五十四層 : 濡れ手の策.06
ふと、ユヴェが顔を上げる。
彼女の視線が、天井の一角に向けられた。
そこには、部屋を囲む梁にそって描かれた、昼と夜の意匠。
光輪の対極に描かれた月の下に、星を背負うようにして、ひとつの狼が静かに佇んでいる。
——キング・ハーウェン。
夜と死と慈悲の象徴。
天井のそこだけが、火の揺らぎに照らされ、ほのかに星の意匠が瞬いているように見えた。
「キング・ハーウェンの悼む槍は、死者の魂を導くためのもの」
視線を戻さずに、ユヴェはぽつりと語る。
まるで、天井の狼と対話するかのように、言葉が静かに落とされていく。
そして、ようやくその視線が凌に向けられた。
ゴーグル越しでも、その眼差しがまっすぐ刺さってくるのがわかる。
「神器は、唯一神獣の存在を、“形”として教えてくれる。でも、本当の使い方なんて誰もわからない。フォールドラークの記録には残ってるけど——祈るためなのか、本当に星層の壁を切り開いて、魂を送れるのか」
「……」
「それとも、もっと違うものなのかもしれない」
そう言って、ユヴェは少しだけ困ったように笑った。
釜の炎が彼女の笑みを揺らす。
どこか、弱さを隠すような笑みだった。
少しの沈黙。
そして、彼女は声を落とすように言った。
「ねえ、少し話してもいい?……時間、あるかな」
凌は黙って時計を見やる。
イデラ製の腕時計。文字盤の針が静かに音を刻んでいる。
そして、無言のまま頷いた。
その仕草に、ユヴェの肩がほんの少しだけ緩む。
微かな安堵の気配が滲んでいた。
灯りは釜の奥で小さく揺れ、部屋の壁にユヴェの影を映していた。
ユヴェは一度、自分の中で言葉を選ぶ。
これから話そうとしていることは、よく「めんどくさい」と一蹴されることが多かったから。
またそうなるかもしれないと、自分の中で覚悟を決めてから、口を開いた。
「——神獣って、姿が見えないから……みんなどんどん忘れていってしまうけれど、世界は彼らの“問い”でできてるんだって、私は思うんだ」
「問い…?」
ユヴェは頷くと、どこか遠くを見るような目つきになった。
ゴーグル越しの視線は、まるで壁の向こう側にある何か——
見えないはずの星層の彼方を、彼女は、確かに見ているようだった。
「うん。神獣は、星層の壁の向こうから、それぞれの問いを投げかけてくる。キング・ハーウェンは“死とは何か”。ソル・ベリリウムは“誇りとは何か”……」
少しずつ言葉を置くように、ユヴェは続けた。
「誰かが答えを探し続ける限り、神獣たちは消えない」
その声に宿るのは、確信ではなかった。
むしろ祈りに近い。
何かを証明するためではなく、
何かを——信じたくて語っているようだった。
「フォールドラークではね、そんな風にはあまり思われてない。元老たちも、長も、職人たちも…神獣たちは、星層の向こうから静かにこちらを見ていて……それに誇れるように生きろって言う」
「……」
「彼らを忘れるな。悠久の時を経ても、語り継げって」
彼女は、自分の手のひらにそっと指を這わせた。
まるでそこに、“見えない鍵”があるかのように。
「多くを語らず、鍵と扉を作り続けること。それが——私たち一族の、存在理由なんだって」
「……」
「言葉は、重ねすぎると変わってしまうから……」
ふと、ユヴェの声のトーンが落ちた。
「それも、間違いじゃないって、思ってるよ」
そう言って、少し呼吸を整えるように目を伏せる。
ゆっくりと、炎の揺らぎに身を寄せた。
「でも——囁かれてる気がするの」
言葉の輪郭が、火の音とともに淡くなる。
耳をそばだてないと聞こえないくらい。
それこそ囁き声のようなそれが、遮音機の膜にのばされ、空間に溶けていく。
「——ふとした瞬間。太陽が床を温める時。月明かりが水面を揺らす時。風が髪を躍らせる時。音が鼓膜を撫でる時」
「……」
「……そこに、神獣が語りかけてくれてる気がする」
迷いや願望ではなく、そこに“確かにある”という穏やかな実感。
それを信じている声だった。
「どうして生きてるの?どうして死んでいくの?
どうして時間は流れて、忘れて、また思い出すの?
どうして誰かに触れて、笑って泣いて、恋をして——
美しさに、立ち止まるんだろう?」
その問いの数々は、どれもありふれていて、けれど誰も答えを持っていないものだった。
彼女の言葉が、ひとつずつ、部屋の空気に染み込んでいく。
凌は息を潜めて聞いていた。
——不思議な感覚だ。
聞きなれた言葉しかないのに、魂の奥底で何かを灯されたような、そんな気持ちになる。
何かを、赦されたような。
「どれも全部、見えてるけど、見えてない。言葉はあるけど、本質が掴みにくい。
当たり前と思ってしまえば気にさえしない。
でも、よく見ると——何より美しい」
その声に、わずかに感情が乗った。
それは讃歌のようでもあり、祈りのようでもあった。
「ただ鍵や扉を作り続けるんじゃなくて、神獣たちが、どうして見えないのに居て、
なにを私たちに問いかけてるのか——それを語り広げることが、私たちの種の誇りなんじゃないかって……私は思う」
やがて、ふっと言葉が途切れる。
室内に沈黙が落ち、火の音だけが静かに続いていた。
「……ごめん。言ってること、伝わらないよね」
彼女の唇が、わずかに引き結ばれた。
言葉が揺れる。
けれど、その目は揺れていなかった。
ゴーグルの奥は見えないのに、凌にはそう感じられた。
そっと、その眼差しを邪魔しないように、小さく頷く。
「… 全部じゃない。でも、分かる気がする」
その一言に、ユヴェの唇がわずかに緩んだ。
目頭が、ほんの少しだけ熱を孕む。
「…ありがとう」
黙って話を聞いてくれる存在の方が珍しかった。
大抵が、意味がわからない。神獣を恋物語のように語るな。
——そう、窘められてきたから。
「フォールドラークでは…というか、多分どこ行ってもだけど、浮いちゃうんだ。“ふわふわしてる”って、よく言われる」
言いながら、少しだけ視線を落とした。
それは自嘲のようでもあり、どこかに受け入れているような諦めでもあった。
「……」
凌に返す言葉はなかった。
けれど、その沈黙は、ユヴェにとっては初めてに近い許容だった。
ユヴェはもう一度、天井の意匠を見上げた。
そこに描かれた狼の姿が、自分で描いたものなのに、どこか今日は微笑んでくれている気がした。
「——私、槍を獏の里で見つけたこと、誰にも言えなかった。きっとフォールドラークのみんなも……神器があると知ったら、“管理”しようとすると思ったから」
ユヴェは少しだけ視線を落とし、火の明かりに手をかざすようにそっと言った。
責めや嫌悪は、彼女の声には乗っていない。
ただ、長年フォールドラークという種族の在り方を眺めてきて知った、事実だった。
「……でも私は、“管理”じゃなくて、理解したかったんだ」
その言葉は、わずかに震えていた。
けれど、それこそが彼女の芯——変わらぬ願いの核だった。
「神器って、多分……神獣たちの“問い”に対する答えとか、その“本質”に触れたものなんだと思うの。だから、形を持って、この世界に現れてる」
彼女の指先が、無意識に空中をなぞる。
まるでそこに、目に見えない何かの形が浮かんでいるかのように。
「だけど、“答え”って、きっと誰かが独占するものじゃない」
凌は目を伏せた。
彼女の言葉は暖かい。
ただの音なのに、なぜか、確かな温度があった。
そして、どこか重かった。
ふわふわしてるなんて、凌には思えない。
むしろ、確かな重さとともに、心を引っ張る力があった。
「だから私は、“悼む槍”がまだこの世界に在るのなら……きっと、届けるべき“誰か”がいるんだと思ったの」
「届けるべき?」
「うん。獏の祭壇で、悪夢の結晶がついてたとしても——取り戻そうと思えば、ハーウェンならきっといつでも出来ると思う。でも、それをしない」
「……」
「だから、槍は“誰か”を待ってる。その人の手に届く日を、静かに待ってるんだと思う。……前にも言ったけど…」
ユヴェは、そっと胸元に手を置いた。
まるでそこに、槍の記憶が眠っているかのように。
「私はそれが——獏の唯一の生き残り……あなただと思ってる」
ユヴェの声は、まるで祈りのようだった。
火がぱちりと音を立てる。
凌は何も言わず、ただのその言葉を受け止めていた。
そして、ゆっくりとポケットに手をやる。
金の鍵がそこにある。
いつもと同じ重さなのに、この瞬間だけ、ほんの少し違って感じられた。
しばらく沈黙が落ちる。
そしてやがて、凌がぽつりと口を開いた。
「……やめてくれ、そういうの」
低く押し出すような声だったが、その中に、拒絶の意思はなかった。
ただ、彼女の重たい言葉を背負うには、まだいろいろ足りない。
そう思った。
ユヴェが一瞬だけ目を伏せる。
「…ごめん…でも、本当にそう思ってるよ」
凌はその言葉を遮らなかった。
ただ、ゆっくりと息を吸い、吐く。
「受け取っても、どうすればいいか分からない。なんで獏が、それを封印したかも知らない」
その声には、迷いが混ざっていた。
けれど、それは“逃げ”ではなく、まだ踏み出せていないだけの、正直な足取りだった。




