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Shangri-La ─ 生きて、死を越え、何かを遺せ。  作者: sora
【第一幕】声なき森にて

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六十四層 : 声なき森にて.06


凌は自分の影の中に手を入れた。

底なし沼のような重みの中から、一つ、瓶を取り出し机に置く。

それは凌の手のひらで覆えるほどの、小さな瓶だった。


「……七日分の悪夢が詰めてある」


透明な瓶だ。中身は何もないように見える。

けれど、”中身が”こちらを見ている気配が、不気味に背筋を凍らせる。


「これ、悪夢が入ってるの?…なんにも見えないよ」


そう言いつつも、瓶から距離をとる翔。

凌は静かに頷いた。


「夢だから、直接お前らの目に触れるまでは見えない。──でも、俺にはちゃんと見えてる」


常に閉じられている凌の金の右目は、まぶたを透かしてしっかり中身を捉えていた。

瓶の中に詰まる、闇より暗く、空気より軽い悪夢の(うごめ)きを。


ユヴェの手袋越しの指先が、瓶の悪夢に触れそうになって、そっと止まった。



「──怖いものが、形にならないって……余計に怖いよね」



それは誰にというわけでもなく、呟くような声だった。



「……この悪夢の瓶を道の途中でしかけておく。それを──撃ち抜いてほしい」



ガットに紅色の目線を投げる凌。


「瓶が割れれば悪夢が霧状になって広がる。なるべく()()()()割って欲しい」

「…まったく、まともな的じゃねえな」


呆れたような声色で、ガットは肩をすくめる。

けれど、その仕草に“無理難題”という重さはなかった。


「どこにそれを置くのかだけ教えろ。あとはタイミングだ」

「それだけでどうにかできるの…?」


翔が驚いたようにガットを見上げる。


だって、時差なくって……

それに撃ち抜くって言ってたけど、銃か何かを使うってこと、だよね?


ユヴェもまた、ガットをじっと見つめていた。

弾の装填、狙いを定める間……素人でも、時差なく撃ち抜くことは難しいとわかる。

けれど、ガットは返事をしない。

ただめんどくさそうに顔をしかめるだけだった。


「悪夢の中にシャーディンが突っ込んだら、混乱に乗じて亜月と槍を取ってくる」


その沈黙を“言及するな”と受け取った凌は、淡々と言葉を続ける。

地図を見下ろしたまま、凌の影がゆらりと一度揺れていた。


「俺の影移動が使える時間は──限られてる。護送車が()()()()()()()()()()()適性反転(ペナルティ)のカウントが始まるはずだ」

「──それ、死神の誓約書のペナルティってやつ、だよね?」


遠慮がちにユヴェが声を上げる。

凌の紅い目が彼女へ向いた。

そのあまりの静けさに、一瞬、続く言葉を飲み込みそうになる。


「……たまに鍵屋に来るよ、そういう鍵の再鋳造……適性反転(ペナルティ)を受けたら、星層を渡る鍵としては使えても、ウフの力を引き出せなくなるから……」

「……」

「どのくらいでウフは使えなくなるの?」

「正確な時間は分からない。けど——のんびりしてたら死ぬ」


灰色の病室に、重たい沈黙が落ちた。


「だからもし、間に合わなかったら──木立の中に隠したユヴェの扉を使って逃げる。そっちは、あくまで保険にしたい」


不正扉(ブラックドア)はなるべく使いたくなかった。

最初こそ、利用出来ることがありがたかったはずなのに、今ではユヴェを巻き込むことに後ろめたさがある。


本人の意志があっても、彼女は凌にとって、あまりに純粋で、あまりに”表”の生活に根ざしていた。


古びた天井をぼんやり照らす光のウフが、白と灰の境界線のように四人を浮かび上がらせる。

翔は床に落ちる自分の影を見つめ、緊張で肩をすくめていた。

その横で、凌が静かに口を開く。


「……翔、俺はお前の影を()()にして影移動してくる。だから──お前は光で影を大きく壁にうつしておけ。俺は出てきたら、最初のペナルティ三時間を、ここの地下で過ごす」


翔の唇がわずかに震えたが、すぐにまっすぐ頷いた。


「…わかった」


その言葉の奥に、決意が滲んでいた。

ユヴェが地図の上を指でなぞりながら、困惑を含んだ視線をガットに投げる。


「逃走用の扉はここと、ここに設置できると思うけど……」

「……その扉は、どこに繋ぐつもりだ?」

「え?」


ガットの鋭い指摘に、ユヴェの指が止まる。

凌がふたりの間に言葉を挟んだ。


「病院に置いておくのは、鬼灯通りに一番近い森の中にしてくれ。ここでペナルティが開けたら、すぐにそっちに移動して、鳥居をくぐる」

「…わかった。じゃあ……こっちの自然地帯(ナール・ブレイ)の中に潜ませる二つは、一つはこの病院、もう一つは私の小屋か別の──」


その先を言い切る前に、ガットの低い声が割り込んだ。


「自分の小屋には戻るな。ここに来た時点で、テメーとそのガキは不正扉(ブラックドア)使用の疑いが限りなく()になってる」

「えっ?僕も?」

「当たり前だろ。凌は影のウフと、妖怪種だから誤魔化しようがあった。だがテメーらは違う。この世界で、長距離移動を誰にも見られず、一瞬に終わらせる方法が他にあるのか?」

「……」


「翼でもありゃ可能かもな」と、ガットは皮肉に吐き捨てる。


「終わったら、しばらくここで潜ってろ。今言った二枚の扉は、要らなくなったら壊しておいてやる」


甘えを許さない言葉に、ユヴェの表情がみるみる曇る。



「……そんな…」



思わずこぼれた言葉に、ユヴェは一歩、踏み出しかけて──それきり動けなかった。

自分の声すら、ここでは異物のように思えた。



──言い返したかった。

“私はそこまで馬鹿じゃない”って、そう言いたかった。

でも、言えなかった。

自分の甘さを、一番よく分かっているのは自分だったから。


「僕も……戻っちゃいけないってことだよね」


翔の声は小さかったが、覚悟が混じっていた。

見た目が幼くても、誰より今の状況を理解しようとしていた。

凌は何も言わず、そんな翔の頭を一度だけなでる。


ガットはそのまま、一切の情を見せずに続けた。


「覚悟ありきで始めたことだろ」

「……」

「扉の一枚はウルネス層の天使領に繋げ。なるべく辺境の方……()()()()()()らへんに。あそこなら高度もまだ低いし、生き残れる可能性がある」


トントンと、ガットの指先がテーブルの地図を叩いた。


「悪魔と天使の不可侵条約──これがある今は、無闇に裁判所も天使領へ手を伸ばせねえ。少しの時間稼ぎにはなる」


ユヴェは言葉を返せなかった。

自分の選んだ道の先に、もう戻れない日常があることを、ようやく突きつけられた気がした。

そんな彼女を一瞥して、凌は静かに目を伏せる。


ガットは構うことなく言葉を続けた。


「護送の指揮は、第四裁判官のコウヤがとる。攻めより守りに特化した、一切突破させない戦い方をしてくる」


凌が小さく息を吐いた。


「……噂では聞いたことある。第四都市のアルノートを管轄してる、悪魔領の盾だとか」

「そうだ。適性は風のウフ。武器は弓矢。矢の軌道を風で()()()()()


ガットが静かに頷く。

言葉の重さに、部屋の空気がさらに緊張する。


「…厄介だな」


凌が低く呟くと、ガットはわずかに呼吸を整えたあと、淡々と続けた。


「ああ。見えてる方向に撃つとは限らねえ。上に放った矢が、別方向から刺さってくる」

「それって、凌の悪夢で精神を混乱してても…?」


ユヴェが不安を口にすると、ガットは少しだけ間を置いて頷いた。


「……越えてくる可能性はある」


その言葉が示す意味を、誰もが理解した。


「コウヤが守備の要なのは、戦闘スタイルだけじゃねえ。精神の鍛え方も違う。少なくとも、俺でも“動き出し”を読まれる覚悟はしとく」


そして彼は、静かに言い切った。


「…言ったはずだ。奪うのは女だけに絞れ。槍は、リスクが高すぎる」


翔がちらりとユヴェを見た。

その視線に、ユヴェは俯いたまま、小さく頷いた。

凌は何も言わなかった。

ただ、ガットの言葉の奥にある“見捨ての覚悟”を、確かに感じ取っていた。


「護送ルートは一本道。待ち伏せと暗転を一瞬で終わらせろ。コウヤは、違和感があれば即反撃する。誰よりも“異変”に敏感な悪魔だ」

「つまり──そいつの矢が飛んでくる前に全て終わらせるしかない」


凌の声に、ガットはただ頷いた。

ユヴェは、唇をきゅっと引き結んだ。

不安を押し込めるように、そっと自分の鍵を握りしめる。

翔が、ぽつりとつぶやいた。



「もう、誰もいなくならないといいのに」



その小さな願いに、言葉を返せる者はいなかった。


しばしの沈黙のあと、ガットが腕を組んだまま、低く告げる。



「……口だけにするな。死にたくなけりゃ、やるしかねえ」



その言葉は、鼓動の奥にじわりと染み込むように響いた。


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