表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Shangri-La ─ 生きて、死を越え、何かを遺せ。  作者: sora
【第一幕】灰色の病棟

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

55/289

五十五層 : 灰色の病棟.01


獏の里にいた時の記憶なんて、とうの昔に薄れてしまっていた。

覚えているのは、全身に火を(まと)った熱さと、逃げ惑う声の反響。

そしてそのあと現在にも続く、醜くひきつった、火傷の痕だけだ。


それが本当に自分の記憶なのか、それとも誰かの夢に混じった映像だったのか──

もう、境目すら分からなかった。


「俺は……夢を食うことすら、まだ迷ってる」


ユヴェが、そっと目を見開いた。


淡々と、滔々(とうとう)と、全てを達観しきってると思ってた……


出会った時から、そんなに回数は重ねていない。

けれど、空気に溶けるような声質と、端的な言い回し、変わらない表情。

凌が、そう見えるように、見せていたから。


ユヴェは獏の固有能力(ノータ)について、詳しくなかった。

でも、夢を食べる一族だということだけは、知っていた。


「夢は、記憶の整理だろ。誰かの過去を食って、それを“なかったこと”にして、それで本当にいいのか……今でも答えが出せない」


静かに、でもどこか熱があるような声で、凌はぽつりぽつりと呟く。

まるで、もう心の奥にしまっておくことは出来ないと言わんばかりに。


自分だけの言葉じゃなくて──誰かの声が欲しくて、仕方がないとでもいうように。


「他人の記憶を食って生きる。そのくせ、食った悪夢に、自分の寿命を蝕まれる。この矛盾の解き方が、今でも分からない」

「……」

「それでも、食わなきゃ——誰も救えない。自分だって生きていけない。…どうしようもないってことも、分かってる」


語る声はどこまでも静かだった。

けれどその静けさは、諦めではない。

その苦しさに立ち止まっている——“通過点”の静けさだと、ユヴェには思えた。



ただ、どうかこの矛盾に意味があると、誰かに言ってほしいんじゃないか、と。



ユヴェは、凌の影をそっと見つめた。

火の光にゆらめく影は、ただの影に見える。


けれど、数日前に鬼灯通りの入り口で感じた、“何か”の気配。

それが、いまもそこに()んでいると信じられた。


だからこそ、ユヴェはそっと口を開いた。


「……生き物って、()()()()()だと思うよ」


火の音だけが返事をくれる。


ユヴェは、窓辺に置かれた()()を手に取った。

手のひらの中には、苔むした灰色の石。


それを、何かの象徴のように、凌へ手渡す。


「神獣フーナルース。時間の象徴。“苔むした石”で表されることがある」

「……」

「時間は重なるものだよ、凌。記憶は時間と比例する。一枚や二枚でできてない。岩肌に染み入るように()()()()()()()()()()


その言葉は、ただの慰めじゃなかった。

長く神獣を見つめてきた者だこその紡げる、静かな真理だった。


「それに、神獣ズェルムは知ってる?忘却と再開の象徴」

「……聞いたことないな」

「記憶は泥に沈むように保管され、でもふとした言葉で思い出される。“泥の中の長い舌”として描かれるから、不気味で、忘れられがちな神獣なんだけど……」


ユヴェが棚の横の壁へ視線を投げた。

確かにそこには、泥の沼のようなところから伸びる、長い舌の絵が描かれている。


「忘れることで、歩き続けることができる。忘れてしまうのは、ただ消えるんじゃなくて、()()()()()()()()()()()


凌は、石を指先で転がした。



「皮肉でもなんでもない。“忘れることで歩ける”ことも、あるんだよ」



ユヴェの声に、凌はゆっくり目を閉じる。

心のどこかに、それが静かに届いたのがわかった。


「……それは、他の誰かにもよく言われるな」

「そっか。——じゃあ、あとはあなたの心の余白次第だね」


ユヴェは微笑むと、小石をそっと受け取り、まだ窓辺へ戻した。

それは、あたたかな儀式のようにも見えた。


「それに、あなたはただ食べて終わらせてるわけじゃないんでしょう?…ちゃんと、見てる。相手が何を抱えて、どう苦しんでたか。だから悩んでる」

「……かもな」


その答えは、まるで火に沈む息のように、微かに揺れていた。

ユヴェは最後に、優しく——けれど確信に満ちた声で言った。



「だからきっと、あの槍も……あなたなら受け取れるよ」



凌は、ほんの一瞬だけ、まばたきを遅らせた。

そして、小さく口の端を上げる。


「……無理難題押し付けてくるな、あんたも」

「よく言われる」


でも、変えるつもりはない。

そう言わなくても伝わってくる笑みだった。


凌は一度まぶたを閉じたあと、ゆっくり開いて、自分の影を見た。

まるで気持ちを切り替えるように、静かにひとつ、息を吐く。


「……あんたの目的と俺の目的。どっちも叶えるには下準備がしっかりしてなきゃ無理だ。ただ——」


凌はそう言って、凌はポケットの中の自分の鍵に触れた。

自分の影のウフがわずかに広がり、壁際へと伸びていく。


「……なにしてるの?」

()()()()。影がどこまで、届くかどうか」


静かな空気の中、凌の集中が高まる。

けれど、影はしばらく進んだ後で、まるで見えない壁に弾かれたかのように“ぷつり”と止まった。


「……ダメか。鬼灯通りまでは、()()()()


言葉の端にかすかな焦りが滲む。

ユヴェはそれを見ながら、遠慮がちに問いかけた。


「ねえ、もし良かったら……あなたの目的を教えてくれる?」

「……」

「私だけお願いするの、悪いでしょ」


出来ることなら手伝いたいと暗に伝えてくる彼女に、凌は少し迷ったあと、小さく頷いた。


「女がひとり、裁判所に護送される。それを攫いたい」

「どこからとか、分かってるの?」

「護送ルートはさっきざっくりと。外壁の、外を通る」

「外を…?」


言葉の限界がある状況で、ガットは去り際にこう伝えていた。



『隠し事には雨もいいが、湖上都市の噴水も、雨みてえなもんだ』



たったそれだけ。

それが何を示すかは、あえて省かれた内容でも凌には伝わった。

槍と亜月は今、大扉の街ノードの要塞の外——別の都市にいるのだと。

ユヴェは顔をこわばらせる。


「そうなると、護送ルート上で影の中を通って逃げるのは、無理かもしれない。城壁の外を通るルートだと、遮るものが多すぎる」


凌は影が途切れた先を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。

そしてふいに顔を上げると、歩み寄ってきていたユヴェが静かに問う。


「……地図、見る?」


答えを聞く前に、ユヴェは引き出しの奥から巻物のような古い地図を取り出した。

ゼノラ層の地形が精緻(せいち)に描かれており、都市と都市、関所、森林、湖、そして街道の曲線までもが記されている。


……さすが、フォールドラーク。

ずいぶん細かいところまで書き込んである。


凌は指先でその上を辿った。


いくつかの城塞都市が点在する中の一つ、湖上にある小さな都市から指を滑らせる。

そこから、現在の大扉がある中央都市へと続く、細い道。

山越えの街道をなぞりながら——



「……ああ」



凌がぽつりと漏らした。


「あるにはあるか」

「え、何が?」

「ここ。今いる大扉の中央都市“ノード”と、護送の出発地、湖上都市“リウェルタ”のちょうど間にある、森の中の建物」


ユヴェが覗き込む。

そこには確かに一つの建物が記されている。


「……もしかしてこの()()?」

「知ってんの」

「有名だよ!全層一(ぜんそういち)の腕を持つ名医がいるって。でも……すごく怖いって聞いた」

「怖い…ね。間違ってはない」


地図のその位置をじっと見つめたあと、凌は低く呟いた。


「知り合いなの?」

「…()()()()()


小さな溜め息とともに、凌は壁に背を預ける。

湿った空気が肩口に染み込むような静けさの中、彼はしばらく黙っていた。

そして、ふと視線を外す。


「問題は、あそこに翔を置いていいかってこと。あいつの影を出口にするつもりだったけど…」

「……ダメなの?」


ユヴェが問いかける声は、気遣いと不安の入り混じった響きだった。

彼女の目が揺れる。

無意識に、ガウンの袖をぎゅっと握っていた。


「…あいつのことだからすぐに誰かと話したがる」

「…病院、うるさくしたら怒られるもんね」


少し緩んだ空気に、ユヴェがくすくす笑った。

その笑いは、どこか“生き物らしさ”を取り戻すような響きだった。

凌も、視線の端だけで反応し、肩をすくめる。


「……でも、今の俺には、その方法が一番現実的だ」


彼の指が、もう一度地図の上をなぞる。

地図の紙のざらついた質感が、重い思考の滑り止めのようだった。

山と川と城壁と森——その全てが、救出と逃走を仕組まれた、迷路のように見えた。


ユヴェは黙って、彼の包帯の指を見つめた。

地図に描かれた街道のラインが、どこか戦場の境界線のように重く感じられる。


「……行ってくる。話は先につけておかないと」

「扉、繋げてあげようか?」

「そうしてくれると助かる」


言葉だけ見ると無愛想。

けれどその言い方には、奇妙な“信頼”の手触りが混じっていた。

ユヴェもまた、それを言葉にせずに受け取っていた。


時計を確認しながら、彼女はカーテンの隙間から空の色を伺う。

紺と蒼が混ざり合い、輪郭を取り戻し始めた夜の終わり。


「——()()()()()が始まる」


ユヴェが静かに呟いた。


太陽はまだ昇っていない。

けれど東の空の、木々の上だけがぼんやりと明るくなり始めていた。

風が静かに窓を揺らし、どこか遠くの鳥のさえずりが、かすかに聞こえたような気がした。


悪魔たちが()()()()()()

その前に全てを済ませるべく、ユヴェは新しい扉の枠組みを部屋の中央に立てた。


蝶番(ちょうつがい)の軋みが、火の音に混ざって鳴る。

木材の香りが少しだけ立ち上り、部屋の空気がゆっくりと変わる。



「……ユヴェ」



ふと、名前を呼ばれて振り返る。

その声には、どこか言いにくそうな重さが含まれていた。


少し複雑そうな表情を浮かべた凌が、言葉を選びながら言う。


「…裁判所の悪魔に、お前も見張られてる」

「……」

「俺がここにいることも、バレてる。不正扉(ブラックドア)の証拠を押さえられたら、お前も——」

「私が、先にあなたに声をかけたんだよ」


遮るように、けれど穏やかに。

その声音には、恐れよりも確かな覚悟があった。


ユヴェは言い切った後、少しだけ視線を伏せてから微笑んだ。


「でも、ありがとう。気をつける」


その言葉が、凌の肩の力を少しだけ抜かせた。

彼は何も言わず、火の方へ視線を移す。

ユヴェは蝶番を噛み合わせ、扉の重さを調整しながら。


わずかに軋む音に耳を傾けつつ、凌は低く呟いた。


「……ハーウェンの時間が終わる。さっさと終わらせよう」


空の端が、うっすらと青みに染まりはじめる。

雨の匂いが土に溶け、湿った夜の名残を地面に沈めていく。


それは、夜の終わりであり、始まりの匂いだった。


そしてまた、戦いの一日が始まろうとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ