六十二層 : 声なき森にて.04
…遅くなっちゃった。
ノードの街の多くの店は閉まり、出店が畳まれ、ランタンの火だけが煌々と灯っていた。
音楽は少しだけ落とされ、けれど祭の雰囲気が大通りにはまだ残る。
冬の冷たい風が頬を撫で、ランタンの明かりのせいでいつもより星が見えにくい深夜。
裏の暗い小道を進みながら、ユヴェは自宅へと歩いていた。
あれから、彼女にとっては珍しい外食をした。
普段は食べられないような柔らかいパンと、暖かいスープ。ヤギの腸詰め。
食べ慣れないと思ったのは、天使のプレートだったからかも。
いつもは野菜が中心の、妖精食。
でも今日は、誇りに生きる天使のご飯を食べてみたいと思った。
なんとなく、今の自分に”誇りの火”を、宿らせたくて。
──美味しかったな。
そんなことを思いながら、家の鍵をひねる。
小屋の扉を開けた瞬間、ユヴェはびくっと肩を揺らした。
部屋の中央には、既に“動いている”二つの扉。
ひとつはイデラへ通じる扉。
もう一つは、自然地帯の深部──グレイロック診療所の敷地内に繋がる扉。
そして、その間に凌と翔が立っていた。
ユヴェは言葉を失い、思わず背中を戸に押し付けるようにして立ち止まった。
「……びっくりした……」
戸を完全に閉め、カーテンの隙間がないことや、遮音機が開いていること。
そして、その遮音の膜の中に自分が入ったことを確認してから、ようやく声を出す。
「……何してるの?」
ポケットに入れていた手袋を装着し直して、ユヴェが言う。
凌が無言で顔を上げた。
「移動する。必要なものを揃えろ。しばらく帰ってこれない」
「えっ……ちょっと待って、話が──」
「後で聞く。今は準備を優先しろ」
短い指示。
けれど、ユヴェはそれ以上は聞かず、小さく頷いた。
「……分かった」
大きめの肩掛けカバンに、必要そうなものだけを詰め込んでいく。
最後に使い慣れた手袋の替えを突っ込んだ時には、凌がグレイロック診療所へ続く扉を押し開いていた。
扉は、病棟の敷地内の墓地のはずれ──小さな管理棟の扉につながっていた。
月は昇っているが、分厚い樹冠に遮られて届かない。
薄暗く足元に霧が溜まっている。
点在する小さなウフ灯が、青白く足元を照らしていた。
「…え…お化け屋敷じゃん…」
翔が自分のリュックの紐を握りしめて、凌の後に続く。
ユヴェも同じことを思いながら、扉を静かに閉めた。
「なんかすごい数のお墓だね…」
「これ、お墓なの?」
立ち並ぶ墓石は、十字架ではなく円模様が刻まれているだけだった。
中には、墓石自体が輪の形となって地面に刺さっているものもある。
ユヴェはそれらを眺めながら答える。
「ハーウェンの輪って言って、死後は彼が魂を新しい場所へ誘ってくれるの」
「人類でいう、輪廻転生みたいなもんだよ」
「へえ…」
凌は、あくまで“外側の人間”のような口調でそれを言った。
半分理解したような、生返事をこぼして翔は進む。
一方、ユヴェは一瞬だけ眼差しを凌へ向けた。
”どうして人類の基準を引き合いにした”のか、わずかな引っかかりを覚えたように。
でも、なにも言わずに彼の後をついていく。
「それにしても、全層一の名医なのに、お墓多いよね…?」
ユヴェの疑問に、凌は短く答えた。
「ドクターの腕が悪いわけじゃない」
「…てことは?」
「気に食わない患者は、“治療のあと”どうなったか分からない、って噂がある」
──ぞわり。
翔とユヴェが思わず足を止める。
先をいく凌がふっと笑ったのが聞こえた。
灰色の病院は墓地の先に建てられていた。
人類目線で見る翔はもちろん、ゼノラ層に住むユヴェさえ、その異様な佇まいに息を呑んだ。
ノックをせずに、凌は中へ入っていく。
そこには誰もいなかった。
まるで廃病院かのように、灰色の冷たい空間だけが広がっている。
鼻をつく薬品と、わずかな鉄の匂い。
よくある病院の様子を保ちつつも、すでにどこか“異質な空間”に放り込まれたと、ユヴェは肌で感じた。
……鬼灯通りの、あの鳥居の中と少し似てる。
何かが見つめてくるような。でも、誰もいない。
かすかにたじろぐユヴェを気にも留めず、凌は履きつぶしたスニーカーで進む。
そのまま勝手知ったる足取りで、カウンターを無視して、病棟の薄暗い廊下へ。
三人は、誰もいない静けさの中を歩いていった。
凌が、事前に手配してもらった空き部屋に向かっている途中──
翔がふと、小声で言った。
「……病院って、もっと人とか、いるもんじゃないの……?」
その声さえ、壁や床に吸われていくように消える。
ユヴェはそれが音のウフの建材によるものだと、心の中で納得した。
「ドクターはうるさいのが嫌いなんだよ」
「だとしても…」
あまりにも音がない。
廃病院と言われてもおかしくないくらい、生気が感じられない。
翔がぶるりと身震いをした、その瞬間だった。
「──遅い」
凍りついたような声が、廊下の先から落ちてくる。
三人が顔を上げると、そこに影が一つ、立っていた。




