六十層 : 声なき森にて.02
ゼノラ層にある中央都市……大扉の街、ノード。
ソルの陽光が完全に落ちきって、ハーウェンの時間がやってきていた。
鍵屋の奥にある工房…その喧騒が少しずつ落ち着き始めた頃──
帰宅準備をしていたユヴェは、今朝、新たに作ってしまった不正扉の輪郭を思い出していた。
一度跨いでしまった境界線は…二度目はとても、簡単だった。
思い返すと、自分でも驚くくらい簡単に、凌へ扉の接続を提案していたように思う。
……種族の誇りに──二度も背を向けちゃった。
今更になって、すこし落ち込む。
机の上の自前の鍵を見下ろして、ユヴェは小さく息を吐いた。
その背に、メテオの低い声が落ちた。
「ユヴェ、少しいいか」
たった一言に、胸の奥で何かがざわついた。
いつもより少しだけ低くて、少しだけ感情を抑えているような──
そんな声だった。
不安が、ゆっくりと広がっていく。
それでも、顔には出さず、ユヴェは手袋を握りしめて頷いた。
案内されたのは、鍵屋の裏手にぽつんと建てられた事務室。
何度も来たことのある場所だったはずなのに、今日は、扉の色が違って見えた。
中に入ると、相変わらずの鍵帳簿の山と古紙の匂い。
天使からの依頼書が雑に積まれている。
その中で、ぽつんと置かれた小さな丸椅子が──やけに遠く感じた。
「座れ」
メテオの指示に、ユヴェは大人しく従った。
小さな丸椅子に腰を下ろすと、古びた木がきしむ音がした。
「……最近、大人しいな」
机越しにぽつりと放たれた声。
ユヴェは小さく肩をすくめる。
「……ちゃんとするって、約束したでしょ?」
それは地図を探していたあの日、確かに口にした言葉。
メテオはその記憶をなぞるように「そうだったな」と呟いた。
「何かあったのかと思ったんだが」
「……何もないよ。いつも通り」
「その割に、“ふわふわ”してない」
言われた瞬間、ユヴェはぴたりと目を伏せた。
その言葉は、かつて何度も言われたものだった。
詩的なことばかり語って、神獣のことを、恋するみたいに話す。
目に見えないものを信じて、触れられないものを抱きしめようとする。
それが、この堅実な鍵の一族にとって、
どれだけ「浮いて」見えたか──
ユヴェは痛いほど知っている。
「……あんまり“浮くな”って、いつも言うくせに」
ぽつりとこぼれた声には、どこか刺すような、寂しさが滲んでいた。
それでもメテオは、すぐには言葉を返さなかった。
「……お前のためを思って言ってる」
「……知ってるよ」
「先日は勝手にグラルメアに帰ったかと思えば……今度はほとんど出歩かなくなった」
「…いいことでしょう?」
たしかに、以前はよく怒られていた。
浮ついた態度、目に余る自由、規律に背いた行動。
そのすべてを改めた今、なぜまだ──と、言葉にならない想いがユヴェの胸を焦がした。
「……普通ならな」
「普通、ね……」
たった一言が、深く突き刺さる。
ユヴェの顔が、すとんと俯いた。
「──ねえ、メテオ」
その声は静かで、どこか、壊れそうだった。
「メテオは優しいよ。私、あなたがいなかったら本当に、ずっと、グラルメアで、洗濯したり菜園したりしてたと思う」
「……」
「でも、私に期待してくれるなら……もう少し、私のことを信じて欲しいよ」
“放っておいて”
そう言えたらどれほど楽か。
でも、それを彼女なりに、なるべく優しく、角が立たないように、丁寧に選んだ言葉だった。
メテオはしばらく何も言わず、冷めた薬茶を静かに啜った。
その音が、事務所の中の唯一の音になった。
やがて、ふっと息を吐いて、短く返事をする。
「……わかった」
その返答に、ユヴェはゆっくりと立ち上がった。
「ちゃんと休めよ」
背中越しに告げられた言葉は、静かで、確かにあたたかかった。
けれど、振り返ったユヴェは、もう微笑んでいなかった。
何かを言いかけて、飲み込み、無言のまま事務所の扉を押し開ける。
そして──
一歩、外の夜に踏み出した。
背中を照らす、ほんのりとした植物灯の光が、長い影を引いた。
メテオは、閉まった扉をしばらく見つめたまま、耐熱服の胸ポケットから煙草を一本取り出した。
指先で火をともす。
カチ、と音がして、白い煙がくゆる。
一呼吸。
火薬の匂いと、紙の焦げる匂いが微かに鼻を刺す。
長い紫煙が、帳簿と鋳造申請書に覆われた机の上を静かに滑った。
「……難しいな、あいつは本当に」
額に手を当てるように、頬杖をつく。
指の間から覗く視線は、煙の彼方にまだ見えぬ何かを探すようだった。
窓から差し込む静かな月明かり。
それをかすかに反射する、透明なクロイツェルの宝石花。
思わず零れた彼の一言は、煙とともに、誰にも聞かれることなく溶けていった。
*
メテオの事務室を出て、まっすぐ帰る気になれなかったユヴェは、久しぶりに角通りを歩いた。
ヴァルカニア祭の鮮やかなランタンがあちこちに灯され、屋台から漂うスパイスの香りが鼻腔をくすぐる。
楽しげに走り回る子供たちや、賑やかな行商人の横を通り過ぎながら、彼女は目的もなく歩を進めていた。
──本当は、あんまり出歩かない方がいいんだろうな。
不正扉を二つも家の中に作って、今から悼む槍を取り返そうと画策していて。
すっかりやってることは犯罪者だ。
いつ裁判所の悪魔がきても、おかしくない。
それでも、小屋の鍵は二重に閉めた。
カーテンもずっと、閉めきっている。
遮音機は常に開きっぱなし。
扉は…いつ凌が使うか分からないから、そのままだけれど。
最低限のことはしてる、はず。
「……なんか、やだな」
ぽつりと声がこぼれた。
後ろめたさを抱えて生きるのは、ほんとうにつらい。
毎日がつまらなく塗り替えられていく。
少し前まで、あんなに色んなものが色付いて見えていたのに。
──いつまで続くんだろう?
ふとそんな事を考えて、急に心が冷えていく感じがした。
いつまでとか、ないんだ。
そう、きっと、始めた時点で、どこにも戻れないって決まってた。
……それでも、どこかで、“誰かが手を引いてくれるかもしれない”って、まだ思ってた。
橙のランタンの火。
揺れる自分の影を足元に見て、それが自分の今置かれた状況が可視化されたように感じた。
──崖っぷち。
大きくため息が出た。
声に漏らしては、どこかで蝙蝠に聞かれる。
独り言さえ、許して貰えない。
どこにも身を寄せることが出来ないまま、この先どうしよう?
槍を取り戻したあと、私はどうすれば?
ここにきてようやく、衝動で動いてたかもしれないと思い至った。
でも、後悔はしたくなかった。
神器を政治に利用されたくなかったのは事実だ。
けれど、それで私の残りの生涯は、確実に棒に振ることになる。
気持ちだけで、生きていけないの?
夢を見て、世界に恋して生きていちゃ、いけないの?
ポケットの中で自分の鍵を握りしめる。
その指先は、手袋の中で汗ばんでいた。
自らの鍵の意匠は、ノア・セメナ。──恋と、救済の神獣。
「…あなたの問い、ほんとうに難しすぎるよ……」
炎のウフで燃える蝶のおもちゃが、ひらりと彼女の頭上を飛び越えていく。
ゴーグルの奥から、彼女の揺れる目がそれを見た。
「ねえ……それでも、信じていいの? 信じたまま、壊れてもいいの?」
鍵のつまみに彫られた、崩れた方舟。
不完全さは、赦しなのか?
壊れていても、なお、愛すべきものはあるのか。
それが、救済の神獣の“問いかけ”だと思ってた。
どんなに歪でも、誇りがあれば美しさは失われない。
キラキラと輝いて、忘れられない恋になる。
そう、信じてた。
──でも、今は
あまりに自分の足元が、危うすぎて──
手放しにそれを、信じるには心許なすぎた。
ユヴェは鍵を離して、また歩き出した。
でも、手袋越しに残るその重みだけは、しばらく手の中に残っていた。
ランタンの炎から目を逸らす。
今の彼女には、その火でさえ眩しすぎた。




