六十五層 : 声なき森にて.07
各々がやるべき事を胸に刻み、ひと段落ついたあと。
ふと、沈黙の間にユヴェが口を開いた。
「もし…逃げ遅れたら、凌が戻るまで──」
「──いや」
言いかけたユヴェの声を、凌が静かに断ち切った。
凌の声は落ち着いていたが、その言葉の中には確かな意志が宿っている。
「戻らなかったら、お前が翔を連れて逃げろ」
「でも…!」
思わず詰め寄ろうとするユヴェを、凌はまっすぐ見据えて止める。
「そうなったら全て諦めろ。鬼灯通りに入れるように──」
「──だめよ」
その瞬間、部屋の空気を切るように、静かな落ち着きある声が響いた。
天井から落ちてきた声は、凌や翔には馴染みがあっても、ユヴェは身を固める。
特にガットは無意識に、ブルゾンの下──胸のナイフホルダーに手を寄せていた。
「その子はフォールドラークの鍵職人。私の鳥居の先には入れたくないわ」
凌が一瞬驚いたように目を細めた。
「店長──」
「店長…?」
ユヴェが困惑を浮かべるが、声の主は見つからない。
…これが、噂の女郎蜘蛛か。
ガットは目を細め、天井の一角に巣を張る蜘蛛を捉えた。
普通の蜘蛛だ。何の変哲もない。
……いや、普通の蜘蛛にしか見えねえ、と言うべきなのか。
一方、ユヴェは無意識に自分の耐熱服の裾をつかんでいた。
──“蜘蛛”なのに、背中が汗ばむほど怖いなんて。
見つめてくるのは、視線じゃない。
ただ、“上位存在に見られている”という感覚だけだった。
店長は、部屋の戸惑いなど構わずに言葉を続ける。
「あそこを作るのに、どれだけ手間をかけたと思ってるの?星層の仕組みを知る唯一の種族……鳥居の構造を知られたら、あの子たちを守れなくなる」
「ユヴェにそんな心配はいらない」
凌の声には確信があった。
だが、店長の声は相変わらず落ち着き払っていて、そして冷たい。
「”話さない”ということではなく、”知られる”ということが問題なのよ。意図しなくても、鍵職人の視線は構造を読み取るものなの」
「……」
「それにその娘さん、いたぶられても”吐かない”ようには見えないわ。──そこの坊やと違って」
ピクリとガットの指先が反応する。
沈黙が落ちた。
凌もさすがに反論をためらい、口を閉じる。
ふと、ガットの背筋に悪寒が走った。
天井へ向けていた目線を、廊下へ続く扉へ移す。
床から湧き出るような、何かがいる。
──来る。
ナイフの柄を今度こそ握る。
そんなガットの動きなど気にせず、店長はほんの少しだけ口調をやわらげて言った。
「その代わり、ここに置いてもらいなさいな。ここの中立性は私でも信じてるわよ」
「……勝手に決めるな」
低く響いた声の先に、ガットはすでに目線を向けていた。
残りの三人の視線が、低すぎる声の主へと向けられる。
廊下の影から現れたドクターが、包帯だらけの顔にわずかな苛立ちを浮かべながら、病室の入口に立った。
その金の瞳は、天井の隅にぶら下がる蜘蛛を確実に睨んでいる。
「ここは病棟だ。保護施設じゃない」
「あらぁ、あなたいつも手が足りないって言うじゃない」
店長の声は明らかに笑っていた。
まるで軽口を叩くように言う。
「それとも、娘ひとり守れない程度の中立地帯なのかしら?」
ドクターの目がわずかに細められた。
「……相変わらず嫌な女だ」
ぼそりと呟く声は地を這うほど低い。
更に言葉を重ねるかと思ったが、ドクターは静かに踵を返す。
「その時に判断する。君たちの小細工がどう転がるか──全てそれによるだろう」
その背中に向かって、店長が小さく笑った声が静かに落ちた。
ガットはそれを見て、何も言わずにひとつ、深く息をついた。
完全にドクターの背中が廊下の先へ消えてから──
ナイフから指先をそっと離す。
「…おい、凌」
不意に呼ばれて凌が振り返る。
「…なんなんだ、あれは」
ガットが、明らかに警戒色を浮かばせた目で睨んできた。
「…ドクターか?」
「医者だけじゃねえ。あの蜘蛛も。…あれが大妖怪ってやつか?」
「ああ…」
何かを納得したように、凌は肩をすくませる。
「そうだよ。本人たちはあえて明かしてないけど。店長は絡新婦。ドクターは土蜘蛛」
凌が軽く答えた先で、ガットの目線が天井をかすめた。
その端に、小さな蜘蛛がひとつ、糸の上にじっと身を伏せていた。
同じ妖怪種の中でも、“大妖怪”と呼ばれる者たち。
それらははるか悠久の時間を“存在”し、この世の理では図り切れないものの代表格として知られていた。
──ただ姿形が変わるとか、そんな程度の話じゃない。
リーテの蝙蝠のように、音のウフを使った通話技術なのか。
それともあの蜘蛛が体の一部なのか。
地面から湧き上がるように現れた医者の気配は、どういう理屈だ?
地のウフ……いや、ここは建物の中。地面じゃねえ。
それに、敷地に踏み込んでからずっと、”見られてる”感覚が張り付いている。
苦々しげに、ガットは吐き捨てる。
「……意味がわからねえ。テメーの鼓動も大概だがな、あの医者のほうがもっと気持ち悪い」
「気持ち悪い?」
「鼓動がないわけじゃねえ。……けど、死体に魂を無理やり縫い付けたみてえな歪み方してる。呼吸の波が逆なんだよ。──まるで、外側から“生きろ”って命じられてるみてえな鼓動だ」
凌は無言でガットの言葉を受け止めた。
その声音には、ただの悪口ではない、狩人としての本能に近い“危機感”が混じっていた。
「……あんたの目、そこまでわかるのか」
「……目だけじゃねえ。そういう訓練をしてきた」
一瞬だけ、ガットの視線がどこか遠くを見た。
「動物でも、呼吸の乱れで仕留めるか逃がすか決まる。……どんな種族も、結局は肉の袋だ」
何を映すでもないコバルトブルーの瞳は、無機質な病院のウフ灯ではなく、もっと古い光を宿していた。
「……妖怪ってのは、ほんとに“知られちゃいけねえ種”なんだな。……生きてるだけで、理屈が崩れる」
「ふふ…まあ、私たちみたいなのはね、“生きてる”より“続いてる”って言ったほうが正確かしら。気味が悪いって言われるのも、もう慣れたものよ」
また声が落ちてきて、ついにガットは耳を手で覆った。
「……やってられねえ」
「なんか悪いね」
生理的に無理だとフードを深く被るガット。
それに同情の目を向けつつ、凌は小さく息を吐いた。




