五十三層 : 濡れ手の策.05
まぶたを閉じて、沈黙する。
そして少しの間のあと、ガットが切り出した。
窓際に寄せていた体を浮かし、一歩、凌の方へ踏み出す。
「──覚悟の“芯”を見せろ」
ほんの少し、フードの影が動く。
それは最後の確認だった。
一片の誤魔化しさえ許さないと、彼のコバルトブルーが正確に凌の全てを測る。
「アツキ…イデラでの名前は、和親亜月。タングステンと黒鉄の二種類が混ざった鍵──タングステンなんて素材で出来た鍵は、いまだかつてねえ」
「……聞いたよ。審問で」
「山本凌。あの女は一体なんなんだ」
凌は静かに目を閉じた。
答えたくないわけじゃないけど、たとえ言葉を伏せたとしても、話すのは気が重い。
が、黙って許される空気でもなさそうだ。
「……獏の粛清があった時、あいつの父親に命を救われた」
「……」
「本当は、裁判所側の悪魔として、俺を殺さないといけなかった。でも──手を下さなかった」
それは、同情だったのだろう。
まだ幼い子供を、無慈悲に殺せる悪魔ではなかった。それだけ。
「その理由は知らない。けど、あれだけは、ただの判断じゃなかったと思う」
「……」
「でも、そのおかげで、今も生きてる」
獏という種の唯一の生き残り。
それは救いだったのか、呪いだったのか、もう分からない。
でも、生き延びたことで、鬼灯通りや、イデラでの“今”があるのは事実だ。
「……あのとき助けられた命を、俺はまだ使い切れてない」
亜月の保護は、勝手な恩返しとしてやってることだった。
でも、凌にとっては充分すぎるほどの動機だった。
そんな“優しい悪魔”だったから、きっと、人間と恋でもしたんだろう。
音にはしなかった。
あいつの出自や血筋を、名言はできない。
でも、相変わらずの無表情の中で、凌が小さな苦笑をこぼしたように見えた。
少し投げやりのような、でも、まだ手放したくない記憶のように。
紅い眼差しは、窓の外のふり続ける雨を眺める。
ガットは黙って聞いている。
言葉を挟むでもなく、ただ受け取っている。
「しばらくして、イデラで──“それらしい悪魔”を見かけた。まさかと思ったけど……」
「……」
「赤ん坊を抱えたまま、裁判所の悪魔に捕まる瞬間だった。……親の罪は、子供にまでは課せられない。魂の”重さ”は個人で量るから。……だから、残されたその赤ん坊を保護した」
「……テメーはその時、何をしてた」
「何もしてない」
忘れた頃の出来事だったから。
続いた声は、少し震えていた。
「何百年と経ってた。悪魔の顔も朧げだった」
「……」
「後から調べて、その男が俺を助けてくれた奴だったって分かった」
自嘲のような笑みを浮かべて、凌は己の包帯が巻かれた手のひらを見下ろす。
「赤ん坊の成長スピードは、人類のそれだった。だから、俺は人間の子だと思った」
「……だから、”こどもの家”に預けた」
「…本当に全部調べてんだな」
苦笑するように、凌が口元を歪めた。
「あそこのシスターは、優しいって評判だったから」
少しの沈黙ののち、凌はふっと、短く息を吐いた。
「…いつも、俺の手は届かない。後になって気付く。──だから今回は、間に合いたいと思ってる」
言葉は全て誠実だった。
嘘も見栄も羞恥もない。ただ、後悔だけが滲んでいた。
……“明確な情報”じゃない限り、俺は動けない。
だが、これは……あまりにも、“近すぎる”。
ガットは目を伏せる。
合理的とは言い難い。
が、その死地への境界に、いつ踏み込んでも構わないと言いたげな声に、眼差しに、
ガットはたしかな“炎”を見ていた。
静かで、燃え広がりはしない。
でも、“覚悟”と呼ぶには──十分だ。
一拍おいて、ガットはフードを下ろした。
はじめて、影を落とさない顔が晒される。
「…天使領に、残してきた奴がいる」
気だるげに首を回しながら。
静寂にガットがぽつりと言葉を落とした。
「誰より強く燃える奴だ。──でも、誰より繊細だ」
「…そいつのために裁判所に来たって聞いた」
「は、違うな。正確には俺の適性ウフのせいだ」
ガットは吐き捨てるように言うと、自身の鍵を取り出した。
銀色に光る鍵。
つまみには、二対の影と、それぞれに鎖が渡されている意匠。
「時間のウフ──それのせいで、ここにいる」
あまり聞かない適性ウフだとは思った。
けど、凌は特に返さなかった。
「そして、あいつの自由と引き換えに、命を繋いだ」
低く静かな声に、痛みを感じる。
ゆっくりと、噛み締めるような言葉のつむぎ方が余計にそう思わせた。
「刑期が無期限なら、死ぬか燃えるか、二択しかねえ」
「…究極だな」
「テメーも似たようなもんだろ」
ガットは鍵をしまう。
雑に金髪をかきあげた。けれど、その手つきに乱れはなかった。
「あとは……“いればありがたい”鍵職人。どこまで使えるかだ」
「……いたとして、会わない方がいい。あんたは」
「だろうな」
「そうじゃなくて」
凌は困ったように眉をしかめた。
裁判所の関係者と、フォールドラークの鍵職人。
社会の立場上、その接触はなるべく控えたほうがいいと捉えるガットと、凌の目線は少しだけ違かった。
「……純粋すぎるやつは、あんまり巻き込むのはよくない」
「…へえ、優しいな」
「帰れるところがある奴は、帰った方がいい。──それだけだよ」
でも腕は確かだ。
扉の作り方、鍵の鋳造方法。
それにどれほどの技術と時間がかかるかは知らない。
ただ、あの小屋の中には、扉と鍵と、神獣に対する誇りが充満していたのは感じて取れる。
窓の外で、雨音がまたひときわ強くなった。
会話が途切れた部屋の中、ただその音だけが、ふたりの沈黙をつないでいた。
まるで、それが“誓い”の代わりかのように。
「……“扉の代金”は、“誰にも持てないもの”だ。ただ、ひとりを除いて」
「……ここにきて神器か」
「やっぱり裁判官。少しは知ってるのか」
「少しどころじゃねえ」
ガットは手のひらで目を覆った。
ほんの少しだけ、重たい息を吐きだした。
「…なあ獏、仮定の話だからこそ、はっきり教えてやる。……どっちもは無理だと思え」
そして唸るように吐き捨てる。
「偶然、護送と移送が同じ時間、同じルートを辿るとしたら──それはつまり、本命は“命”より“物”ってことだ」
「……」
「悪魔共はあれを手に入れるのに、どれほど手を尽くしていたと思う」
ガットは目を細める。
「あいつらにとって、あれはただの神器じゃねえ。……神獣の神器──そんな物があれば、“死”の意味すら、ねじ曲げられる」
「……信仰が変わるって?」
「信仰なんて生易しいもんで済めばいいがな」
──神獣キング・ハーウェンの“悼む槍”。
星層を切り裂いて、死した魂を夜空に還す役目を担うとされる神器。
裁判所の目的は、ただの武力強化ではなかった。
”裁定の塔”による裁きの正当性や、権威、圧力……その格が、槍ひとつで跳ね上がる。
「あいつらが護送ルートを本当に隠し通すと思うか?もし狙う奴がいると予測するなら、奇襲も込みで、最初から“狩場”として組んでくるだろうよ」
ガットの脳裏に、ソルヴァンの冷たい金の目が思い浮かんだ。
あの冷血漢のことだ。
緻密な計算の中には、すでに俺も組み込まれてるだろう。
ガットは一度だけ目を細める。
自分の中に張り巡らされた“契約の鎖”が、今はまだ音を立てていない──
それだけのことが、どれほど綱渡りか。
だが、言葉は超えていない。
ぎりぎりだが、まだ。
「……神獣トキノケの金の賽子。博打と、分岐点の象徴、だったか」
主語を曖昧に、計画を仮定に、明瞭な意味を避け、報告の義務を遠ざける。
この縛られた状態で、誰かが賽子を振るとすれば、どんな目が出る?
「──“金の賽子は、ただの偶然を記録するために転がる”」
賽子は「運命を決める」ものじゃない。
ただ転がって、何が起きたかを記録していくだけ。
分岐点で振る賽子は、必ず金の可能性を示唆している。
……選ぶのはいつだって、こっちだ。
どの出目を受け入れるか。その覚悟があるかどうかだけが、問われている。
だが、どこで立ち止まり、どの“分岐”に気づくかで、それは選べる。
……この“分岐”は、今ここで、俺が見逃していい“偶然”か?それとも──
ガットは、自分に問いかけるように目を細めた。
少しの沈黙のあと、彼は慣れた手つきでフードを被り直す。
「昔から、偶然は信じてねえ。歩くのは、いつだって必然の先だ」
声の調子は変わらない。
だがその一言の裏には、制約で縛られた“裁判官”としての苦さが滲んでいた。
「……だから、俺は“見たものを見逃す”ほど、甘い目はしてない」
“怪しいものがあれば排除する”。
それがガットの義務であり、生き方だった。
「けどな、ここで“怪しい”って判断するかは、見る側の問題だ」
それはぎりぎりの“回避”。
情報を受け取りながらも、判断の“タイミング”はまだ来ていない──
そう誓約の“行間”で告げていた。
「……いいか。ちゃんと“話はつけておけ”。どっちを拾うかは、お前らの勝手だが」
そこには、共犯の温度がわずかに滲んでいた。
今この会話も、賽子の目が出る前の“振る直前”に過ぎない。
ガットは、まだ判断していない。ただ、それだけだった。
「──“象徴”を選ぶなら、覚悟を決めろ。“ひとつの命”を救うより、はるかに難しい」
それは命令でも警告でもない。
ただ、確かに“見たものを見逃さない”目から出た、忠告だった。
*
窓の外は、ようやく雨が上がったようだった。
湿気を含んだ空気が、まるで夜を溶かしていくように、朝の気配を感じさせ始めている。
凌を小屋から送り出したあと、ユヴェは寝るに寝付けず、部屋着にガウンを羽織ったまま、ひとりで椅子に座っていた。
灯りは釜の小さなとろ火だけ。
その揺れる火を見つめながら、自分の鍵を指先でなぞった。
ダイヤモンド製。つまみの意匠は崩れた方舟。
神獣ノア・セメナの紋章。
ユヴェは火のゆらめきを反射する瞳で、それを見つめている。
ふと、扉が静かに開き、凌が入ってきた。
ユヴェは鍵をしまい、机の上に置いておいたゴーグルをかけた。
開けっ放しの遮音機の蓋を確認してから、ガウンの襟を正し、振り返る。
「……おかえり」
「おかえり」なんて、言われると思わなかった。
わずかに上がった凌の眉から、そんな思いが読み取れる。
「……賽子を振るかは分からないけど、捨てずにはいてくれそうだ」
「その、もうひとりの協力者に?」
「ああ」
そして、ぽつりと返された声には、疲労が滲んでいた。
「完全じゃないけど、俺たちだけでやるよりずっといい」
「そっか」
ユヴェは肩を撫で下ろすように息を吐いた。
「でも……」
凌が壁に寄りかかりながら言葉を継ぐ。
「…あんたの目的と、俺の目的、両方は無理かもしれないって言われた」
「……そうなんだ」
少しだけ、ユヴェの目が陰る。
だけどそれ以上、何も言わない。言えなかった。
「……槍、そんなに大事なのか?」
凌が静かに問いかけた。
ユヴェは、釜の火の灯りに頬を染めたまま、小さく頷いた。
「……大事だよ」
その声に嘘はなかった。
けれど、どこか遠くを見つめるような響きがあった。




