五十六層 : 灰色の病棟.02
他種族共存を掲げるゼノラ層。
けれど、そこに点在するのは、かつての諍いを記憶として残す、要塞都市たち。
各都市を繋ぐ街道以外は、神獣の棲家として、伐採が禁じられた広大な自然地帯が広がっている。
大扉がそびえる中央都市ノードから、湖上都市リウェルタまでの街道も例外ではなかった。
湿気を孕んだ霧が、森の低い場所を這う。
それはまるで、眠りから覚めきらない夢の残滓のようにも見えた。
鬱蒼とした自然地帯──“ナール・ブレイ”。
街道から外れた斜面の奥、朝霧の帳をかき分けるようにして、それは姿を現す。
黒く錆びた鉄格子の門。
夥しい数の墓石に囲まれ、灰色の外壁をもつ病棟に、微かな光だけが灯っていた。
ゼノラ層において「完全中立」を掲げる、ただひとつの医療施設。
──グレイロック診療所。
朝日が森の奥まで届くことはない。
重く垂れ下がる樹冠が空を覆い、病棟の周囲は、夜の名残を引きずるような青黒い空気に包まれている。
不気味というより、“外界と切り離された何か”という静けさだった。
そんな扉の前に、いつの間にか、ひとつの影が立っていた。
凌だった。
凌はノックをしない。
勝手知ったる者の足取りで扉を押し、そのまま中へ入っていく。
病棟の内も、外と同じく灰色だった。
壁、床、天井。すべてが静かに沈んでいる。
健康促進のポスターは一枚もなく、代わりに天井に走るのは光のウフの線だけ。
淡い白光が無機質に空間を照らしていた。
そして空気には、薬品と鉄の匂いが、かすかに漂っている。
足音が落ちるたび、その反響が深く沈む。
廊下に生き物の気配はない。
この無音には、人工的な気配があった。
壁にはおそらく、音のウフが張り巡らされている。
声すら吸い込まれるような、病院特有の静けさ。
凌は懐かしむような素振りも見せず、まっすぐに正面のカウンターへ向かう。
そこに置かれた小さなベルに、指先が触れる。
ジー…と掠れた機械音が、遠慮がちに響いた。
直後、どこからか軽やかな足音が近づいてくる。
その軽さと速さからは、子どもか小柄な者だと分かる。
カウンター奥の扉がそっと開き、そこからひとり、まだどこか幼さの残る青年が顔を出した。
鮮やかな赤の短髪。
垂れ目がちの右目には、黒い眼帯をつけている。
そして、凌の姿を認めると、すぐに人懐こい笑みを浮かべた。
「凌さん。お久しぶりです」
その声に、空間がわずかに和らぐ。
けれどその柔らかさは、病棟の灰色には似つかわしくなく──どこか異質に感じられた。
少年はカウンターの奥へと引っ込み、脇の扉から出てきた。
その装いは看護師のものとは到底思えなかった。
白装束。
布の隙間から覗く、大小さまざまな絆創膏。
歩くたび、赤い髪が揺れ、空気がそれに引きずられるように動く。
この場所の静寂を破るには、あまりに明るい存在。
けれど凌は、その“異質さ”を当然のように受け入れていた。
「ヒヨ、ドクターは?」
「今、手術中です。診察ですか? 点滴ですか?」
「話があって来た」
ヒヨと呼ばれた青年の口調は単調だが、その節々には不思議な気遣いが滲んでいた。
その瞬間、誰もいないはずの奥から、低く声が響く。
「手術なら今、終わったところだ」
振り返った廊下の先に、白衣を着た男が立っていた。
頭から指先まで、全身を包帯で巻いた異様な姿。
唯一見えるのは、包帯の隙間から覗く左目だけ。
そこに宿るのは、澄んだ金の輝きだった。
髪は灰色。ザンバラに伸び、ぴんぴんとはねている。
すらりとした立ち姿と、その髪型はまるで喧嘩しているようだった。
その男──”ドクター”は、白衣のポケットに左手を突っ込んだまま、右手のカルテを軽く掲げて歩み寄ってくる。
「私に何か用かね」
その声は深く、どこか地を這うようだった。
「頼み事があるんだけど」
凌の声は淡々としていた。
だがドクターは、じっと見下ろす。
濡れた土の上に重く沈むような、独特の“圧”をかけてくる。
「面倒ごとは持ち込まないでくれたまえ」
「そんなに持ち込んだ覚えはない」
「君の存在自体が、なかなかに厄介だ」
ドクターの嫌味を、凌は肩をすくめて受け流す。
それがいつものやりとりだと言わんばかりに。
包帯の下で、ドクターは短くため息をついた。
「……今度は一体、何を押し付けに来た?」
乾いた声が、微かに薬品と金属の匂いの混じる空間に響く。
彼はそのまま、凌の脇をすり抜けて、ヒヨへカルテを渡す。
ヒヨはそれを受け取ると、また小さな足音を残してカウンター裏へ消えていった。
凌は、ほんの少しだけ目を伏せて言った。
「……少しの間、間借りさせてほしい」
青いゴム手袋を外していたドクターの手が、ぴたりと止まる。
「……君ひとりではないような口ぶりだ」
「主に、子供と女」
「断る。あの女郎蜘蛛のもとへ送りなさい」
「……店長のところまで影が届かない」
その一言で、ドクターは何かを察したらしかった。
「……君はいつも、“厄介事”に踏み込みすぎる」
その声音には、怒りも呆れもなかった。
ただの診断──静かに突きつけられる、現実の言葉。
「頼むよ」
凌はいつもの調子で答えた。
どうせ断らないだろ、という含みを込めて。
ドクターは金の目を細める。
「ここが病棟だということを、忘れないように」
「わかってる」
「……そのようには見えないがね」
白衣の裾を払って、ドクターは踵を返す。
明確な否定や拒否の言葉はなかった。
それがドクターの了承の意だということを、凌はよく知っていた。
「…ドクター、ありがとう」
「礼はいらん。それよりも点滴を打たせろ。また体重が減っている」
「……」
「私の敷地内で死ぬことは許さない」
響く革靴の音を追っていくと、カウンター横の応接室に通された。
奥には、簡素だがよく掃除の行き届いた空間。
小さなソファと、ひとつのベッド。
「さあ」
「……俺、治療を受けに来たんじゃないんだけど」
「早速忘れたか。ここは“病棟”だ」
「……」
冷たく言い放たれ、凌は仕方なくソファに腰掛けた。
まるでそれを待っていたかのように、ヒヨが点滴の器具を揃えて入ってくる。
睨むように見上げても、ヒヨは気にも留めない。
まっすぐに、慎重に──必要な道具を並べていく。
ドクターが慣れた手つきで、凌の腕に巻かれた包帯をほどく。
ため息をひとつ。
凌は観念したように、親指をぎゅっと握り込んだ。
…どのみち、もう日が昇る。
ソルの時間が始まれば、裁判所の悪魔たちの監視の目が強まるはずだった。
そうなれば、層の移動は面倒になる。
大扉を使ってもいいけど……それより、この「中立地帯」にいる方が、なにかと都合がいい。
……夜になるまで、また、動けない。
たったそれだけのことが、やけに重たく感じるのは──
何もせずにいられるほど、今は心が平穏じゃないせいか。
ふと、部屋の角や窓枠に目をやった。
でもそこに店長の蜘蛛の姿は見つけられない。
何も知らせがないってことは、亜月も翔も、まだ現状維持ってことだ。
「部屋はいくつあればいい」
針を刺しながらドクターが呟く。
「……二つ」
短く答えると、ドクターは小さく頷いた。
「では二階を使わせよう。あそこは静かだ。ヒヨ、準備を」
「はい、ドクター」
ヒヨはすでに動き出していた。
言われる前から分かっていたように、パタパタと出て行く。
ドアが静かに閉まると、部屋には再び薬と鉄の匂いだけが残った。
点滴の針をじっと見つめながら、凌がぼそりと口を開く。
「……聞かないの」
「何をだね」
「俺がこれから何をするかとか」
ドクターは止まらない手つきのまま、淡々と答える。
「聞く必要がない。私は医者、君は患者。あの女郎蜘蛛が連れてきた時から、それ以上でも以下でもない」
「……そりゃそうか」
どこか安心したような、あるいは諦めたような声。
その響きに、ドクターは少しだけ眉を動かした。
「そんなことを聞かされるより──獏の消化器官を調べさせて貰う方が有益だ」
「それはもういい」
ぴしゃりと返した言葉に、ドクターは包帯の下で笑ったように見えた。
凌の視線がじろりと動く。
「散々やっただろ」
「足りてはいない」
「俺はモルモットじゃない」
「だが、そういう動物に近い構造だったろう?」
「……うるさい」
睨みつける凌に対して、ドクターは一切動じない。
けれどその目には、奇妙な親しみと、観察対象への執着がないまぜになった“古い記憶”のようなものが宿っていた。
「心配するな。私がここにいる限り、君の“命”は保証する」
その声は冗談のようでいて、どこか本気だった。
「……魂の保証はしてくれないんだな」
「それは医者の仕事ではない。──神獣にでも頼みたまえ」
凌の呟きに、ドクターはぶら下がる点滴の調整をしながら鼻で笑う。
そして彼はカルテを脇に抱え、すっと立ち上がった。
「この後、連れてくるのだろう?迎え入れる準備はしておこう」
それだけ言って、ドクターは部屋を出ていった。
包帯の裾がゆっくりと揺れながら、廊下の奥へと消えていく。
凌は肩を預けたまま、天井の淡い光を見つめる。
「……変わらないな」
それは、嫌いではないとでも言いたげな呟きだった。




