五十九層 : 声なき森にて.01
ゼノラ層で凌と別れたのが、朝方四時のこと。
それから、多少の“仕事”をこなしたあと、ガットは、ウルネスの悪魔領、“安寧の森”へ戻ってきていた。
コバルトブルーが、壁にかけられた時計をちらりと見た。
ウルネス層の現時刻は朝の六時。
たった二時間の針の進みに見えても、時差のおかげで、そこには六時間以上の“見えない”時間が存在していた。
霧が晴れ、青白い光が差し込む頃。
表向きガットの担当地区である第六区の裁判所執務室には、まだ冷えた空気が残っていた。
執務室というには、そこはあまりに荒廃していた。
長年、誰にも使われていなかったことを示すように、床のタイルを割って草が生えている。
窓ガラスは辛うじて残っているものの、机は傾き、執務室としての機能はほとんど果たしていない。
書類仕事などほとんどないから、腐っていても関係はない。
けれど、部屋の中央にある低い長椅子だけは、誰かが使い続けている形跡があった。
この部屋の、現持ち主──ガットだ。
その椅子に深く腰を沈め、机に足を投げ出している。
無造作な姿勢のまま、目の前に並ぶふたりの報告を聞いていた。
「──翔くん、昨日から外出の記録はありません。夜間も、蝙蝠は音を拾ってません。自宅の気配も薄くて……きっと、怖がっているんだと思います」
小柄なリリーは、しっかりと背筋を伸ばして報告する。
垂れてくる黒髪を耳にかけながら、まっすぐな眼差しを向けて。
その声音には、対象である少年への配慮と、ガットへの誇らしさが滲んでいた。
「日中はずっと、部屋に篭って何かを作っています」
「…何か?」
「おそらく、“科学”の何かだと思います。…すみません、詳しくなくて」
ガットが片眉を上げた。
不意に向けられた眼差しに、リリーが上擦った声で答える。
手元の記録帳をくるりと指で回しながら、ピンク色のネイルが光る。
「ユヴェは?」
それを一瞥して、隣の巨体へ目線を変えた。
足を組み直しながらガットが問う。
「普段通り。鍵屋に出勤して、夕方には小屋に戻っていたわ。これまでと違う点は何もナシ。ただ…」
一瞬言い淀んだエノワールは、わずかに目を細めてガットを見た。
「夜間、見張りについていたリーテ第三裁判官から借りてる蝙蝠……二度扉が開いた音を聞いてるらしいわ」
「……へえ」
「足音はほとんどなく、どちらもすぐに閉まった。ユヴェが外に出たのだとしたら、“音がしない足取り”が、少し引っかかるわね」
エノワールは指先を口元に寄せて、考えるように目線を上へあげる。
「……外に“誰か”を通したのか、あるいは自分が“何か”を出しに行ったのか……」
「調べろ。ゼノラ層は昨晩雨が降ってる。音は消えても、足跡は残る」
淡々と指示を飛ばして、ガットは続きを促す。
「不正扉の痕跡は?」
「そっちも、明確な痕跡は拾えてないわね。まあ……使われてても、痕跡を残さない技術もあるらしいし。上への報告は、今の段階じゃ控える方が妥当かも」
「ゼノラ、イデラ間の移動の不明は多いですが、獏は影のウフ適性者。そして死角を踏む習性のある妖怪種なので──扉自体を抑えるか、現行犯で取り締まる以外に証拠なんて出せませんよ…」
エノワールは低い声で、ため息交じりに報告を落とし、リリーは半ばあきらめたような声をあげた。
ガットはそれを聞くと、ただ無言でひとつ頷く。
そして、今度は自らの報告を口にした。
「──山本凌は、リウェルタ、ノード間の自然地帯にある病院に入った。今朝まで動きなし」
その言葉に、リリーがほんのり安堵したように息を吐く。
わずかにズレた眼鏡を、癖のように人差し指で押し上げながら。
「さすが…ガットさん」
ぽつりと漏れたその声には、乾いた空気とは不釣り合いなほどの柔らかさが宿っていた。
小さく微笑むリリーの目には、隠しきれない尊敬と、どこかほのかな好意がにじむ。
だが、そんな彼女を気にも留めず、ガットは静かに続きを語った。
「うまく“中立”地点を渡り歩いてやがる。鬼灯通りにしろ、グレイロック診療所にしろ…下手に手を出せねえ場所ばっかだ」
「鬼灯通りは、女郎蜘蛛の許可なしにはあの鳥居を潜れないし…グレイロック診療所って、確か怖すぎる名医がいるところ、ですよね?」
「ドクターね。名前も名乗らない、絶対の“生”を保証してくれる医者」
そんなこと本当に可能なのかしらと、エノワールは内心首を傾げた。
「なんでその病院には手を出せないんですか?」
純粋な疑問を挟んできたリリーの声は、どこまでも無垢で率直だった。
けれど、その言葉にガットは何も返さなかった。
椅子に深く沈んだまま、ただコバルトブルーの瞳を細めている。
代わりに、隣に立つエノワールが静かに口を開いた。
彼の二メートルは超える巨躯は、小さなリリーと並ぶとまるで壁のようだったが、
その声には、ほんのわずかにためらいを滲ませた理知があった。
「“腕が良すぎる”からよ。普通、種族ごとに体の作りが違いすぎるから、病院ってどの種族向けって公言してるところが多いでしょ」
リリーは、少し考えるように視線を落とす。
「……確かに」
「でも、あそこのドクターはどんな種族でも治してくれる。怪我も、病気も、致命傷でもね」
エノワールの言葉は事実の羅列に過ぎなかったが、その端々には、明らかな警戒が潜んでいた。
説明というより──忠告に近いもの。
「…なんか怖くない?それ逆に」
リリーの声は、どこか戸惑いがちだった。
医者とは思えない話に、彼女の常識が軋んでいる。
「それが本当ならね。でも、信憑性のある話だからこそ、裁判所もその恩恵を受けてるわ」
エノワールの語尾には重さがあった。
戦場と裁判所という、命の取引が日常である現場において、グレイロック診療所の名は“避けがたい影”のように広まっていた。
何度となく繰り返される天使と悪魔の戦争。
どれだけ上層部が表面上の秩序を整えても、戦場で血を流す者は絶えない。
その中で、唯一“生還”を保証できる者がいるとすれば──
どんなに異質でも、その医者は必要とされてしまう。
実際、かつてダーツが左腕を失った戦役の際、裁判所は診療所への全面協力を命じたという。
その記録は、今も闇に伏せられたまま、鍵のかかった引き出しの奥──誰の目にも触れずに眠っている。
エノワールは広い肩をわずかにすくめた。
「恐ろしいほどの検体を扱ってきたのか…もしくは、気が遠くなるほど長く生きているのか……」
淡々とした声だったが──
そのどちらも現実味を帯びているのが、この世界の異常さだった。
「……絶対近寄りたくない」
リリーの声は、今度こそ明確な拒否の響きを持っていた。
笑うような口調の裏に、ぞっとするものが滲んでいた。
それを聞いて、ガットはようやく口を開いた。
「……だったら黙ってイデラのガキを見張ってろ」
冷たく、鋭く、そして一切の甘さを許さない口調だった。
切り伏せられたリリーは、それでも元気よく「はいっ!」と返事をする。
その声には怯えもなく、ただの素直な忠誠があった。
一方で、エノワールはその様子を横目で見ながら、わずかに唇の端を持ち上げた。
まるで──子どもが危険な場所に踏み込むのを、黙って見ている大人のように。
「ねぇガット、あなたの“対象の把握能力”は本当に天性のものね」
「……」
「でも──」
手元の書類をすっと差し出しながら、その声が一段だけ低くなる。
“次の一手”が、何かを変えると分かっている者の声だった。
「本命の動き、出てきたわよ。悼む槍の護送……コウヤ第四裁判官を中心に第四で全て固めて──」
「移送経路は、湖上都市リウェルタの収容所から中央都市ノードへ。そのまま大扉を通って、ウルネス入り」
「……ご丁寧に護送ルートまで報告いらずってことね。ええ、本当に親切なこと」
言葉を奪って繋げたガット。
それに対し皮肉交じりに返すエノワールに、ガットはフードの奥で片眉を上げるだけだった。
「日時について、第三で聞いてきました私!ゼノラ刻の12月4日正午、リウェルタ出発です」
嬉々として報告するリリーに、ガットがコバルトブルーの瞳を向けた。
エノワールが呆れたように天井を見る。
リリーもエノワールも、ただのガットの部下ではない。
何の権限も持たない彼の手足でありつつ、悪魔領唯一の天使を見る目でもあった。
でも、同じ立場でも、リリーは“信じたい者”で、私は“見届ける者”──ただそれだけの違いが、時に命取りになる。
「…リリー。あなたまたリーテ第三裁判官のところから情報抜いてきたの?」
「だって、一緒に移動するアツキの動き、知る必要あるでしょ?」
「だとしても、あなた元第三よね?」
「だから?」
まるで気にしない、と言わんばかりに唇を尖らせるリリー。
「第三にしては上等だ」
不意に落とされた、ガットからの評価。
リリーは一瞬驚いて、目を丸くしたあと、分かりやすく笑顔を浮かべた。
照れ隠しに記録帳をぱたぱたと仰ぎながら、嬉しそうに視線をそらす。
そして、静かに心の中でつぶやいた。
……元・第三。けれど今の自分は、ただ“あの背中”に従いたいと思っている。
伝わればいいのに。言葉なんてなくても。
そんな彼女の胸の内を掬い取るように、エノワールは大きめのため息をついた。
…頭が痛い。完全に飼い慣らされてる。
このままだと、“リリーごと爆破処理”も、選択肢から外れなくなる。
リリーは第三から、エノワールは第二から。
それぞれがガットの監視役としての任を持ちながら、部下として動いている。
それなのにこの子ったら……
一歩間違えれば裏切り行為にも見えるそれに、エノワールは口を閉じるしかなかった。
……本当に処理の対象になる前に、止められるといいけど。
ガットは、すべてを聞いていた。
けれど何も言わなかった。
鼓動、目線、息の吐き方、指先の揺れ。
言葉よりも雄弁なものが、すべて彼の前では沈黙しきれない。
そのうえで、彼は無言を貫いている。
「ガットさん、第六の我々はどうしますか?」
「……」
「…とりあえず傍観でいいんですって。監視と扉の不正利用の調査継続が任務。直接介入は不要──らしいわ」
ガットの代わりに答えるエノワールを、リリーが軽く睨む。
……ごめんなさいね、愛しの君の声を聞けなくさせて。
けれど、そんなこと口が裂けても言わない。
男である自分でさえ、ガットの沈黙する獣のような雰囲気には、確かに畏敬の念を覚える。
だからこそ、これ以上この子をのめりこませちゃダメだと、頭のどこかで警鐘が鳴っていた。
しばしの沈黙のあと。
やがて、リリーが不安そうに口を開いた。
「……ガットさん。本当に、私たちは動かなくていいんですか?」
「言われた通りにしとけ」
どうでもよさそうに、ガットは吐き捨てる。
「あいつらの手のひらの上で跳ねたって、落とされるだけだ」
リリーは少しだけ口を噤み、けれどその横顔には決して消えない忠誠がにじむ。
どんな命令でも従うつもりなのだと、目が語っている。
エノワールは一歩下がりながら、彼女とは違う色で、少し寂しそうに笑った。
エノワールは知っていた。
ソルヴァンに向け、ガットの定期報告をする度に、実感する。
彼らふたりの水と油のような関係を。
そしてソルヴァンは、今回の獏による背信行為……それに、ガットが手を貸すことを、望んでいるような節があることを。
──お願いだから、裏切らないで。
あなたまで反旗を翻したら……私たちじゃ止められない。
そんな想いを心の中に留めながら、手元のファイルを軽く閉じた。
「終わったならさっさと行け」
「了解」
雑に手を払うガットに背を向けて、リリーとエノワールは部屋を出た。
完全に扉を閉める前に、リリーが振り返る。
「しっかり休んでくださいね!ガットさん」
それに返事も返さず、ガットはソファに横になって目を閉じた。
バタンとしまった扉の先で、リリーは小さく息を吐く。
「…って言っても、どうせもういないよね」
「…でしょうね」
「ほんと、いつ休んでるんだろ…」
体が頑丈な天使だからこそなのか、
あるいはガットだからなのか──
きっと、この密室から既に姿を消していることだろう。
文字通り自分の時間を削る働き方をする上司に、ふたりで肩をすくめた。
──まるで、誰かの影だけが、まだそこに残っているかのように。




