四十九層 : 濡れ手の策.01
凌と翔が扉を潜っていった朝を除いて、太陽が二度昇り、月が三度目の顔を覗かせていた。
ユヴェは自分の小屋の小さな椅子に腰掛けて、夜空に浮かぶ月──ハーウェンの目を静かに見上げる。
黒い雲が風に煽られて、少しずつその目を隠しつつあった。
日付はとっくに変わっているというのに、手は、小さな菜園で取れた香草の根を無心でちぎっていた。
なにも変わらず、三日間働いた。
……たぶん、変わってなかった。
メテオは何も言ってこない。
他の職人たちも──何も。
気付かれてない。そう信じたい。
でも、部屋の真ん中に居座る扉が、それを許さない。
ふと、その扉が、音もなく開いた。
ユヴェは思わず振り返る。
彼女の小屋の中は、ウフの明かりと炉の微かな熱だけが、夜を溶かすように灯っていた。
すぐに小窓のカーテンを引いて、テーブルに出しっぱなしにしておいた遮音機の蓋を開く。
鼓膜の揺れを確認してから、ユヴェは声を落として呟いた。
「……遅かったね」
香草の束を握りしめたまま、ユヴェは言う。
声が震えなかったのは、多分、ずっと待っていたから。
凌は何も言わず、扉を閉めた。
三日しか経っていないのに、ユヴェの小屋の空気は、やはりどこか懐かしさを覚える。
「…飲み物でも、いる?」
「いらない」
そう言って、凌は壁にもたれかかる。
「協力してくれそうな奴を見つけた」
ユヴェの眉が、少しだけ動く。
「本当に…?」
「でも、名前は聞かない方がいい」
「……」
私のこと、完全に信用しているわけじゃないと言うこと、なのかな。
もしくは、その方が、私にとっていいと思ってくれてるのかな。
きっと後者だと──信じたい。
それに、確かに、知らない方がいい。
…こんな悪いこと、あんまり知られない方がいい。
「……その誰かは、悼む槍を取り返すことにも、協力してくれるの?」
「そこまではまだ分からない」
凌は静かに目を伏せた。
言葉は短く、相変わらず声は平坦だった。
でも、変に隠されるよりいいと思った。
「全員の目的が、重なりきってないから、断言はまだ出来ない」
「…そっか」
「でも、そいつが居るのと居ないのじゃ、雲泥の差がある」
ユヴェは椅子に腰を下ろすと、少しだけ目を閉じた。
直前に入れていた、自分用のマグからコーヒーの香りが漂う。
「……私は、何をすればいい?」
凌の目的も、そのもうひとりの協力者の目的も分からない。
どう動けばいいのか素直に問えば、凌は少し沈黙した。
「……あんたは必要以上に動かない方がいい」
冷たいようで、その言葉には優しさが含まれていた。
「でも──」
「目立たない方がいい。それに、そいつとの交渉では、あんたの扉が重要なカードになる。それだけで十分だ」
「……」
突き放すようで、ユヴェの立場を考慮したものだった。
けれど、無言のままのユヴェに何を思ったのか、
彼は少しだけ目を逸らしたあと、静かに紅色の瞳を彼女へ真っ直ぐ向けた。
「──大丈夫。ちゃんと、槍のことも分かってる」
空気に溶ける優しげな声が、神獣のモチーフに彩られた壁に吸い込まれていく。
遮音の膜が、それらをゆるやかに伸ばして消した。
「…ありがとう」
ユヴェの声に、少しの熱が戻った気がした。
凌は目を伏せたまま、返事をしなかった。
ただ、部屋の中にほんの少しだけ、“安心”の余白が生まれていた。
窓の外から雨の音がする。
手元の時計がわずかに振動し、予定の時刻が近いことを知らせてくる。
「…カノクィムの雨……」
凌の視線から外れた先で──ふと、ユヴェが呟いた。
何かを思い詰めるように。
カーテンの隙間から見える、しとしとと降るそれから、凌へ目線を向け直す。
「…さっきの言葉、”雨宿りの言葉”にしないでね」
「……雨宿り…?」
「一時的な、その場しのぎの約束って意味」
少し居心地が悪そうに、ユヴェは自分の手袋を弄る。
「……雨雲は、ハーウェンの月も、ソルの日も遮ってしまうから。“雨が降れば嘘が湧く“。“真実は濡れると見えなくなる”って、神獣カノクィムは言うの」
「……」
「──ごめん。信用してないわけじゃなくて…」
彼女のゴーグルの深い色の下でも、目線が泳いでいるのが分かる。
「昔から、自分が雨の中にいると、信じたくなる気持ちまで流れていっちゃう気がして……」
尻すぼみになる言葉。
ゴーグルの奥でまばたきが一度だけ、ゆっくりと落ちた。
香草の匂いが、湯気のように部屋の空気を包んでいた。
そこには彼女の過去をなぞるような、祈りのような想いが込められているようだった。
神獣信仰の厚い種族だからこそ、なにか特別なものもあるのかもしれない。
そんなことを感じ取りながら。
凌は短く「わかってる」とだけ告げた。
淡々と紡がれた言葉でも、彼の語尾の抜ける声。
ユヴェは、それにどこか“息の仕方”を思い出させてもらった気がした。
凌は少しだけ小屋の中を見渡して、今入ってきた扉ではなく、ユヴェの小屋のドアへと向かっていく。
「外に出るの?裁判所の悪魔に見つからない…?」
その背中に不安げな声が届く。
凌は気にせず、軽く息を吐いた。
「妖怪は死角に入るのが上手いんだ」
「……そう、なんだ……でも、どこに行くの?」
今度こそ後ろでに扉を閉めながら、凌は静かに答えた。
「……もうひとりの協力者のとこ」
*
ゼノラ層。大扉の街──ノードの中央区、蔦の丘。
妖精種の住居が多い区画の外れにあるその公園の階段は、雨に濡れて鈍く光っていた。
街灯の灯りすら、濡れた空気に滲んで、足元の影も形をなさない。
凌は傘も差さず、ゆっくりと階段を下りる。
降る雨粒を、ただ無言で見上げていた。
「……嫌なタイミングだな」
そう呟いたのは、天気のことだけではなかった。
「──雨か?」
声が届いた時には、もうすでにそこにいた。
ガットは街灯の光を避けるように、柱の影に立っていた。
黒いブルゾンのフードから滴る雨水。濡れてなお、気配は薄い。
「──“雨が降れば嘘が湧く“って」
凌の呟きに、ガットはわずかに眉を動かした。
「……また神獣か。信心深いな」
「『真実は濡れると見えなくなる』って言ってた。──もうひとりの協力者が」
雨音にまぎれるように、その言葉は落ちる。
ガットは眉ひとつ動かさなかった。
けれど、その沈黙は、否定ではなかった。
凌は続けた。
「雨の中で話せば、“嘘も本音も曖昧になる”。……神獣の目にも映らない」
雨音に消えそうなほど、静かなな声だった。
けれど、耳のいいガットにはきちんと届いていたらしい。
「……雨は欺瞞も湧くが秘密も守る。裏稼業じゃ、取引は雨の中が多い」
「へえ……」
凌は小さく応じて、足元に視線を落とす。
ガットは雨など気にもしないが、その信仰からくる文化の利用方法はよく知っていた。
「雨んなかなら、ソルとハーウェンの目線を気にしなくてすむからな」
ガットの言葉の温度は、いつもと変わらない。
けれど、少しだけ今夜の空気に馴染んでいる気がした。
「特に、雨の中を蝙蝠は飛ばねえ」
それが何よりの理由だと言わんばかりに、ガットは吐き捨てた。
凌は確かに、と静かに降る雨の空を見上げる。
ガットはそれ以上何も言わなかった。
黒いフードをわずかに引き上げて、雨粒に逆らって、コバルトブルーの目線を上げる。
彼の目線は雨というよりも、空を覆う雲そのものに向いているように思えた。




