五十七層 : 灰色の病棟.03
ゼノラ層の時刻は、すでに午前七時半。
しかし、“自然地帯”にあるグレイロック診療所には、相変わらずソルの目を見ることはできない。
病棟の応接室で、凌は光がほとんど差し込まない鬱蒼とした森の先を、窓越しに見つめていた。
もう何袋目か分からない点滴。
「どうせ移動できないのだろう」と、ここぞとばかりに栄養を流し込まれるだけの時間。
ようやく、それら点滴のパックが全て空になる頃、扉が軽くノックされた。
間を置かずに、ヒヨが静かに入ってくる。
「お疲れ様です。外しますね」
無駄のない手つきで針を抜き、消毒と止血、包帯を巻く流れまで、あっという間だった。
何も言わないのに、凌の動きに合わせて支える手の角度すら完璧だ。
「……ほんと、相変わらず手際いいな」
「ありがとうございます」
ヒヨが片付けながら、ふと口を開く。
「ドクターがお呼びで──」
その瞬間、部屋の外から派手な物音が響いた。
「きゃああああ!?!? ごめんなさいってばああああ!!」
金属音と高い叫び声。
この場所ではありえない声量に、凌の肩がびくりと揺れた。
ヒヨは顔をしかめ、小さくため息をつくと、丁寧に残りの器具を揃えながらも素早く動く。
「……ちょっと様子を見てきます」
そう言って扉を開ける。
凌がその後ろから覗けば、廊下の奥、診察室前のカートがひっくり返っていた。
薬品の小瓶が床に転がり、足がぽっきりと折れた鉄製の脚が転がっている。
「……またか」
ヒヨがそっと近づく。
床のそばでしゃがみ込んでる黒髪の少年──サブが、淡々と呟いた。
「また怒られるよ、シマ。もうすこし静かに歩いて」
「ごめーん!また忘れてた〜!」
元気すぎる声が廊下を跳ねる。
カートをひっくり返した犯人であろう女──シマが、薬のボトルをひとつずつ拾いながら笑っている。
全身には縫い跡。腕には保護布と補強。
白衣の上に小さなリュックを背負い、動くたびにどこかがぶつかって音を立てる。
「……ここ、こんなに騒がしかったか?」
凌が扉の前に立ち、眉をひそめて尋ねる。
ヒヨは応える代わりに、ゆっくりと振り返った。
「……彼女が来てからです」
振り向きざま、声をひとつ落とす。
「シマ、ご挨拶を」
「えっ、あっ、はいっ!」
サブの横で薬瓶を拾い集めていたシマが、ぴょこんと立ち上がった。
「初めまして!新人のシマです!ツギハギって呼ばないでね!」
ぱあっと咲くような笑顔。
髪はまるで青紫の紫陽花のようだった。
けれど、どこか色が抜けたような——褪せた夢の断片のような光をまとっている。
まるで、一度枯れた花びらに、無理やり色を乗せたような。
白い肌に、痛々しいほどツギハギの縫い目が浮いて見える。
適当な白いシャツと短パンの上から、サイズの合っていない白衣。
その口元には透明なマスク──エアフィルターが装着されている。
呼気に合わせて、淡く霧のような光が漏れた。
それだけで、凌はシマの種族を察した。
本来は遥か空の上に生きる天使種が、地上へ降りるにはなくてはならないものだった。
酸素濃度の違いを調整するための生命線……地面でエアフィルターを付けるということは、自らの種族を天使と名乗るのと同義だった。
「えっと、ドクターとヒヨに拾ってもらってから、ここでお手伝いしてます!」
動作が大きく、何かを壊しそうな勢いで両手を振る。
「……お手伝いってレベルか?」
凌の目線が、床に落ちた金属の計量器と、ひしゃげたカートに向かう。
「えーん!本当に悪気はないんだって〜!」
しょげたように頭を抱える彼女の後ろから、サブがひょこりと顔を出した。
翔より少し背が低いくらいの、黒髪黒目の少年。
けれど、その左半身は義肢の冷たい金属が鈍色に光る。
長すぎる白衣の裾をずるずると引きずりながら、サブは静かに言う。
「そうは言っても、繰り返しすぎじゃない?」
おとなしいトーンに少し毒を含ませて、手に持っていた薬瓶を棚へと戻した。
「えへへ、反省しまーす……」
頭を抱えて笑うシマの後ろで、今度はヒヨが深くため息をつく。
「……診療所が騒がしくなったのは、彼女が来てからです」
ヒヨは優しげな、それでいて疲れを溜めすぎたタレ目をつぶる。
右目の黒い眼帯を指で押え、頭痛を訴えている。
白の死装束が、動くたびにぱり、と音を立てて揺れた。
「でも、見かけによらず手先は器用で、怪力です。……彼女、ああ見えて天使で、戦士見習いでしたから」
「戦士……」
凌は再び、シマの細腕に視線を落とした。
それはまるで紙のように白く、華奢で、壊れもののように見える。
とてもさっき、鉄のカートの車輪をもぎ取ったとは思えなかった。
けれど、そういう目で見れば──妙に納得はできた。
天使種。生まれ持った筋力や骨密度が他種族の比じゃない。
……それに、おそらく、多少の強化はされているだろう。ドクターによって。
「……あんたも、元患者か」
ぽつりと問うた声に、シマはぱっと顔を明るくして、「はいっ!」と、元気よく返事をした。
ヒヨとサブについては、もう随分前からこの病棟で働いているのを、凌も知っている。
そして彼らが、それぞれ瀕死の状態でここへ運び込まれ、ドクターによって一命を取り留めたことも──。
思い返せば、凌もその場に居合わせていた気がする。
点滴を受けながら、うっすらと記憶している断片。
真っ赤な包帯。溶けかけた金属の脚。
あれは確か、ヒヨとサブが最初にここへ来た日のことだった。
「私ねー、ほんと死にかけてたの!エザンバウトって浮島が崩落してね、落っこちちゃって!もー大変だったんだよー」
シマがけろりと明るく言う。
どこかズレた無邪気さに、逆に現実味が滲んでいた。
凌の目に映る三人──ヒヨ、サブ、シマ。
その瞳には、“生き返った者”に共通する、奇妙な光があった。
黒く半開きになった瞳孔は、光を真っ直ぐに受け止めず、どこか透かすように、ぼんやりと揺れている。
「……それにしても、よくドクターに叱られないな」
呆れ気味に言えば、シマはにへらりと笑う。
「叱られるよ?めちゃくちゃ怖い!」
そしてさらりと答えた。
その横でヒヨが、口元だけで息を吐いた。
「……ですが、彼女の本来の職務は“看護”ではありません」
「?」
「シマは日常では雑務を担っていますが、実際には──ここを“完全中立”として保つための、ひとつの柱です」
その言葉に、凌は思わずヒヨを見返す。
「…防衛、ってことか?」
「はい。仮に診療所が攻撃対象になった場合、彼女は“天使種としての窓口”になります」
「窓口ね……」
「悪魔のサブ。妖精の僕が全体の調整と仲介。そしてドクターが頂点に立ち──どの種族にも『均等な拒絶と受け入れ』ができる構造です」
一瞬の静けさが落ちた。
その空白のような間に、ヒヨはふと、思い出したように口を開く。
「……最近、ドクターが少しだけ“ぼやいて”ました。戦争でも始まるのではないか、と」
凌の目がわずかに動く。
「ウフの価格が、ここ数週間で高騰しはじめています。扉の使用料も上がりました。それに……先日、裁判所の悪魔たちがこの辺りにも来ていました。不法投棄された扉の調査という名目で」
「……」
「妖精たちの噂なので信憑性は低いですが、一部で“開かずの扉”が開いてるのを見たという者もいますし……」
「開かずの扉?」
その言い方には感情がなかったが、その分だけ、空気の密度が確かに変わった。
「ノクタリスへの大扉のことです」
「──ああ」
四枚ある星層の大扉のうちの、ひとつ。ノクタリス。
そこへつながる扉は、もう何千年もの間閉ざされ、“鍵の製造”すら禁じられたまま──
イデラとはまた別の形で断絶された層だった。
凌は眉を寄せたが、すぐに何も言わずに、短い言葉でそれを流した。
「それもあっての、彼女の雇用です」
「へえ……」
「“もしもの時”の備えは、今のうちに済ませておくべきだと。あの方はそういうタイプなので」
ヒヨは肩の白装束を直しながら、そっと視線を落とした。
「命を救う場所である以上──どこかの陣営には、加担しない。そのためには、全種族を揃えておく必要があると」
「なるほどな」
凌は視線をそらし、遠く壁に取り付けられた消灯ランプをぼんやりと眺めた。
「命を救うために、どこにも属さないってわけか」
「えっ、かっこよく言ってくれてありがとう!」
シマがパッと手を上げた拍子に、背負った工具入りのリュックが扉にぶつかって鈍い音を立てる。
「……でも静かにしてくれ」
「はーい!」
「シマ、声量。……凌さんはドクターの診察室へ寄ってください」
それだけ言い残し、騒がしい看護師たちはそれぞれの仕事へ戻っていく。
病棟の空気は、誰もが“生きていること”に背を向けられない場所のように、ひときわ冷たく感じられた。




