少ないかも」


軽く笑って肩をすくめるユヴェ。

指で書き足した数字をなぞりながら、続けた。


「面倒くさいし、新しい場所に繋ぐより、もうある扉に繋ぐ方がズレなくてすむから。みんな、新しいことあんまり好きじゃないんだよね」

「……そういう問題かよ」


呆れたようにガットが低く呟く。

その言葉には、何かを思い出すような、小さな棘のような含みが混じっていた。


扉ひとつで星層(せいそう)を超える時代にあって、道なき場所へ道を通す力を持つ者は——思った以上に、少ない。


それを今、自分の目の前でやってのける鍵職人が、いかに()()か。

ガットは目線を落としながら、心の中で思う。


──この女、やっぱり普通じゃねえな。

あんな笑い方して、壊れ物を触るような手で、世界の「形」を、こうも簡単にいじれる。


少しの沈黙のあと、ふと、凌が呟いた。


「……ここが中立地帯で、音を遮断したとしても…誓約書が反応しないってのは、少し不思議だな」


疑うような調子ではない。

けれど、"触れてはいけないことに手を伸ばす"ような、探る声色だった。


ガットは短く鼻を鳴らして、笑う。


「それだけ、信用されてねえってことだ」

「……信用されてる、じゃなくて?」


翔が首をかしげる。

その子どもらしい問いかけに、ガットは目を閉じて、淡々と続けた。


「“余白があれば、裏切れる”。……そう考えてる。あいつら、悪魔どもはな」

「……」

「誓約書で縛ったってのに、わざわざ中立地帯に“例外”を残してる。破ってみろ、って言わんばかりだ。裏切ったら好都合。——あとは、ただの犯罪者として処理すりゃいい」


沈黙が落ちる。



「そうなれば、義務もなくなる。俺の命に、もう“管理”はいらなくなるからな」



沈黙が落ちた。


翔は、ガットの言葉を理解しきれずに、小さく唇を結んだまま視線を伏せる。

それでも、何か言ったら“その人が壊れてしまいそう”な気がして、ただ黙っていた。


ユヴェは、震えそうになる手を握りしめたまま、思わず凌のほうを見た。

けれど凌は、顔を上げず、ただ手元の地図を見つめていた。

その横顔に浮かぶ静かな影が、何よりの答えだった。


そしてガット自身は、もうその誰の視線にも応えず、ただ壁に背を預けていた。

フードの奥、わずかに伏せられたまぶたが、夜の底に沈むように静かだった。


しん、とした静けさの中。

ウフ(とう)の淡い光が、天井で揺れていた。


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