表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Shangri-La ─ 生きて、死を越え、何かを遺せ。  作者: sora
【第一幕】濡れ手の策

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

50/288

五十層 : 濡れ手の策.02


数秒の沈黙のあと、ガットは「来い」とだけ言って背を向けた。

雨の中、ふたりは静かに、公園からほど近い廃墟へ向かう。


旧医療センターだったらしい建物は、すでに封鎖され、外壁のほとんどに蔦が這っている。

階段を上がり、軋む扉を押し開けて、内部へと滑り込んだ。

内部には錆びた看板と、割れたガラス。

けれど、どこか時間が止まったような、整然とした空気が残っている。


待合室だった場所には、破れたソファと落書きだらけの壁。

さらに奥へと進み、適当な病室にふたりは入った。

部屋へ入った瞬間、なにか()()()()()に包まれた感覚がした。


雨音と埃の匂い。

床には古びたベッドと、かしいだ点滴スタンド。

窓枠の上に見落としそうなほど小さなケースが、蓋を開いて置かれている。


……一度来て、下調べ済みってことか。


凌はその中にポツンと残された丸いすへ腰をおろした。

ガットは部屋の奥の窓の横へ、背をもたれて腕を組む。


「……取引の、答えを聞かせてくれるわけ?」


凌の声に、ガットは目を細めた。


「まだ決めちゃいねぇ。……ただ、()()()()()()()は調べてきた」

「…護送…?」


亜月について、凌は未だに場所を掴めないでいた。

でも、店長の蜘蛛が彼女の危険を伝えてこない。

それは暗に、まだ()()()()()()()()で無事でいる──ということを示していた。


女郎蜘蛛の巣は、ゼノラ層に張り巡らされている。

ウルネス層までは、まだ広げきれていないらしいが。


「テメーが取り返したい女の、護送だ」

「……まだ誰とも言ってないのに?」

「ナメんな。テメーの周辺洗えば、関わりのある名前はいくつも目にする」


いつもやっていることだと言うように。

朝の支度でもするような口ぶりに、凌はまっすぐこちらを見るガットを見つめた。


「……調べたってことは、手を貸す気があるって考えても?」

「テメーも言っただろ。──“全ての価値は人によって違う”」


その言葉だけを返して、ガットはしばし沈黙する。

沈黙のあと──口を開いたのは、声の質がわずかに低くなっていた。


「……答えを出す前に、決めなきゃならねえことがある」

「……」



「──()()のことだ」



雨音が、割れた窓の向こうで遠く響いていた。

その音を背に、会話はようやく、核心へと差し掛かる。


雨音が屋根の鉄板を打つ中、カビの浮いたベッドと錆びた棚。

天井の亀裂から落ちる水滴が、かすかにリズムを刻んでいる。


「……確かに。誓約書(せいやくしょ)。一番の問題だな」


ため息のような凌の言葉に、ガットは無言で頷いた。


悪魔領(あくまりょう)で過ごすには、何においても『契約』がついてまわる。

土地の譲渡や物の売買はもちろん、住居の居住許可、道具の貸し借り、

果てには「食事に“赤”が入っていても訴えない」というような、他種族には信じがたい契約まで存在する。

破れば当然、罰が課せられる。軽いものから重いものまで、内容は様々だ。



が、それらの比ではないほどの拘束力を持つもの──それが、裁判所が発行する“誓約書”だった。



ガットはしばし躊躇(とまど)ったあと、ブルゾンの内ポケットから半分に折られた紙を取り出す。

とても古い紙だった。

けれど、確かに、裁判所が掲げる惑星の円環と月の紋様が記されている。


「……それは?」

「…俺の誓約書の”控え”だ」


凌の目が細くなる。


「…裁判官でも、誓約書を結ばされるのか?」

「違うな。()()()()結ばされてる」


凌は静かに息を呑んだ。

その言葉には、どこまでも交われない天使と悪魔の“種としての断絶”が滲んでいた。


ガットは擦り切れた紙の端に指を滑らせる。

まるで何度も開いては閉じたような、折り目の擦り切れ具合が時間の経過を物語っていた。


「誓約書は、ダーツの──死神種の固有能力(ノータ)による契約だ。紙に書かれた内容が、そのまま魂に刻まれる。書かれてることがすべて。()()()()()()()()()()()()()()()()()


ひらりと、紙をちらつかせるガット。


「ただし、問題はこの紙自体。“裁判所の所有物”として管理されてる。紙を破っても、勝手に持ち出すだけでも、ペナルティ対象になる」

「……」


凌が腕を組み直し、息を吐いた。


「内容の反故(ほご)もだめ。物理的な破棄も、持ち出すこともだめ。……拘束力の強さは一級品だな」


凌が言葉を落とすと、古びた病室の空気が、さらに湿り気を帯びたように思えた。

その紙一枚に、どれほどの命と自由が縛られてきたのか──考えれば考えるほど、静かな恐怖がにじむ。



「……“死神”の誓約書だからな」



ガットの声は乾いていた。

それは、重さを背負いすぎて、もはや麻痺してしまった者の語り口だった。


言葉が落ち着いたところで、短い沈黙が流れる。

凌が少し椅子に体重をかけ直した。

椅子の足が、コツ、と鈍く床を鳴らす。


ガットは無言で紙を畳むと、湿った空気の中に、小さく息を吐いた。

それはあまりに重すぎる拘束力の話を、自分の胸から一度、追い出すような仕草だった。


「……誓約を破ると、どうなる?その場で、すぐさま呪い発動か?」


淡々と尋ねる凌に、ガットはすぐには答えなかった。

わずかに目を伏せ、呼吸を整えてから口を開く。


「いや……即座、というわけじゃねえ」


静かに語られるその“わずかな猶予”は、命の余白ではなく、逆に“運命のラグ”とでも呼べるものだった。

ただ、その“わずかな余白”に、希望を見出すか絶望を刻むかは、誓約を破る者次第だった。


「破れば、ダーツにはそれが分かるらしい。ただ、奴が認知してからペナルティ発動までに、わずかな間がある。──あの死神は()()だからな」

「……」

「裁く側がルールに一番無頓着だ。……笑えるだろ」


低く静かな声には皮肉が混じっていたが、決して軽口ではない。

その“わずか”の中に、いくつもの命が潰れてきたのを、ガットは見てきた。


「……わずかな間、ね」


凌の声は低くなった。

その“間”が命取りになる未来を、彼も容易に想像できたのだろう。


「もともとは、死神と誓約者が対等な立場で結ぶ、()()()()だった。その頃は、恐らく破った瞬間に死んでただろうな」


過去形のその言い回しに、裁判所という制度の歪な“進化”が滲む。



「──それを、いつからか裁判所の秩序維持のために使い始めた」



凌の言葉に、ガットは軽くうなずいた。


「そうだ。だから誓約書の“管理者”であるダーツには、誰がどこでどうやって誓約を破ったか、分かる」


ぽつり、ぽつりと話すガットの言葉は、語りというよりも記録に近い。

記録、それも、消えない罰の履歴のような響き。


「そして、破った奴がペナルティで苦しんでる間に拘束って流れだ。悪魔どもはどうしても法廷を開きたがる」


最後の言葉には、かすかな嫌悪が滲んだ。

“正義”という名を借りた見世物に、どれだけの命が晒されてきたか──それを知る者の声だった。


一瞬、何かを思い出すようにガットは目を伏せる。

濡れた前髪が額を隠した。

けれど、それもほんの束の間のことで、雑に金髪を掻き上げながら、再び低い声を落とす。


「誓約破りのペナルティはウフの()()()()。最悪、()()もある」


その言葉に、凌の眉がほんのわずかに動いた。


「実際、過去に“影のウフ”で誓約を破ったやつがいた。数秒後に影のコントロールを失って──」


ガットは両手を広げて肩をすくめる。

何もないはずの手首に、鎖がかけられているように見えた。


「軽い罪だったから、釈放は早かったがな。……でも、その後、鍵を新調しねえ限り、()()()()()()()()()()使()()()()()()()


声の調子は変わらないのに、語られる過去だけが不気味に生々しい。


「……」


凌は何も言わない。

だが、その沈黙こそが、状況を正しく理解している証だった。


一呼吸置いてから、今まで見てきたものを詳細に思い出すように、ガットが重く言葉を続ける。


「あれを“反転”なんて言う奴がいるなら、そいつは正直者の傀儡か、もしくは常識が飛んでるやつだ。あれはもう、()()()()()。炎の適性なら体が焼け、地の適性なら生き埋め、雷なら…なんだろうな、最悪感電死でもするんじゃねえか」


淡々と(あげつら)っていくには、重すぎる。

けれど、ガットの声はどこまでも冷静だった。


「骨が焼ける時って、音がすんだよな……知ってたか?」


まるで、何度もその光景を見てきた経験があるような──

当たり前に地獄を見てきた者の語り口。

生々しい台詞に、凌は思わず唇を噛む。


「ペナルティ反応例は様々だ。まともに報告が残ってる例も少ねえ。途中で焼き切れてんだよ」

「……」

「たいていは破った瞬間から最低三時間──そいつのウフ適性が狂ってる間に、裁判所の悪魔どもが拘束する。場所と方法さえ分かってりゃ、それだけあれば十分すぎるほどだ」


それは“可能性”の話ではない。


幾度となく繰り返されてきた──静かな処刑の手口だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ