四十七層 : 停止から、加速.05
夜は深かった。
石製の狐が苔に沈む、古びた神社の境内に、風がひとつ吹いた。
枯れ葉が、すこしだけ舞い上がる。
朱塗りではない、灰色の鳥居をくぐった先──
雪はまだ降っていないが、冷たい湿気が肌を刺す冬の空気。
イデラ特有の薄曇りの中、月明かりが淡く落ちている。
そのなかで、凌は石のベンチに腰をかけていた。
街灯もない石畳に、靴の裏がふわりと落ち着く。
ベンチに腰掛けたまま、凌は、手をポケットに突っ込み、薄く目を閉じた。
静かな夜だった。
ときおり、梢を揺らす風の音。
遠くで鳴る車のエンジン。
犬の遠吠え。
その隙間に、微かに甘い匂いが滲んでいた。
夢の匂いだ。
……いい加減、食わなきゃ倒れそうだ。
亜月の悪夢を食べてから、水以外口にしていない。
空腹は限界を超えて、腹すら鳴らない。
でも、目が霞む程度には、体が食事を求めていた。
仕方なく、凌は”まぶたを閉じた闇の中”で、右目だけを、細く開いた。
精神が体から浮く。
普段は閉じている金色の右目。
多くの夢が交差するこの時間、まぶたの裏は真っ暗だ。
けれど、そこには夜を撫でるように、様々な夢が、淡い靄のように漂っているのが見えた。
人々にまとわりつく、細く淡い靄。
──悪夢。
疲れ果てた人間たちが、心のどこかに置き忘れた痛み。
日中にごまかした恐怖。
誰にも言えなかった後悔。
夜になると、それらはこうして滲み出す。
凌には、それが金の右目で見て、匂いで感じることができた。
甘い。
ひどく、甘ったるい。
獣の舌が、心の裏を撫でた気がした。
体の奥で、獏の本能が震えた。
……違う、ちゃんと選べ。
ポケットの中で、指先をぎゅっと握る。
悪魔の夢に比べれば、人類の夢は薄味だ。
でも、恐ろしい悪夢ほど、甘い匂い。
哀しい悪夢ほど、深い味。
けれど、そんなものを食べれば、凌の体を毒のように蝕む。
体が重くなって、動けなくなる。
だから、もっと軽くて、熟成されていない夢を選ぶ。
視線を滑らせ、ひとつ、見つけた。
夜に凍えるような、誰かの小さな怯え。
子供の夢だ。
今日みた映画の描写に震えている。
突然世界が氷結したら、なんて、可愛らしい恐怖。
強いものじゃない。
今の凌には、それで十分だった。
精神だけを、そっと悪夢に差し入れる。
色はなく、ただ凍てつくほどの氷山があった。
でも、寒くない。感じない。
そこで必死に生き延びようともがく夢の主に見つからないうちに、
雪と一緒に悪夢を吸い込み、嚥下した。
口いっぱいに、甘さが広がった。
一瞬、頬の内側が痺れるほど、美味しいと思った。
……ごめん。
心の奥で、短く呟く。
でも、美味かった。
そんなふうに思う自分に、また、うんざりする。
そしてすぐに、負荷が来た。
精神を体に戻し、まぶたを薄く開く。
胸の奥がぎゅっと縮む。
痛みが走る。
脈打つたびに、内臓のどこかが軋む。
思わず胸元の服を掴んだ。
ずきりとした頭痛が額を刺す。
ぐらりと視界が回る。
軽いめまい。
重心が傾き、ベンチに背中を預ける。
……くそ。
服を掴む指先が、かすかに震えた。
それを乾いた目で見下ろす。
笑えた。
これが、食事だなんて。
生きるために。死なないために。
腹は満たせるが、命が削れる。
もう一度、静かにまぶたを閉じた。
精神はもう浮かない。
また、ただの夜に戻る。
冷えたベンチに手をついて、一度だけ、深呼吸した。
……まだ歩ける。まだ息ができる。
まだ──生きてる。
そう思って、まぶたを閉じたまま、体を起こした。
そのとき、ふと風の流れが変わった気がした。
さっきまで横から吹いていた夜風が、隣の何かで遮られている。
なんとなく、それが誰か察しがついた。
凌は顔を上げることもせず、静かに言った。
「…早かったな」
返事はない。ただ、凌は目を閉じたまま、浅く呼吸をしている。
白い息が出ない。
ガットはその隣に、いつの間にか座っていた。
脚音ひとつなく、気配すらも落として。




