四十八層 : 停止から、加速.06
ガットが羽織る黒いブルゾンの裾に、霜のついた木の葉が数枚、くっついている。
フードを目深にかぶっていても、鋭い金の髪は隠しきれていない。
隣に座っていると言えど、その距離には確かな“警戒”が滲んでいた。
腰は浅く、重心は足にあるまま。
でも、どこか呼吸に緊張はみられない。
寒さで、ガットの息は白く曇っているのに——
隣の獏は、まるで冬の空気にすら存在を拒まれているようだった。
凌は静かにポケットから小さなケースを取り出した。
蓋を開けると、金属の複雑な構造の中に埋め込まれた、音のウフがわずかに揺れる。
ほんのすこしだけ、空気が暖かくなったような感覚。
音の膜が、ふたり分だけ、空間を包んだように感じた。
——その静けさは、雪の中にいるような安心感と、微かに似ていた。
「……こんなにはやく、また会えるとは思わなかったけど」
遮音機が正常に動いているのを確認したうえで、凌はゆっくりと声を落とした。
皮肉ではないようだった。
事実、ガットが凌の家を後にしてから、一日と経っていない。
今朝の邂逅から、二十時間ほど。
“沈黙の時間”の重なり——悪魔どもの目を掻い潜れるわずかな時間を考慮すると、最短と言っても過言ではなかった。
本当に滔々と、流れる時間のように澱みない凌の声。
ガットは答えない。
その代わり、視線だけをまっすぐに返した。
それは、言葉よりも重い肯定だった。
月光を反射するコバルトブルーを、凌の紅色の目が静かに映す。
「……大変だね、あんたも」
そう呟いた声は、冷え切った神社の石畳に吸い込まれていく。
鳥の鳴き声も、木々の軋みも、この一角には届かない。
あたりを囲む防風林が、時間ごと切り取ったように、外界を遠ざけている。
「……イデラにも、こんなとこあんだな」
しばらくして、ぽつりとガットが言った。
「日本ならではってやつ。八百万の神」
「……」
「祠の中、綺麗に掃除されてるだろ」
そう言って、凌は正面の祠に顎をしゃくる。
何を言っているのか、ガットは正確には理解できなかった。
でも確かに、風化した狐の石像や木々の間にあって、そこだけは妙に清浄な空気をまとっていた。
どこか、異層の気配すら感じさせる静けさだった。
ガットは、小さく息をついた。
大気で霞んだ月明かりが、フードの影をすり抜けて頬に優しく差し込む。
「…で、どうする?」
情報が確かだったなら手伝えと強制されるかと思ったが——
凌は変わらず平坦な声で問いかけてくる。
まるで“選択肢はお前の中にある”と言わんばかりの言い草。
取引を持ちかけてきたくせに、ずいぶんと緩やかな拘束だった。
「……テメーにトキノケの賽子を握らせるには、俺は知らないことが多すぎる」
「そりゃそうだ。俺もあんたのこと、ほとんど知らない」
「…よくそれで、俺を選んだな」
「でも、あんたが一番、俺のやりたい事と一致してると思えたから」
静かに腕の包帯を弄る指先。
……どうにも、この獏と話していると調子が狂わされる。
無駄のない言葉は大抵、その裏に何かを含むことが多い。
でもこの男からは、なんの裏表も感じなかった。
「……まずは全てテーブルの上に乗せろ。話はそれからだ」
ガットは静かに腕を組んだ。
凌はふうと長めの息を吐く。
「手伝って欲しいことは、裁判所に捕まってる“女”に関すること」
「——は、まさか本当に女が理由なのか?」
ガットの眉がわずかに動く。
その言い回しは、彼の“警戒ライン”を一歩踏み越えかけていた。
何をするにも裁判所の法が絡みついてくる社会で、たったひとりの女のために?
あまりに現実的ではない理由にガットは眉をひそめたが、凌は特に表情を変えないまま答えた。
「全ての価値はひとによって違うだろ」
すっと、その言葉が胸の奥へ入り込んでくる。
風のように、あるいは光のように。
「…小耳に挟んだけど、あんたも似たような理由で裁判所に送られたんだろ」
ガットは何も返さなかった。
ただ一度だけ視線を外し、木立の奥へと流した。
冬の空気が頬を掠めていく。
それは、否定でも、肯定でもなかった。
けれど、拒絶ではなかった。
腕を組んだまま視線を落とし、それから再び凌を見る。
「……誰に聞いた」
「昨日話した所の、元締めから」
凌は淡々と答える。
「……ゾッとする奴だな、その情報屋は」
「…それは俺も同感。昨日食った夢の内容まで知ってんじゃないかって」
ふっと息を吐いたのが、ちょっとした笑みに見えた。
どうやら、この獏にとってはずいぶんと信頼の厚い相手らしい。
ソルヴァンの言い草じゃ、一方的に女郎蜘蛛に気に入られてる、という風だったが。
「……テメーは、獏なんだろ」
「そうだよ」
「…獏ってのは、悪夢を食う。それ以外になにがある?」
薄すぎた獏に関する資料。
あまりに底がしれない。
ひとつふたつ秒針を進める程度の言葉を吐くだけでは、まだ信用はできない。
「それ以外ね…」
そう言って、凌は目を細めた。
「ないんじゃない。それ以外なんて」
「……」
「他人の夢を食って、他人の“痛み”を整理するだけだ」
フードの奥で、ガットが顔をしかめたのが見えた。
凌は、落ち葉をひとつ摘んでくるりと回す。
「悪夢は、そいつの過去とか、記憶とか、魂の汚れみたいなもんだ。生きていくうちにどんな魂も必ず汚れて、質量を持つ。それを死に際に計るのが、裁判所の”魂の裁定”だろ」
「…俺は判決を下す立場じゃねえから、細かいことは知らねえよ」
「へえ?」
意外だと感じたのか、はじめて凌の片眉が緩く上がる。
が、すぐにそれは元に戻った。
「あんた、魂に質量があるのは知ってるか?」
「…話だけはな」
「全ての魂には、質量がある。同時に、全ての生き物には引力が存在する」
「……」
「裁判所が管理してるのは、その魂の重さだ」
魂に重さが存在するなんて、考えたこともなかった。
そして、質量があるなら引力がある——
それを聞いた瞬間。
今まで見えずとも確かに感じていた、他人から引っ張られる感覚が、妙に納得がいった気がした。
「悪魔たちは死ぬ時、魂にこびりついた汚れの重さを計る。それの重さに準じて、罪の重さが決まる」
ベンチの上に落ちていた小石に、持っていた枯葉をいくつか被せる包帯の指。
「でも俺は、魂の汚れを食って、ほんの少しだけ軽くできる」
幾重に重なったそれのうち一枚を取り上げて、凌は静かに握りつぶした。
……魂を軽くする行為は、手っ取り早い免罪ってわけだ。
包帯の手から零れ落ちていく砕かれた葉の残骸を横目で見つつ、ガットは小さく息を吐いた。
凌の言葉がひとつ、またひとつ、石畳に落ちていく。
「俺が食った夢は、二度と見ない。過去をまるごと、なかったことにできる」
「……それは裁判所に目をつけられて当然だな」
「だから、もう獏は俺ひとりしかいないんだよ」
その瞬間、風がひとつ、神社の背を撫でた。
ふと、何かの気配に似たものが、ガットの背筋を撫でる。ぞわりとした違和感。
——まてよ。
ふと気がついた。
魂の汚れを食うなら、そのなくなった重さはどこにいく?
昨晩、目の前の男に覚えた、引っ張られる感覚。
鮮烈なまでの“生”の引力じゃない。
その真逆だ。
“死”に向かう、静かで冷たい“重さ”。
——理解できねぇ。
いや、理解したくねぇ。
ガットはフードの奥で、じっと凌を見た。
その影が揺れている。
昨日、自分に触れた不気味な影。
……こいつの影の中には、食ってきた悪夢が詰まってるってことか?
確かに、この獏の影の動きは——影のウフの適性者の動きとは、違って見えたのを思い出す。
目の前の男は、魂の記憶を喰らって、自分の中に溜め込んで生きている。
そして、リーテの話じゃ、それがこいつ自身の身体も蝕んでいる。
それはもう、“生きてる”とは別の何かだ。
「……正気か、お前」
それは小さく吐き捨てるように零れた言葉だった。
凌は肩をすくめるだけだった。
否定も肯定もせず、ただそういう風に生きてる、とでも言いたげに。
「……テメー自身の魂は、軽くならねえのか?」
そう訊いた時、凌はしばらく黙った。
その沈黙が、何よりも答えだった。
「……知らない」
やがて、そう小さく呟いた声には、どこか諦めに似た透明さがあった。
「……聞いても、余計に理解ができねえ」
「……」
「夢を食うってのが、そもそも想像がつかねえ」
目を細めるガット。
その眼差しが答えを望んでいるようで、凌はひとつ息を吐いてから、口を開いた。
「なにもおかしくない。ただの”食事”だ。夢が見えて、触れて、食べられる。他の種族には出来ない固有能力が残ってるだけ」
「……それが想像つかねえって言ってんだ」
「そう言われても」
少しだけ、困ったように眉が動いた。
初めて、生き物らしい顔を見た気がした。
ガットは静かに待つ。
やがて、言葉を選ぶように凌は呟いた。
「あんたら天使が、当たり前に“誇りを持って生きる”ことを選択するのと、同じ感覚だよ。誇りのために生きて、誇りのために死ぬ。そこに、疑問が生じない」
「……全員が全員、誇りを灯せるわけじゃねえ」
「でも、根付いてる。そうやって生きるってことが」
白くならない息が、長く落ちる。
「俺は食えば食うほど、自分の首を絞める。でも、代わりに上手く食えば——誰かの何かを救える。そう思って生きてる……そうでなきゃ、やってられない」
そこには諦めにも似た、それでいて諦めきれない熱が宿っていた。
わずかな息遣いから、ガットはそれを聞き取る。
「——さっきも、もしかして食ってたのか?悪夢ってやつを」
「……」
凌は答えなかった。
けれど、この耳も目も良すぎる天使は、凌の異変に気がついていた。
骨の軋み、呼吸の乱れ、わずかに浮かぶ、脂汗。
黙って座っていただけなのに、急に苦しみだしたのを、ガットは木立の影から見つめていたのだ。
「…自分を生かすための”食事”が、”死”に直結する。……あんま、想像したくねえ生き方だな」
凌は今度こそ、分かりやすく、困ったように失笑して肩をすくめた。
どうにも出来ない現実が滲むようで、ガットはわずかに眉を寄せる。
「——で、どうする。あんまり、時間はないんだけど」
わざとらしく会話を切り替えて、凌は目を閉じた。
これ以上は、話す気がないらしい。
ガットは目線を落として、静かに答える。
「…それなら心配ねえ。俺が“もうひと調べ”する猶予は残されてる」
なにを、とは言わなかった。
それがどれほど自分のことを調べているかを示していると、凌は感じた。
不意に、神社の前の道を行く車の走行音がした。
深夜の小道を、二つのライトが照らす。
「……ノード中央区蔦の丘はずれ、公園階段の下。今夜二十六時」
公道へ目線を向けていた凌の耳に、低く声が届いた。
振り返ると、もうそこにはガットの姿はない。
……イデラ刻じゃない。ゼノラ刻で、翌、深夜二時。
ほんと、無駄のない男だ──
遠ざかる車のエンジン音。
凌は誰もいないそこで、小さく息を吐いた。
パチンと、小さな音を立てて遮音機の蓋を閉める。
途端に、耳の奥に夜風が滑り込むような、少し冷たい感覚を覚える。
「……魂の重さ、か」
自分のそれが、いまどれほどの引力を持っているのか——
それはまだ、誰にも分からなかった。




