五十八層 : 灰色の病棟.04
廊下の灯りは淡く、天井を這う光のウフが、足元に細長い影を落とす。
ヒヨたちの喧噪が嘘のように、建物はしんと静まり返っていた。
ドクターの診察室は、廊下のいちばん奥にある。
ゆっくりと歩くたびに、床材の隙間が微かに軋む。
その音が、やけに深く響いた。
やがて、一枚の扉の前に辿り着く。
古臭いわけでも、新品でもない。
目立った傷もないはずなのに、まるで扉そのものが治療中かのような異様さだった。
ノックはしない。
鬼灯通りの鳥居が店長の”領域”であるように、この病棟はドクターの”領域”だった。
だから、何をしてもすでに知られている。
診察室に入った瞬間、重たく湿った空気が肌にまとわりつく。
薬品の匂いが濃くなった。
どこか鉄の香りすら混じるその空間は、応接室の静けさとはまた違う、命の匂いがする場所だった。
照明は薄暗く、天井から吊るされたランプがぽつぽつと不規則に灯っている。
床も壁も、色のない灰に近い。
それなのに、目を引くものがあった。
窓の隅──
細く、張り詰めた糸が、外枠と取っ手の隙間を渡っていた。
……店長の蜘蛛。
凌は心の中で呟く。
蜘蛛本体の姿はないが、糸の織り方が明らかに“彼女”の使いのものだった。
一瞬、背筋が凍る思いがした。
亜月か翔に何かあった…?
でも、それなら俺のところに直接来るはずだ。
つまり、あの巣は、ドクターに俺の話をしたあとの名残──
「入りたまえ」
ドクターは背を向けたまま言葉を投げる。
白衣の裾がゆらりと揺れ、机の上には記録カルテと、血液反応の試験管が並べられていた。
「まずは診察だ」
「だから、今日はそんなつもりで来たわけじゃ──」
「座れ、凌。患者としてここにいる限り、私の“規則”は曲げられん」
抵抗する隙すら与えず、ドクターの声は鈍く床を這い、言い終わる前に、ドクターは椅子を回して向き直った。
金の瞳が、静かに凌を捉えている。
まるで、もう“中”をすべて読まれているような視線だった。
観念したように、凌は壁際の診察用の椅子に腰をかけた。
器具の配置、冷たさ、手慣れた計測の音──
この病院に通うたび、何度繰り返してきたかわからないルーティン。
「その様子じゃ眠れてないな。最近、悪夢の頻度は?」
「……寝れば見る。たまに潰されそうになる。…けど、今のところは右目で抑えつけられる」
「動悸は?頭痛や痺れ、耳鳴りは」
「右耳の奥がまれに。あと、ときどき影がうるさい」
「それは幻聴か?」
「……近いけど違う、と思う。影の中の悪夢が蠢く音、みたいな」
「視界の歪みや、空間のずれを感じることは?」
「…ある。右目はとくに」
「瞑っていても?」
「……まぶたの薄さで見えなくなるなら、苦労しない」
カルテに記録を書き付ける音が、唯一響いた。
ペンの先が紙を掠めるたびに、診察室の空気がどこか重くなる。
「呼吸。深く吸って、10秒間保持」
言われた通りに凌は息を吸う。
ドクターは包帯越しに聴診器を当て、脈を測り、呼吸音を聞く。
一切の雑談もなく、ただ機械のように淡々と、精確に。
「──酸素の取り込み効率が低い。やはり肺胞の一部が“眠って”いる。獏種特有の症状だ」
「眠る、ね。皮肉だな」
「君の悪夢が深層で肥大化している証拠でもある」
診察室の空気は、静かに沈んでいた。
窓の外では葉が揺れもせず、まるで時間が止まっているかのようだった。
ドクターの手は正確に動き、無駄なく器具を片付けていく。
「点滴の吸収速度は良好。血中ウフ濃度はやや不安定。誓約を破れば、悪夢の深層が臨界まで膨張する。肝機能、肺機能、神経伝達も遅延するだろう」
——そして、その先は“診察”では間に合わない。
白衣の袖越しに見えるその動きは、まるで機械のように迷いがない。
その口調にも、感情はなかった。
ただ、患者の状態を読み取り、記録する医師のそれだった。
「──誓約破り……やっぱ店長から聞いてたか」
紅い目が主のいない蜘蛛の巣へ向いた。
凌の言葉に、ドクターは一瞬だけ手を止める。
「聞きたくて聞いてはいない。勝手に話していった」
「……お節介め」
「君は説明が下手だからな」
応酬のようなそのやりとりは、どこか日常の延長に見えた。
けれど、その奥には、診察室の光に映らない、数え切れない“死にかけ”のやりとりが潜んでいた。
ドクターは立ち上がり、診察机の奥にある棚を開ける。
中には見慣れない装置と、冷たく光る金属製の管が並んでいた。
視線は動かずとも、その金色の瞳が、窓辺に走る細い蜘蛛の糸を捕らえていた。
「その巣は、2時間と17分前に張られた。君が点滴を受けていた頃だな」
「……」
「──あの女も、君が何をするか見通している」
黙っていた凌が、ほんのわずかに眉をひそめる。
ドクターは器具を淡々と片付けながら、静かに続けた。
「誓約破りにより、“三時間”は影のウフが制御不能になる。君の血に流れる微量なウフがすべて、君自身に牙を向く」
「……」
「さらに、獏である君は影に悪夢を棲まわせる特性上、ウフの暴走は他の誓約破棄者よりもひどいものになると予想がつく」
「……わかってる」
ぽつりと落ちた言葉に、ドクターはわずかに首を振る。
「いいや、君はまだ“希望的観測”を持っている。私が過去どれだけ適性反転者を診てきたと思う?」
その声は、確信に満ちていた。
続く言葉は、重石のように沈みながら、凌の胸に落ちた。
「医者として断言しよう──その三時間、君の中の何かが“目覚める”。抑え込めるかどうかは運次第だ」
室内に沈黙が落ちる。
「……君の悪夢は、呼吸器の奥で芽吹く黒い炎のようだ。外からは見えないが、肺の奥で燃えている。眠りの度に広がっていく」
ドクターは椅子へと戻ると、わざと音を立ててカルテを閉じた。
「凌、君はそのまま意識を保てると思っているだろうが……過去、悪夢に苛まれた者たちを診てきた限り、“自我”が薄くなることは確実だ」
「……」
「まして君の影に溜まる悪夢の“濃さ”は、ただのそれとは桁違いだ。夢と現の境目が曖昧になり、無理に悪夢を食って収めようとすれば、誤って自分を飲み込む可能性もある」
「……」
「その場合、君は単なる“穴”になる。意識はなく、ただの“抜け殻”だ。──分かっているのか」
凌は、ほんの少しだけ俯いて問い返す。
「……止めるか?」
それに対する答えは、驚くほど淡々としていた。
「──いや」
ドクターの瞳は揺れず、ただ低く告げる。
「私の仕事は、“死なせない”ことだ」
その一言に、凌の瞳がわずかに揺れる。
しばしの沈黙。
息を整えるように、凌は口を開いた。
「……死にたいわけじゃない」
その言葉は、どこか逃げるようでもあった。
「けど……」
先の言葉は続かなかった。
“そこまでして、生きたいわけでもない” ──
それは、ドクターの前では、どうしても口にできなかった。
でも、彼には全て、診られている気がした。
「……もうひとつ、頼みがあるんだけど」
顔を上げず、静かに続ける。
「その“三時間”…その間──暴走を抑えられる空間が必要なんだ」
一拍の間を置いて、ドクターは深く息を吐いた。
「……地下の処置室。そこに君を隔離しよう。強度も充分。ウフ濃度の調整装置も併設してある。君が暴走しても、他の患者に影響は及ばない」
机の引き出しから、ひとつの鍵を取り出して手にする。
「その代わり、君の全てを私の責任下に置く。どのような“イレギュラー”が起ころうと──いいかね?」
凌は頷く代わりに、静かに答えた。
「……了解」
引き出しが閉じられる音が、ひどく静かに響いた。
「すぐに準備に入ろう。ヒヨたちにも指示しておく」
ドクターはくるりと椅子を回して背を向けた。
その背中を見つめながら、凌はゆっくりと息を吐いた。
いつからここに通ってるか、もう正確には覚えてない。
多分、最初は獏の粛清から逃げおおせて、店長に拾われた時。
全身の火傷を治してくれたのが、ドクターだった。
あれからずっと、呼吸をしながら、呼吸を止めたいと思っている。
──この命を“引き伸ばす”ことに、どれほどの意味があるんだ。
かつて、ガットに言ったあの言葉が、今、皮肉のように胸の奥で蘇っていた。
『終わりの見えない贖罪を続ける意味なんてない』
それでも、今ここにある命は、誰かに“治され”ながら繋がれている。
「──ありがとう」
口から出まかせではなかった。
ちゃんと、ドクターには感謝してる。
ただ、もうやめてくれとも、思ってしまう自分がいる。
ぽつりと落ちた一言に、ドクターは振り返らず応じた。
「礼はいらん。私の患者が壊れて外に出るのが、ただ不快なだけだ」
そして、ふいに視線を横に向ける。
「ただし、そこで何かが起きた場合──君の全てを記録させてもらう。“君という存在”を解剖学的に理解するために」
「……やっぱ、そっちのが本命か」
苦く笑った凌に、ドクターは僅かに口元を歪めた。
「私が君を診る理由はひとつ。“死なせたくないから”だ。君が死ねば、私のカルテが未完成になる」
——命が続く限り、記録も更新され続ける。
それこそが、“生きている”という証拠だからだ。
そしてそれは、まぎれもなくこの医師が持つ“執着”であり──
命に対する、誇りだった。
「…ほんと、変わんなくて安心する」
苦笑混じりに、凌は椅子から立ち上がった。




