五十層 : 濡れ手の策.02
数秒の沈黙のあと、ガットは「来い」とだけ言って背を向けた。
雨の中、ふたりは静かに、公園からほど近い廃墟へ向かう。
旧医療センターだったらしい建物は、すでに封鎖され、外壁のほとんどに蔦が這っている。
階段を上がり、軋む扉を押し開けて、内部へと滑り込んだ。
内部には錆びた看板と、割れたガラス。
けれど、どこか時間が止まったような、整然とした空気が残っている。
待合室だった場所には、破れたソファと落書きだらけの壁。
さらに奥へと進み、適当な病室にふたりは入った。
部屋へ入った瞬間、なにか見えない膜に包まれた感覚がした。
雨音と埃の匂い。
床には古びたベッドと、かしいだ点滴スタンド。
窓枠の上に見落としそうなほど小さなケースが、蓋を開いて置かれている。
……一度来て、下調べ済みってことか。
凌はその中にポツンと残された丸いすへ腰をおろした。
ガットは部屋の奥の窓の横へ、背をもたれて腕を組む。
「……取引の、答えを聞かせてくれるわけ?」
凌の声に、ガットは目を細めた。
「まだ決めちゃいねぇ。……ただ、護送車のルートは調べてきた」
「…護送…?」
亜月について、凌は未だに場所を掴めないでいた。
でも、店長の蜘蛛が彼女の危険を伝えてこない。
それは暗に、まだゼノラ層のどこかで無事でいる──ということを示していた。
女郎蜘蛛の巣は、ゼノラ層に張り巡らされている。
ウルネス層までは、まだ広げきれていないらしいが。
「テメーが取り返したい女の、護送だ」
「……まだ誰とも言ってないのに?」
「ナメんな。テメーの周辺洗えば、関わりのある名前はいくつも目にする」
いつもやっていることだと言うように。
朝の支度でもするような口ぶりに、凌はまっすぐこちらを見るガットを見つめた。
「……調べたってことは、手を貸す気があるって考えても?」
「テメーも言っただろ。──“全ての価値は人によって違う”」
その言葉だけを返して、ガットはしばし沈黙する。
沈黙のあと──口を開いたのは、声の質がわずかに低くなっていた。
「……答えを出す前に、決めなきゃならねえことがある」
「……」
「──誓約のことだ」
雨音が、割れた窓の向こうで遠く響いていた。
その音を背に、会話はようやく、核心へと差し掛かる。
雨音が屋根の鉄板を打つ中、カビの浮いたベッドと錆びた棚。
天井の亀裂から落ちる水滴が、かすかにリズムを刻んでいる。
「……確かに。誓約書。一番の問題だな」
ため息のような凌の言葉に、ガットは無言で頷いた。
悪魔領で過ごすには、何においても『契約』がついてまわる。
土地の譲渡や物の売買はもちろん、住居の居住許可、道具の貸し借り、
果てには「食事に“赤”が入っていても訴えない」というような、他種族には信じがたい契約まで存在する。
破れば当然、罰が課せられる。軽いものから重いものまで、内容は様々だ。
が、それらの比ではないほどの拘束力を持つもの──それが、裁判所が発行する“誓約書”だった。
ガットはしばし躊躇ったあと、ブルゾンの内ポケットから半分に折られた紙を取り出す。
とても古い紙だった。
けれど、確かに、裁判所が掲げる惑星の円環と月の紋様が記されている。
「……それは?」
「…俺の誓約書の”控え”だ」
凌の目が細くなる。
「…裁判官でも、誓約書を結ばされるのか?」
「違うな。俺だから結ばされてる」
凌は静かに息を呑んだ。
その言葉には、どこまでも交われない天使と悪魔の“種としての断絶”が滲んでいた。
ガットは擦り切れた紙の端に指を滑らせる。
まるで何度も開いては閉じたような、折り目の擦り切れ具合が時間の経過を物語っていた。
「誓約書は、ダーツの──死神種の固有能力による契約だ。紙に書かれた内容が、そのまま魂に刻まれる。書かれてることがすべて。書かれてないことには、強制力はねえ」
ひらりと、紙をちらつかせるガット。
「ただし、問題はこの紙自体。“裁判所の所有物”として管理されてる。紙を破っても、勝手に持ち出すだけでも、ペナルティ対象になる」
「……」
凌が腕を組み直し、息を吐いた。
「内容の反故もだめ。物理的な破棄も、持ち出すこともだめ。……拘束力の強さは一級品だな」
凌が言葉を落とすと、古びた病室の空気が、さらに湿り気を帯びたように思えた。
その紙一枚に、どれほどの命と自由が縛られてきたのか──考えれば考えるほど、静かな恐怖がにじむ。
「……“死神”の誓約書だからな」
ガットの声は乾いていた。
それは、重さを背負いすぎて、もはや麻痺してしまった者の語り口だった。
言葉が落ち着いたところで、短い沈黙が流れる。
凌が少し椅子に体重をかけ直した。
椅子の足が、コツ、と鈍く床を鳴らす。
ガットは無言で紙を畳むと、湿った空気の中に、小さく息を吐いた。
それはあまりに重すぎる拘束力の話を、自分の胸から一度、追い出すような仕草だった。
「……誓約を破ると、どうなる?その場で、すぐさま呪い発動か?」
淡々と尋ねる凌に、ガットはすぐには答えなかった。
わずかに目を伏せ、呼吸を整えてから口を開く。
「いや……即座、というわけじゃねえ」
静かに語られるその“わずかな猶予”は、命の余白ではなく、逆に“運命のラグ”とでも呼べるものだった。
ただ、その“わずかな余白”に、希望を見出すか絶望を刻むかは、誓約を破る者次第だった。
「破れば、ダーツにはそれが分かるらしい。ただ、奴が認知してからペナルティ発動までに、わずかな間がある。──あの死神は怠惰だからな」
「……」
「裁く側がルールに一番無頓着だ。……笑えるだろ」
低く静かな声には皮肉が混じっていたが、決して軽口ではない。
その“わずか”の中に、いくつもの命が潰れてきたのを、ガットは見てきた。
「……わずかな間、ね」
凌の声は低くなった。
その“間”が命取りになる未来を、彼も容易に想像できたのだろう。
「もともとは、死神と誓約者が対等な立場で結ぶ、死の契約だった。その頃は、恐らく破った瞬間に死んでただろうな」
過去形のその言い回しに、裁判所という制度の歪な“進化”が滲む。
「──それを、いつからか裁判所の秩序維持のために使い始めた」
凌の言葉に、ガットは軽くうなずいた。
「そうだ。だから誓約書の“管理者”であるダーツには、誰がどこでどうやって誓約を破ったか、分かる」
ぽつり、ぽつりと話すガットの言葉は、語りというよりも記録に近い。
記録、それも、消えない罰の履歴のような響き。
「そして、破った奴がペナルティで苦しんでる間に拘束って流れだ。悪魔どもはどうしても法廷を開きたがる」
最後の言葉には、かすかな嫌悪が滲んだ。
“正義”という名を借りた見世物に、どれだけの命が晒されてきたか──それを知る者の声だった。
一瞬、何かを思い出すようにガットは目を伏せる。
濡れた前髪が額を隠した。
けれど、それもほんの束の間のことで、雑に金髪を掻き上げながら、再び低い声を落とす。
「誓約破りのペナルティはウフの適性反転。最悪、剥奪もある」
その言葉に、凌の眉がほんのわずかに動いた。
「実際、過去に“影のウフ”で誓約を破ったやつがいた。数秒後に影のコントロールを失って──」
ガットは両手を広げて肩をすくめる。
何もないはずの手首に、鎖がかけられているように見えた。
「軽い罪だったから、釈放は早かったがな。……でも、その後、鍵を新調しねえ限り、武器を握ってもウフは使えなくなった」
声の調子は変わらないのに、語られる過去だけが不気味に生々しい。
「……」
凌は何も言わない。
だが、その沈黙こそが、状況を正しく理解している証だった。
一呼吸置いてから、今まで見てきたものを詳細に思い出すように、ガットが重く言葉を続ける。
「あれを“反転”なんて言う奴がいるなら、そいつは正直者の傀儡か、もしくは常識が飛んでるやつだ。あれはもう、暴走に近い。炎の適性なら体が焼け、地の適性なら生き埋め、雷なら…なんだろうな、最悪感電死でもするんじゃねえか」
淡々と論っていくには、重すぎる。
けれど、ガットの声はどこまでも冷静だった。
「骨が焼ける時って、音がすんだよな……知ってたか?」
まるで、何度もその光景を見てきた経験があるような──
当たり前に地獄を見てきた者の語り口。
生々しい台詞に、凌は思わず唇を噛む。
「ペナルティ反応例は様々だ。まともに報告が残ってる例も少ねえ。途中で焼き切れてんだよ」
「……」
「たいていは破った瞬間から最低三時間──そいつのウフ適性が狂ってる間に、裁判所の悪魔どもが拘束する。場所と方法さえ分かってりゃ、それだけあれば十分すぎるほどだ」
それは“可能性”の話ではない。
幾度となく繰り返されてきた──静かな処刑の手口だった。




