六十三層 : 声なき森にて.05
灰色の壁に凭れかかっていながら、一切の隙を見せない、その影。
全身黒づくめで、フードの下からわずかに覗く肌。
気配など感じさせない立ち姿なのに、顔の十字傷が印象深い。
両手をポケットに突っ込んで、まるで何時間も前からそこにいたかのような静けさだった。
「……ガット、なんでここに…?」
凌がわずかに目を細めた。
ドクターの病院を拠点にすると決めたのは、今朝、ガットと別れた後のことだ。
その後、当然のことながら連絡は取っていない。
ガットは目深に被っていたフードをおろして、静かに目線を向けてきた。
「お前の監視は今も俺の担当だ。それだけの話だろ」
そう言いながら、眉を寄せた。
「……それにしても、動くのが遅い」
何かを見透かすように、静かに、冷たく、確実に。
コバルトブルーの眼光に、ユヴェと翔がたじろいだ。
「俺がいなきゃ、バレてたぞ。痕跡──いくつか消しておいた」
「……」
「特にそこの鍵職人。もう少し家ん中入られねえように工夫しろよ」
「えっ」
「テメーもだ凌。音は消しても、足跡が残れば意味がねえ」
焦るユヴェを無視して、ガットはため息をつく。
「リーテの蝙蝠を警戒して遮音機使うのはいいがな、音だけじゃ痕跡を消したことにはならねえんだよ」
「……こ、怖い…どこまで知ってるの?」
ユヴェの疑問に答えもしない。
ガットは片眉を上げ、甘さを削いだ声色で確認する。
「大丈夫なのか?──扉、壊してきたんだろうな」
睨むような眼光に、ユヴェは一瞬のどが詰まった。
「……一応、“剥がして”はきたけど……」
「……ならいい」
凌が小さく息を吐いた。
「……助かるよ」
言葉は短いが、その中に混じる本音はガットにも伝わったようだった。
「自分で決めたことだ。──責任は果たす」
静かに告げて、ガットは壁から背を離した。
「でも、こんな風に接触して大丈夫なのか?」
凌は目線を周囲に走らせた。
遮音機の小さなケースは見つけられないし、音を伸ばす膜の中に入った感覚もない。
それこそ、”自然地帯”の樹木の中は、裁判所の蝙蝠の潜伏にはうってつけだ。
この会話が聞かれていないとは限らない──
けれど、ガットは小さく鼻で笑うだけだった。
「ここは中立地帯だ。誰も手出しができねえからこそ、”中立”なんだよ」
「……」
「そしてありがてえことに、俺は汚れ役の特権で、裁判所も二の足踏む地に踏み込める」
美しい秩序を守るために、泥を踏む存在。
全ての”影”を踏むからこそ──ガットだけは唯一、裁判所が禁足地とする区画でさえも出入りが自由だった。
「不干渉ってことはな、地べただけじゃなく、囲った空間全部ってことだ。ここには蝙蝠も入り込めねえ」
そしてガットは知っていた。
その禁足の地こそが、自らの誓約の抜け穴になることを。
「……ここでの会話や行動が報告義務に当たるかどうか──それを決めるのは、“俺”だ」
ガットが結んだ誓約書の第一項。
一つ、裁判所の主権下において、裁判所に不利益となる意図的な行動、または、それに関する明確な情報を確認した場合、報告および必要に応じた拘束を行うこと。
裁判所の主権下──つまり“中立地帯”はその限りじゃない。
言葉少なに言い伏せると、ガットはひらりと踵を返し、まるで行き先をすでに知っているかのように、ひとつの病室へと入っていく。
昼間、凌がドクターに頼んで用意してもらった病室。
……本当に、どこまで情報を掴んでんだか……
味方にすればこれほど頼れる存在はいないが、敵にすれば逃げられはしないと、本能が警鐘を鳴らしていた。
ガットに続く形で、三人は病室へと入っていった。
入室と同時に、ぼんやりと光のウフが天井に灯る。
ガットはすでに部屋の構造を知っているようだった。
迷うことなく窓辺に向かい、窓枠の横の壁へと背を預ける。
ユヴェはその姿を目で追った先に、窓辺のサイドテーブルに置かれている小さなケースを見つけた。
……遮音機だ。
それはユヴェの持つものとよく似ているが……さらに小さく、さらに複雑そうな構造だった。
蓋はすでに開いていた。
そして一歩、病室へ踏み入れた瞬間に、わずかに鼓膜が揺れて、若干の温かさを感じる。
最初から準備してたんだ。
……蝙蝠が近寄れないとしても。
でもきっと、この男は”気配”すら遮りたかったんだ。
遮音の膜が肌に触れた感覚をなぞるように、ユヴェが腕をさする。
その用意周到さ、そして慎重さが、ほんのすこし背筋を冷やした。
小さなケースを見つめる彼女に気がついたガットは、かすかに眉を寄せた。
「…覚えるな。忘れろ」
そう呟いたその目線が、わずかにユヴェをかすめた。
まるで──“口外すればどうなるか分かるな”と、語るように。
一つ息を呑んで、ユヴェは目線を泳がせた。
けれど、彼女の眼差しは再び、ガットを捉える。
「あの──」
震える声を押し殺して、ユヴェは警戒を露わにしたまま、静かにそこにいるガットを見やった。
「…あなたが、もうひとりの協力者?」
「……話してなかったのか」
「言わないよ。極力会わない方がいいとさえ思ってた」
凌の発言に、ガットが感心したように眉を上げた。
……やっぱり、詰め切れねえ甘さがあるな。
でもそれは大抵の奴にとって仕方ないことだろうと、割り切りながら。
「真っ黒の服…裁判所の関係者…?私の家も見てたって──」
ガットが返答する前に、凌が遮るように口を挟む。
「ユヴェ、今は利害が一致してる。それで十分だろ」
ガットは凌の言葉に続けて、低く、釘を刺すように言葉を落とした。
「この取引は、お前らが逃げ延びたら終わりだ。その後どう動こうが、俺の勝手。そっちも、俺の背中は追うな」
ユヴェは少しだけ眉をひそめながら。
「…わかった」
ぽつりと呟き、頷いた。
“でもこの男がいなければ、計画は成立しない。”
──その現実だけが、彼女の警戒心を押しとどめていた。
「本題だ。記録に残すな。頭に叩き込め」
ガットが静かに口火を切るのに合わせて、ユヴェがゼノラ層の地図を小さなテーブルに開いた。
それに自然と、四人が集まる。
「──今回の狙いは“和親亜月”と“悼む槍”の奪還」
淡々と、ガットの声が部屋に落ちる。
「悼む槍と亜月の移送は、12月4日、正午」
ちらりとガットがベッド脇に置かれている小さな時計を見やる。
ゼノラの雨の中、凌との共闘を内心で決めたのが12月3日の早朝四時。
それから六時間半の時差によって巻き戻り──
護送日時をウルネスで手に入れたのが同日朝、ソルの目が覚める六時のリリーとエノワールによる、定時報告時。
それから、まだ半日も経ってない。
けれど、再び時間は飛んでいる。
今、ゼノラ層での時刻は日を跨ぎ、すでに12月4日を示していた。
ガットは時間を“渡る”ように、常に無駄なく動き続けていた。
時差と沈黙の時間を最大限に利用して。
悪魔たちの目を掻い潜るように。
──何ひとつ、痕跡を残さずに。
明確な日付を耳にしたユヴェは息を呑む。
分厚い手袋に包まれた手を、ぎゅと握った。
「…今日ってこと…?」
「そうだ。およそ12時間後には、全てを終わらせる」
ユヴェの声が震える。
恐怖とも、焦燥とも言えない、わずかな揺らぎだった。
彼女は拳を軽く握っていたが、指先がほんの少し震えているのがガットには見えた。
「……怖いのは、仕方ない。震えるなって方が無理がある」
しばらく黙っていた凌が、唐突にそう言った。
それはいつもの平坦な声だったが、どこか──ほんの少しだけ、温度があった。
ガットは軽く首を回す。
「だろうな。でも──震えても、やれ。選んだなら、動け」
“それが生き残るということだ”と、言うように。
ユヴェは彼の眼差しに、静かな炎を垣間見た。
この男は、すでに“覚悟”が灯ってる。
そう思うと、まだまだ揺らぎの多い自分が、情けない。
理解はできる。
でも、言葉で恐怖がなくなるわけじゃない。
その感情の上に、無理やり立ってるだけだった。
「リウェルタの収容所から出て、大扉を経て──悪魔領ネスタの“裁定の塔”へ。護送車は、外壁の街道を通る。乗り物はシャーディン」
「シャーディン…?」
「屋根付きのそり」
首を傾げる翔に、凌が端的に付け足す。
トントンと、ガットが地図上で湖の中心に描かれる都市を叩いた。
「リウェルタは湖上要塞だ。中に入るのは良くても出られねえ。狙うなら、壁の外」
「都市間に関所が二つ…この間を狙うの?」
「そうだ。ちょうど、自然地帯の中を突っ切る地点がある」
「確かにここなら……木立が深くて視界が限られそう」
ただし、身を隠すに適するということは、“敵も同じことを考えている”ということでもある。
全員が同じことを考えていた。
しかし言葉にするものはいない。




