六十一層 : 声なき森にて.03
その夜の日本の空は、よく晴れ渡っていた。
南中に浮かぶ月明かりは、珍しく真っ直ぐと落とされていたが──
街に灯るネオンや街灯の数々が、いつものようにそれを上書きする。
住宅街の中にある、一軒の日本家屋。
どこにでもある見た目のそこでは、影がひとつだけ動いていた。
部屋に電気はついていなかった。
けれど、学習机の細長いライトだけが、手元を照らしている。
鬼灯通りから帰ってきてからというもの、翔は凌の家から一度も出なかった。
学校には休みを入れて、ずっと、部屋の中で過ごしている。
「音を立てなければいい」という凌の言いつけを、きちんと守って。
あれから頭の中では、亜月が悪魔たちに連れていかれた時間を繰り返していた。
楽しかった引っ越し作業の中に響いた、静かすぎるインターホンの音。
緊張して、でもそれを見せないように笑った亜月の顔。
閉まる扉。遠ざかるエンジン音。
開けっ放しの段ボールを見る勇気がなくて、二階には登れずに。
一階の自室とダイニングを行き来するくらいしか、できていない。
何もできなかったことが悔しかった。悲しかった。
子供だからって、ただ守られる側なのが、悔しかった。
僕よりずっと、異層のことを知らない亜月ちゃんに、無理させて。
悪魔の裁判所のことだって、亜月ちゃんはほとんど知らないはずだった。
凌は、イデラで生きていくのに不要な知識は、ほとんど教えてくれないから。
……でもそれが、凌が僕たちに向ける不器用な愛情で、なによりの防波堤だって知ってた。
こうやって、いざ裁判所関係者に捕まったとき──
“何も知らないまま、人類に紛れて生きていた悪魔”という立ち位置が、僕たちを守るって。
でも、わかっていても、やるせない。
今どこにいるかわからない亜月の身の心配をしては、息が詰まる。
だから──思考する隙間を埋めるように、手だけが常に動いていた。
凌は、亜月が裁判所の悪魔たちに連れられてから、何かを準備しているようだった。
計画は話されない。
でも、気配で分かっていた。
気だるげで優しい、いつもの空気とは違う──どこか張り詰めたものが、常に凌の背に張り付いている。
夜中から朝方、何かをしに出かける。
昼の間はほとんど動かず、あるいは帰ってこない。
そんな非日常に、少し慣れ始めてしまった四日目の夜。
裁判所があるウルネス層。
そしてイデラ層の沈黙の時間が重なると同時に──
病院から戻ってきた凌は、静かに翔の部屋の扉を開ける。
机に向かっていた翔が、肩をびくりと震わせた。
背中にぐちゃぐちゃになった配線と、大小様々な部品。
ひときわ雑に束ねられたコードと、ところどころ部品がむき出しのままの見慣れない端末の試作機が、机の上に広げられていた。
「……また何か作ってんの」
声をかけると、翔は気まずそうに手を止めた。
責めるような声ではなかった。
穏やかで、低く落ち着いている、語尾の抜ける音。
けれど、”いたずら”がバレたような気持ちになる。
大きすぎるゴーグルを押し上げて、翔の目線が泳ぐ。
「……うん。通信機、みたいなやつ」
「……」
「亜月ちゃんが捕まった時、凌にすぐ連絡できなかったでしょ?……やっぱ、層が違っても繋がるの、あるといいなって」
一瞬、凌は黙る。
けれどその目は責めるものではなかった。
「……お前の責任じゃないよ」
そう言って、軽く翔の頭を撫でるように手を伸ばす。
翔は少し目を伏せて、小さく「うん」と頷いた。
…この数日で、少し顔が大人びた気がする。
ほんの少し前までは、もっと無邪気に騒いでいたのに。
人間てのは、本当に成長が早い。
“ごめんね”って、言ってるような小さな背中だった。
凌はそう思いながら、何も言わずにその頭を撫でた。
部屋の片隅──窓枠の影に、小さな蜘蛛が一匹、じっと張り付いている。
凌はそれを指にとって、静かに自らの肩に乗せた。
基本的には、妖怪のためになることしかしない店長だけど……
姿を見せずとも、きっとずっとここで翔を見守っていてくれたのだろう。
それもあって、凌は身軽に準備を進めることができていた。
いつもなら囁いてくる声が、この時は聞こえなかった。
報告するようなものはない、と言うことだろう。
凌は羽織を翻して、翔を振り返る。
「すぐに移動する」
翔は少し戸惑ったが、短く返事をして椅子から立ち上がった。
机の上の雑多なコードを適当に引っ掴む。
そして、机の脇に掛けられていた鞄へ押し込んだ。
すでに、荷物はまとめられていた。
ふたりは家を出て、足早に星層扉へ向かった。
いつものビルの勝手口。
そこへ鍵を差し込む時に、凌はユヴェの小屋を思い浮かべる。
鍵を回すと、どこか湿った金属音が鳴る。
冷たい風が吹き抜け、空気の匂いがほんの少し変わる。
その先には、この最近で見慣れつつある──
あの鮮やかで、それでいてどこか落ち着く部屋が待っていた。




