五十二層 : 濡れ手の策.04
ガットの問いは直球だった。
刃のような鋭さを投げながら、けれど同時に、音にならない答えを測ろうともしている。
お互いに魂と言葉が縛られたまま。
だからこそ、ここには確かな共犯関係がにじみ始めていた。
実際には、“共犯”とは呼べない。
誓約がある限り、どちらも最後まで信じきることはできないからだ。
それでも、今は“信じ合うふり”をすることが、唯一の賭けだった。
凌は、自身の刀をしばらく見つめた。
螺鈿の桜が、ほんのわずかに揺れていた。
やがて、静かに刀を鍵へと戻し、ジーンズのポケットにしまいこむ。
その仕草は、まるで今の“会話”そのものを封じるようだった。
ここでは、真実を語ることすら命取りになる。
だからこそ、彼らの言葉にはいつも“抜け道”が必要だった。
「誓約書は、書かれていることしか裁けない。──だったら、“その行間”で動くしかない。それはみんな考えることだろ?」
「……」
「明確な“行動”が始まる前なら、まだ全部は“想像”で済む。……いつか誰かのたとえ話をしようか」
「…たとえ話、ね」
現実味のない会話。
けれど、どちらもその“不確かさ”にこそ意味があることを理解していた。
「仮に、“誰か”が護送車で運ばれる未来。その護送ルートが分かったとしても──襲うなんてことは、しない方がいい」
「……は?」
「誰も攻撃しない。“誰か”が、ただ、影に落ちるだけだ。……仮に、そんなことができればの話だけど」
名前を伏せ、もしもの話を語る凌の声は、相変わらず穏やかなままだ。
けれど、そこには自分の命を危険に晒すことへの迷いが、まったくない。
「……影?」
「たとえば獏なら──食った悪夢は、自分の影の中に棲んでる。ウフを縛られても、固有能力が残ってる限り、そこに沈める方法が──あるかもしれない」
それは断言ではなく、仮定。
自分に言い聞かせるような言い方だった。
だが、“本気の仮定”ほど強いものはない。
そして、ガットはそれを十分すぎるほど理解できる男だった。
ガットは無言で視線を向ける。
続きがあることは分かっていた。
凌は、少し息を整えてから言葉を継ぐ。
「でも、誓約書に触れた瞬間から、悪夢は操れても、影が使えなくなる。最初から影頼みじゃ、話が成り立たない」
──その通りだ、とガットは内心で頷いた。
誓約破りの瞬間に、魂が自分を拒絶する。
それがどんな生き物であっても、死神の固有能力に例外はない。
「……じゃあ“そいつ”は、どうするべきなんだ?」
低く問いかけるガットに、凌が言葉を投げる。
「──悪夢に密度があるって、知ってるか?」
ふいに話の流れが変わったことで、ガットの眉がわずかに動く。
凌は自分の影を揺らしながら、あくまで自らの固有能力を告白するように、言葉をつづけた。
「食えるってことは、実態があって、重さがあるってことだ。もちろん、密度も。だから、たとえば──限界まで瓶に詰めることも、できる」
直感的に危険な匂いがした。
「……その瓶、割れたら地獄召喚ってことか。爆発でもすんのか?」
皮肉とも真顔ともつかないトーン。
凌は肩をすくめた。
「似たようなものかもね──悪夢が食えない、他の種族にとっては」
静かな説明に、ガットは目を細める。
それは冗談ではなかった。
その静けさが、逆に確かさを伝えていた。
「……で。それが疑似的な“悪夢空間”になるってわけか」
「ほんの数秒だけ。でもそれで十分だ。悪夢の中では重力も音も、時間さえも、歪む。白昼夢の逆。脳が処理できなくなる」
「……」
「物理攻撃はできない。でも、“戦意”や“行動命令”を、ほんの一瞬だけ断ち切ることはできる」
その語り口は冷静だった。
だが、どこか祈るような口調だった。
「もし、広範囲を影のウフなしで混乱させたいなら、そういう手もあるってこと」
ガットの胸中に、冷たいものが落ちる。
凌の声に感情はなかったが、それが余計に本気に聞こえる。
「……」
応えないまま、ガットは目を伏せた。
凌は足元に落ちる自分の影を見つめていた。
「使い捨てで、でも安全だ。悪夢は陽の光が苦手だから、時間が経てば俺の影の中に戻ってくる」
「……」
「それに、“忘れ物”なら、誓約違反にはならないだろ。ただ、何の気なしにそこに置いといた、とかさ」
これは計画じゃない。ただの空想だ。
……そう言い切れる限りは、まだ誓約には触れない。
だからこそ、言葉選びの“温度”が一度でも上がれば、全てが瓦解する。
そして──
凌はガットの目を見据える。
「……で、その瓶を“誰か”が壊せば、それでいい」
少しだけ間を置いて、言い換える。
「護送ルートなら、監視もいるだろ。遠くから。周りには気づかれなくても、“よく見える目”を持つやつなら、小さな瓶にも気が付いて“排除”してくれるかもしれない」
「……」
「…その時、そいつが誤って壊してしまっても、それは“事故”だろ」
ガットは一言も返さなかった。
だが、視線の深さだけが、すべてを物語っていた。
本当なら、ここで頷くことも否定することも誓約違反だ。
だから代わりに、ただ“目で読む”しかできない。
それでもその目が、どれだけの葛藤を飲み込んでいるか──凌にはわかっていた。
その言葉は、曖昧な響きしかないはずなのに、どこまでも確信に満ちていた。
迷いも押しつけもなく。
ただ、その一手を相手に託す声だった。
……その提案に対する答えは、雨音の中、どこにも落ちてはこなかった。
けれど、それでも凌は──
まっすぐその影の獣を、見つめ続けていた。
ガットは無意識に眉をひそめた。
信じられているという実感が、ほんの一瞬、居心地悪く胸を突いた。
けれど、聞き捨てならない言葉でもあった。
「……待て、テメー……俺の武器が何かを知ってるのか」
その声は、雨音よりも低く、にぶく落ちた。
まるで、何か見られたくなかった記憶を暴かれたような、そんな響きだった。
「言っただろ。あんたのことは──あんたが俺を調べたくらいには調べてるって」
沈黙が落ちた。
それもそのはずだ。
ガットは、戦いよりも先に“名乗るべき相手”を見極める。
だからこそ──誰にも、武器を見せたことがない。
特に、この悪魔社会に来てからは意識的に、隠している。
情報として知っている者が、裁判官に数名いるのみ。
それ以前、天使領にいた時でさえ、彼の武器がなにかを知っていた者は少ない。
それなのに……
こいつは“全てを知っている”かのように、計画に組み込んでいる。
ガットは、ブルゾンの下——隠すように装着しているナイフホルダーを触った。
そこにあるのは“ただのナイフ”だ。
ウフの乗らない、純粋な刃。
彼の本当の鍵は腰のポケットに収められている。
そしてそれは、長距離を難なく撃ち抜く銃の類だった。
暗殺を生業とする彼。
その在り方を模るような、静かな殺意の形。
引き金に指をかけたことは数え切れないが、誰にもその姿を見せたことはない。
銃声よりも早く、息が消えること。
それが彼の武器の“証明”だった。
──確かに俺の鍵なら、悪夢の瓶を正確に狙える。
ガットの目付きは鋭いままだったが、凌は気にせず話を進める。
「とにかく、どんな手段であれ混乱に乗じて、ペナルティが完全に発動するまでに影移動を終わらせる。間に合わない時用に、予備に逃走用の扉も用意しておくのが理想だな。……都合よくあれば、だけど」
「…賭けだな」
凌は視線を外さずに答えた。
「ただのたとえ話だよ」
嘘ではない。
でも、口にするだけで何かが削がれる気がした。
──覚悟は、とっくに決めている。そう言っているような目だった。
そもそも、相手にする裁判所という存在が大きすぎる。
敵に回すと決めた時点で、これから先の生存は地獄と隣り合わせだ。
「あと、その後の逃走経路。それも、つなげてくれる誰かがいれば──」
「フォールドラークの女か」
確信がある声色だった。
凌は目を細める。
「テメーが接触したユヴェって女、もう見張りがついてる」
「……」
「不正扉を使う手は裁判所が真っ先に警戒する。とくに、“悼み月”の時期は取り締まりが…」
「わかってる。でも──」
凌は目線を下げて、言葉を一度飲んだ。
少し間を開けてから、再び口を開く。
「扉の一枚は、瓶を割る“誰か”用だよ」
「──は?」
今度こそ、間抜けな声が出た。
ガットは言葉を失う。
その一言が、雨の音よりも静かに響いた。
彼が思っていた計画の構図が、音もなく塗り替えられていく。
それが、なぜか──胸の奥に、ぬるい水のような感触を残した。悔しかった。
「たとえ危険物だと判断して瓶を排除したとしても……裁判所の上の奴らが、納得してくれるとは限らない。だから、扉を一つ持ってるくらいがちょうどいい」
「……ずいぶん、甘い奴だな」
「…帰りたい場所に帰れないのは、つらいと思うだけだ」
凌は、それ以上言わなかった。
ガットがどんな理由で裁判所に来たのか、さわりしか店長からは聞いてない。
でも、ここにいることが、ガットにとって“大切な誰かを苦しめ続けている”ことさえ分かっていれば、凌には充分だった。
「……いまいち、図りきれねえな」
ガットは眉をひそめた。
けれど五感の鋭い彼だからこそ、目の前の男が嘘を吐いていないことだけは、分かってしまう。
まるで、それが一番厄介だと言わんばかりに。
「ただの無鉄砲か。それとも底なしのお人好しか」
「…さあね」
肩をすくめる凌。
どちらだろうと、他人に判断を委ねているような顔だった。
「ただ、今は、確かに無鉄砲かもな」
ふっと息を吐くように笑う。
「とにかく、亜月を死なせるわけにはいかない」
確かな決意が宿る紅い目を、ガットは静かに見つめていた。
見た目も声も、鼓動のリズムも、何もかもが違う。
なのに思い出してしまう。
記憶の中でも、俺の軌道を捕らえて引き戻そうとする、あの引力。
まぶたの裏に焼きついている、あの炎。
陽の光の届かない場所に身を置いても、忘れられなかった。
……まるで、“あいつ”の目を、もう一度覗き込んでしまったような気分だった。