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Shangri-La ─ 生きて、死を越え、何かを遺せ。  作者: sora
【第一幕】停止から、加速

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47/289

四十七層 : 停止から、加速.05


夜は深かった。


石製の狐が苔に沈む、古びた神社の境内に、風がひとつ吹いた。

枯れ葉が、すこしだけ舞い上がる。

朱塗りではない、灰色の鳥居をくぐった先──

雪はまだ降っていないが、冷たい湿気が肌を刺す冬の空気。


イデラ特有の薄曇りの中、月明かりが淡く落ちている。

そのなかで、凌は石のベンチに腰をかけていた。


街灯もない石畳に、靴の裏がふわりと落ち着く。


ベンチに腰掛けたまま、凌は、手をポケットに突っ込み、薄く目を閉じた。


静かな夜だった。

ときおり、(こずえ)を揺らす風の音。

遠くで鳴る車のエンジン。

犬の遠吠え。


その隙間に、微かに()()()()が滲んでいた。


夢の匂いだ。



……いい加減、食わなきゃ倒れそうだ。



亜月の悪夢を食べてから、水以外口にしていない。

空腹は限界を超えて、腹すら鳴らない。

でも、目が霞む程度には、体が食事を求めていた。


仕方なく、凌は”まぶたを閉じた闇の中”で、右目だけを、細く開いた。

精神が体から浮く。


普段は閉じている金色の右目。

多くの夢が交差するこの時間、まぶたの裏は真っ暗だ。

けれど、そこには夜を撫でるように、様々な夢が、淡い(もや)のように漂っているのが見えた。


人々にまとわりつく、細く淡い靄。


──悪夢。


疲れ果てた人間たちが、心のどこかに置き忘れた()()

日中にごまかした()()

誰にも言えなかった()()


夜になると、それらはこうして滲み出す。


凌には、それが金の右目で見て、匂いで感じることができた。


甘い。

ひどく、甘ったるい。



獣の舌が、心の裏を撫でた気がした。



体の奥で、獏の本能が震えた。


……違う、ちゃんと選べ。


ポケットの中で、指先をぎゅっと握る。



悪魔の夢に比べれば、人類の夢は薄味だ。

でも、恐ろしい悪夢ほど、甘い匂い。

哀しい悪夢ほど、深い味。

けれど、そんなものを食べれば、凌の体を()()()()()()()


体が重くなって、動けなくなる。


だから、もっと軽くて、熟成されていない夢を選ぶ。


視線を滑らせ、ひとつ、見つけた。

夜に凍えるような、誰かの小さな怯え。

子供の夢だ。

今日みた映画の描写に震えている。

突然世界が氷結したら、なんて、可愛らしい恐怖。


強いものじゃない。

今の凌には、それで十分だった。


精神だけを、そっと悪夢に差し入れる。


色はなく、ただ凍てつくほどの氷山があった。

でも、寒くない。感じない。

そこで必死に生き延びようともがく夢の主に見つからないうちに、

雪と一緒に悪夢を吸い込み、嚥下(えんげ)した。


口いっぱいに、甘さが広がった。


一瞬、頬の内側が痺れるほど、美味しいと思った。



……ごめん。



心の奥で、短く呟く。


でも、美味かった。


そんなふうに思う自分に、また、うんざりする。



そしてすぐに、()()が来た。



精神を体に戻し、まぶたを薄く開く。

胸の奥がぎゅっと縮む。

痛みが走る。

脈打つたびに、内臓のどこかが軋む。

思わず胸元の服を掴んだ。


ずきりとした頭痛が額を刺す。


ぐらりと視界が回る。

軽いめまい。

重心が傾き、ベンチに背中を預ける。


……くそ。


服を掴む指先が、かすかに震えた。

それを乾いた目で見下ろす。


笑えた。

これが、食事だなんて。

生きるために。死なないために。


腹は満たせるが、命が削れる。


もう一度、静かにまぶたを閉じた。

精神はもう浮かない。

また、ただの夜に戻る。


冷えたベンチに手をついて、一度だけ、深呼吸した。



……まだ歩ける。まだ息ができる。

まだ──()()()()



そう思って、まぶたを閉じたまま、体を起こした。


そのとき、ふと風の流れが変わった気がした。

さっきまで横から吹いていた夜風が、隣の()()で遮られている。

なんとなく、それが誰か察しがついた。


凌は顔を上げることもせず、静かに言った。


「…早かったな」


返事はない。ただ、凌は目を閉じたまま、浅く呼吸をしている。


白い息が出ない。


ガットはその隣に、いつの間にか座っていた。

脚音ひとつなく、気配すらも落として。


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