五十五層 : 灰色の病棟.01
獏の里にいた時の記憶なんて、とうの昔に薄れてしまっていた。
覚えているのは、全身に火を纏った熱さと、逃げ惑う声の反響。
そしてそのあと現在にも続く、醜くひきつった、火傷の痕だけだ。
それが本当に自分の記憶なのか、それとも誰かの夢に混じった映像だったのか──
もう、境目すら分からなかった。
「俺は……夢を食うことすら、まだ迷ってる」
ユヴェが、そっと目を見開いた。
淡々と、滔々と、全てを達観しきってると思ってた……
出会った時から、そんなに回数は重ねていない。
けれど、空気に溶けるような声質と、端的な言い回し、変わらない表情。
凌が、そう見えるように、見せていたから。
ユヴェは獏の固有能力について、詳しくなかった。
でも、夢を食べる一族だということだけは、知っていた。
「夢は、記憶の整理だろ。誰かの過去を食って、それを“なかったこと”にして、それで本当にいいのか……今でも答えが出せない」
静かに、でもどこか熱があるような声で、凌はぽつりぽつりと呟く。
まるで、もう心の奥にしまっておくことは出来ないと言わんばかりに。
自分だけの言葉じゃなくて──誰かの声が欲しくて、仕方がないとでもいうように。
「他人の記憶を食って生きる。そのくせ、食った悪夢に、自分の寿命を蝕まれる。この矛盾の解き方が、今でも分からない」
「……」
「それでも、食わなきゃ——誰も救えない。自分だって生きていけない。…どうしようもないってことも、分かってる」
語る声はどこまでも静かだった。
けれどその静けさは、諦めではない。
その苦しさに立ち止まっている——“通過点”の静けさだと、ユヴェには思えた。
ただ、どうかこの矛盾に意味があると、誰かに言ってほしいんじゃないか、と。
ユヴェは、凌の影をそっと見つめた。
火の光にゆらめく影は、ただの影に見える。
けれど、数日前に鬼灯通りの入り口で感じた、“何か”の気配。
それが、いまもそこに棲んでいると信じられた。
だからこそ、ユヴェはそっと口を開いた。
「……生き物って、忘れるものだと思うよ」
火の音だけが返事をくれる。
ユヴェは、窓辺に置かれた小石を手に取った。
手のひらの中には、苔むした灰色の石。
それを、何かの象徴のように、凌へ手渡す。
「神獣フーナルース。時間の象徴。“苔むした石”で表されることがある」
「……」
「時間は重なるものだよ、凌。記憶は時間と比例する。一枚や二枚でできてない。岩肌に染み入るように深く魂に根付いている」
その言葉は、ただの慰めじゃなかった。
長く神獣を見つめてきた者だこその紡げる、静かな真理だった。
「それに、神獣ズェルムは知ってる?忘却と再開の象徴」
「……聞いたことないな」
「記憶は泥に沈むように保管され、でもふとした言葉で思い出される。“泥の中の長い舌”として描かれるから、不気味で、忘れられがちな神獣なんだけど……」
ユヴェが棚の横の壁へ視線を投げた。
確かにそこには、泥の沼のようなところから伸びる、長い舌の絵が描かれている。
「忘れることで、歩き続けることができる。忘れてしまうのは、ただ消えるんじゃなくて、新しい形に変わることだ」
凌は、石を指先で転がした。
「皮肉でもなんでもない。“忘れることで歩ける”ことも、あるんだよ」
ユヴェの声に、凌はゆっくり目を閉じる。
心のどこかに、それが静かに届いたのがわかった。
「……それは、他の誰かにもよく言われるな」
「そっか。——じゃあ、あとはあなたの心の余白次第だね」
ユヴェは微笑むと、小石をそっと受け取り、まだ窓辺へ戻した。
それは、あたたかな儀式のようにも見えた。
「それに、あなたはただ食べて終わらせてるわけじゃないんでしょう?…ちゃんと、見てる。相手が何を抱えて、どう苦しんでたか。だから悩んでる」
「……かもな」
その答えは、まるで火に沈む息のように、微かに揺れていた。
ユヴェは最後に、優しく——けれど確信に満ちた声で言った。
「だからきっと、あの槍も……あなたなら受け取れるよ」
凌は、ほんの一瞬だけ、まばたきを遅らせた。
そして、小さく口の端を上げる。
「……無理難題押し付けてくるな、あんたも」
「よく言われる」
でも、変えるつもりはない。
そう言わなくても伝わってくる笑みだった。
凌は一度まぶたを閉じたあと、ゆっくり開いて、自分の影を見た。
まるで気持ちを切り替えるように、静かにひとつ、息を吐く。
「……あんたの目的と俺の目的。どっちも叶えるには下準備がしっかりしてなきゃ無理だ。ただ——」
凌はそう言って、凌はポケットの中の自分の鍵に触れた。
自分の影のウフがわずかに広がり、壁際へと伸びていく。
「……なにしてるの?」
「試してる。影がどこまで、届くかどうか」
静かな空気の中、凌の集中が高まる。
けれど、影はしばらく進んだ後で、まるで見えない壁に弾かれたかのように“ぷつり”と止まった。
「……ダメか。鬼灯通りまでは、届かない」
言葉の端にかすかな焦りが滲む。
ユヴェはそれを見ながら、遠慮がちに問いかけた。
「ねえ、もし良かったら……あなたの目的を教えてくれる?」
「……」
「私だけお願いするの、悪いでしょ」
出来ることなら手伝いたいと暗に伝えてくる彼女に、凌は少し迷ったあと、小さく頷いた。
「女がひとり、裁判所に護送される。それを攫いたい」
「どこからとか、分かってるの?」
「護送ルートはさっきざっくりと。外壁の、外を通る」
「外を…?」
言葉の限界がある状況で、ガットは去り際にこう伝えていた。
『隠し事には雨もいいが、湖上都市の噴水も、雨みてえなもんだ』
たったそれだけ。
それが何を示すかは、あえて省かれた内容でも凌には伝わった。
槍と亜月は今、大扉の街ノードの要塞の外——別の都市にいるのだと。
ユヴェは顔をこわばらせる。
「そうなると、護送ルート上で影の中を通って逃げるのは、無理かもしれない。城壁の外を通るルートだと、遮るものが多すぎる」
凌は影が途切れた先を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
そしてふいに顔を上げると、歩み寄ってきていたユヴェが静かに問う。
「……地図、見る?」
答えを聞く前に、ユヴェは引き出しの奥から巻物のような古い地図を取り出した。
ゼノラ層の地形が精緻に描かれており、都市と都市、関所、森林、湖、そして街道の曲線までもが記されている。
……さすが、フォールドラーク。
ずいぶん細かいところまで書き込んである。
凌は指先でその上を辿った。
いくつかの城塞都市が点在する中の一つ、湖上にある小さな都市から指を滑らせる。
そこから、現在の大扉がある中央都市へと続く、細い道。
山越えの街道をなぞりながら——
「……ああ」
凌がぽつりと漏らした。
「あるにはあるか」
「え、何が?」
「ここ。今いる大扉の中央都市“ノード”と、護送の出発地、湖上都市“リウェルタ”のちょうど間にある、森の中の建物」
ユヴェが覗き込む。
そこには確かに一つの建物が記されている。
「……もしかしてこの病院?」
「知ってんの」
「有名だよ!全層一の腕を持つ名医がいるって。でも……すごく怖いって聞いた」
「怖い…ね。間違ってはない」
地図のその位置をじっと見つめたあと、凌は低く呟いた。
「知り合いなの?」
「…それなりに」
小さな溜め息とともに、凌は壁に背を預ける。
湿った空気が肩口に染み込むような静けさの中、彼はしばらく黙っていた。
そして、ふと視線を外す。
「問題は、あそこに翔を置いていいかってこと。あいつの影を出口にするつもりだったけど…」
「……ダメなの?」
ユヴェが問いかける声は、気遣いと不安の入り混じった響きだった。
彼女の目が揺れる。
無意識に、ガウンの袖をぎゅっと握っていた。
「…あいつのことだからすぐに誰かと話したがる」
「…病院、うるさくしたら怒られるもんね」
少し緩んだ空気に、ユヴェがくすくす笑った。
その笑いは、どこか“生き物らしさ”を取り戻すような響きだった。
凌も、視線の端だけで反応し、肩をすくめる。
「……でも、今の俺には、その方法が一番現実的だ」
彼の指が、もう一度地図の上をなぞる。
地図の紙のざらついた質感が、重い思考の滑り止めのようだった。
山と川と城壁と森——その全てが、救出と逃走を仕組まれた、迷路のように見えた。
ユヴェは黙って、彼の包帯の指を見つめた。
地図に描かれた街道のラインが、どこか戦場の境界線のように重く感じられる。
「……行ってくる。話は先につけておかないと」
「扉、繋げてあげようか?」
「そうしてくれると助かる」
言葉だけ見ると無愛想。
けれどその言い方には、奇妙な“信頼”の手触りが混じっていた。
ユヴェもまた、それを言葉にせずに受け取っていた。
時計を確認しながら、彼女はカーテンの隙間から空の色を伺う。
紺と蒼が混ざり合い、輪郭を取り戻し始めた夜の終わり。
「——ソルの時間が始まる」
ユヴェが静かに呟いた。
太陽はまだ昇っていない。
けれど東の空の、木々の上だけがぼんやりと明るくなり始めていた。
風が静かに窓を揺らし、どこか遠くの鳥のさえずりが、かすかに聞こえたような気がした。
悪魔たちが目覚める時間。
その前に全てを済ませるべく、ユヴェは新しい扉の枠組みを部屋の中央に立てた。
蝶番の軋みが、火の音に混ざって鳴る。
木材の香りが少しだけ立ち上り、部屋の空気がゆっくりと変わる。
「……ユヴェ」
ふと、名前を呼ばれて振り返る。
その声には、どこか言いにくそうな重さが含まれていた。
少し複雑そうな表情を浮かべた凌が、言葉を選びながら言う。
「…裁判所の悪魔に、お前も見張られてる」
「……」
「俺がここにいることも、バレてる。不正扉の証拠を押さえられたら、お前も——」
「私が、先にあなたに声をかけたんだよ」
遮るように、けれど穏やかに。
その声音には、恐れよりも確かな覚悟があった。
ユヴェは言い切った後、少しだけ視線を伏せてから微笑んだ。
「でも、ありがとう。気をつける」
その言葉が、凌の肩の力を少しだけ抜かせた。
彼は何も言わず、火の方へ視線を移す。
ユヴェは蝶番を噛み合わせ、扉の重さを調整しながら。
わずかに軋む音に耳を傾けつつ、凌は低く呟いた。
「……ハーウェンの時間が終わる。さっさと終わらせよう」
空の端が、うっすらと青みに染まりはじめる。
雨の匂いが土に溶け、湿った夜の名残を地面に沈めていく。
それは、夜の終わりであり、始まりの匂いだった。
そしてまた、戦いの一日が始まろうとしていた。




