五層 : 夢を食う男.04
男の影が、地面から滲み出して広がっている。
影はじわじわと広がり、形を変えながら男の足元に収束していく。
それはまるで、飼い主のもとに戻る獣のように。
“本来の影”に戻ろうとしているように。
確信はないけれど、自分はいままであの影の中にいたんだと思わせた。
ソファに座る男は、静かにこちらを見下ろしている。
右目だけ、まぶたが閉じられていた。
左目だけ、薄く開いている。
色素の薄い白い肌に、男の濃いくまが映えて、どこか病弱なイメージをもたせた。
「…落ち着いたか?」
なかなか床から立ち上がれない亜月。
少しだけ労わるように、男の紅色の瞳が細められた気がした。
語尾が透けるような落ち着いた声は、緊張が取れない亜月の拳を少しだけ緩めた。
「まあ、そう簡単にはいかないか」
最初から分かっていたかのように、男は深いため息をつく。
どういうことなのか、さっぱり状況が理解できない。
駅前に居たはずなのに、妙な暗闇に飲み込まれて、気がついたら”知らない民家”にいる。
これは、誘拐なの?
目の前の男はなんなの?
声を忘れたように、浮かんだ疑問は音にはならない。
けれど、本能的に逃げなければと感じた亜月は、ゆっくりと体制を整えるふりをして、ポケットの中のスマホに手を伸ばした。
しかし、ポケットは空だった。
ポケットを探る。ない。
入れたはずの重みが消えている。
落とした?──いや、立ち止まったのは道路を渡った先のはず……
「没収したよ」
見透かしたように淡々と告げる男が、目の前のローテーブルを指す。
いつの間に盗られたのか、見慣れたスマホは机の上に置かれていた。
「通報されたらたまんないからな」
やばい、スマホ盗られた。──どうやって?
何にせよ、これでは助けを呼ぶことも出来ない。
喉がひりついてうまく声が出せない。
あの最悪な空間の中から出られないのではという恐怖とは、また別の恐怖がにじり寄ってくる。
わずかな沈黙を挟んで、亜月はひとつ唾を飲んだ。
それからゆっくりと、体を起こす。
「…その、あなたは……」
勇気を振り絞って問いかけると、男はめんどくさそうにソファの背によりかかった。
「お前の悪夢、食ってやっただろ」
悪夢を食う。
その単語だけで、ここ数日の不可思議な出来事はすべて、この男によるものだったと言われている気がした。
悪夢、と断言するには……食べられた夢の内容を思い出せなかったけれど。
それでもたしかに、夢の終わりに、この男らしき人物をみた記憶はかすかに残っている。
何か重い荷を下ろした時のような、あの朝の感覚も、まだ、覚えてる。
「お前のまずい夢のせいで、消化不良おこしてる」
「ま、まずいって…」
あまりに非科学的なセリフだった。
なのに、どうしてか根本の疑問を投げる気にはならなかった。
駅前からここまでどうやって移動したのか。
それを説明が出来ないことが、なにより目の前の男の異質さを証明しているようで。
冷たいフローリングに座り込んだまま、暖房もない冷えきった部屋にふたり。
得体の知れない男を前にするには、さすがに限界がある。
亜月は二の句が告げず、説明を求めるように男を見上げることしか出来なかった。
「…とにかく、いま口が上手いやつ呼んでるから」
「ちょっと待ってろ」と男が言いきるより早く、部屋の引き戸が勢いよく開いた。
「待って、待って!僕が最初にはじめましてするから…って、ああああ!もう出してる!!」
部屋に飛び込んできたのは子供だった。
汚れが染み付いた白衣を纏う、十歳前後の少年。
色の濃い大人用のゴーグルを押し上げるも、すぐにずり落ちてくる。
誘拐犯。犯罪者。最悪殺されるかも。
そんな考えが背中を這い寄っていたそこに、明るくはつらつとした少年の声が入り込んだことで、堰き止められていた何かが決壊したようだった。
意図せず涙が溢れてきて、何かに慌てている男の子を、更に焦らせてしまう。
「待ってって言ったのに…!」
「お前が遅いんだよ」
「泣いちゃってるじゃん!」
「俺は何もしてない」
すぐさまティッシュボックスを差し出してくれる少年。
気だるげな男に、物怖じもせず抗議していく。
その様子から、自分が想像するよりも、目の前の男は怖い存在ではないかもしれないと思えた。
「ごめんね、怖かったよね。僕は影の中入ったことないけど、やばいってことは知ってるから!」
「影の中…?」
やっぱり、あの男の影の中に自分はいたんだ。
ふと目線をやると、男の影がゆらりと揺れた気がして、すぐさま目線を外す。
「何にも説明なしで連れてきちゃったの?!」
「……そのためにお前呼んだんだよ」
「無責任!」
「うるさい」と一言零し、男は部屋を出ていこうとする。
少し古臭い磨りガラスがはめ込まれた引き戸。
それを男が丁寧な手つきで引いた。
その先の廊下が薄暗くて、色の淡い男とのコントラストから、夢の中でみたのはやっぱりこの男だったんだと確信を得る。
男は慣れた動きで部屋を出ていった。
残されたのは、呆然とする亜月と、男の態度に憤慨する少年だけ。
ふと、部屋を去る間際に、男が付けたストーブが唸り声を上げた。
しばらく使われていなかったのだろう、埃の焼ける匂いが温風とともに流れてくる。
ふたりきりの空間をどうにかしなければ。
亜月が思うのと、少年が思ったのはほぼ同時だったらしい。
所在なさげに揺れていた手で、少年は大きなゴーグルを押し上げる。
「…とりあえず、コーヒーでも飲む?」
気遣うような笑顔に、亜月はゆっくり頷いた。