四十四層 : 停止から、加速.02
ガットが音もなく去って、凌は改めて戸締りの確認をして回る。
一通りみて元いた部屋へ戻ろうとすると、リビングの引き戸がぴったりと閉まっていた。
──さっき、開けっ放しで出てきたはず。
リビングの戸を開けた瞬間、冷え切った空気のなかに、微かに甘く、澄んだ香の匂いが混じっていた。
人の気配のないはずの空間で、香木のような残り香が室温を歪めている。
リビング奥の床には、彼女が座っていた。
藤色の和服は季節外れに見えるのに、妙にこの寒さに似合っている。
足元のフローリングには、着物の裾がゆるく波を描いていた。
「お邪魔してるわよ、凌」
伏せられた睫毛の影が濃い。
長い睫毛が揺れるたび、柔らかい口調の奥で、“言葉にならないもの”が一瞬だけのぞく。
「……お茶、ひとつ分けてもらえるかしら?」
すでに用意された湯呑みに、急須から静かに湯が注がれていく。
その手元──影の奥で、一匹の蜘蛛がぴたりと足を止めていた。
壁の隅に、天井の梁に、古びたテレビの裏に。
気づけば、蜘蛛の気配があちこちから、ほんのわずかに“揺れて”いた。
まるでこの家の時間ごと、すでにその女のものに塗り替えられていたかのように。
「……店長、いつの間に来たんだよ」
珍しくぶっきらぼうな声が出た。
凌が問えば、女──“店長”は微笑んだ。
「お茶を淹れるには、湯の温度が難しいのよ」
ただそれだけ。
当たり前のように座っている。
店長の差し出した湯呑みを受け取ると、凌は一度だけ香を嗅いで、ため息をついた。
「…で、何の用?」
ソファに腰掛けながら、視線だけで問う。
店長は湯を口に運び、ゆっくりと器を置くと、ほとんど音のない声で返した。
「今、あなたが組もうとしてる相手について」
凌の手が、湯呑みの縁で止まった。
「…ガット・ビターのことか?」
「ええ」
店長は頷いた。
藤色の袖がふわりと揺れて、天井の隅の蜘蛛がそれに合わせるように脚を動かす。
「悪魔領唯一の天使。現、裁判所の第六裁判官」
「それは知ってる」
「けれど、あなたは知らないわ。彼が──“誰のためにそこにいるか”」
凌は沈黙を返した。
「闇丸は…あの子の仕事は少し雑だから、もう少しきちんと知っておくべきよ」
「……」
本当に、隅から隅まで知られている。
思春期でもないのに、気配りの行き届いた先生に心を読まれている生徒の気分だ。
凌は湯呑みに伸ばしていた手を引っ込めて、ソファの背にもたれた。
「ガット・ビターはとても慎重な男だわ。あなたが目論んでいることも、うまくいかなければ何食わぬ顔で今の席に座り続けるでしょうね」
「…かもな」
「だから、教えてあげに来たのよ」
店長はにこりともせずに、言葉を続ける。
「交渉の場でも、武器は必要だって教えたじゃない」
──世の中タダより怖いものはないってことも教わったけど。
それを言えば代金が釣り上がりそうなので、あえて飲み込んだ。
「……で、あんたはどんな武器を持ってきてくれたわけ?」
そう投げると、店長は視線を揺らさずに答えた。
「あの天使は、ただ罪を犯して裁判所へきたわけじゃないのはわかるわよね?それならとうの昔に判決が降りて、今ごろその魂は巡っているわ」
「……」
「彼は──裁判官になる代わりに、一つの星を堕とした」
「星…?」
店長らしかぬ比喩だと思った。
目の前の女とは、情報屋と顧客というよりも、もっとずっと厄介な糸で長いこと繋がっているが……
詩的な言い回しは珍しい。
「八十年ほど前、天使社会に──」
店長は茶を見つめながら、過去をなぞるように語った。
「彗星のように現れた男。その男が、自分の自由と引き換えにガット・ビターの命を救った」
「……名前は?」
「言う必要あるかしら?」
言いながらも、店長の声には重さがあった。
「彼のおかげで、ガット・ビターは裁判所の裏方として命をつないだ」
「……」
「そして、その男は今でも天使社会にいる。ひとりの命を救った代わりに──社会の底で、眠るように」
底で、眠るように。
それが何を意味するのか分かるほど、凌は天使社会について知らなかった。
でも、ガットが天使でありながら悪魔社会の影に生きるように、おそらくその男も天使社会で生きづらいのだと思わせた。
「ガット・ビターは天使社会へ戻れない」
揺るがぬ事実だと、店長は言葉を落とす。
「それは自分にかけられた罪以上に、その男を堕としたのが自分で、それこそが“罰”だと思っているから」
一瞬、胸の内に何かが落ちた。
抱えこむには、重たく冷たい何かが。
「あなたが付け入るべきは、そこよ」
「──もういい。それ以上は」
思わず遮った。
声が勝手に出た。
本当に、得意じゃない。こういうのは。
店長がわずかに目を細めた。
「……そういうの得意じゃない、俺は」
全てを見通しているような、店長の淡い紫の瞳。
逃げるように目を逸らすと、蜘蛛が天井の梁からするりと糸を垂らしていた。
どこを向いても目が合うようで、凌は包帯の手で両目を覆う。
ソファに深くもたれて、小さく息を吐く。
「……でも、自分の目で確認しに行った」
「……」
「だから──今は、それで十分だろ」
店長はそれ以上なにも言わず、静かに頷いた。
「それに、今更そんなおせっかいを焼くなら、最初から裁判所の動きを教えろよ」
ぶつくさと文句のような言葉が垂れた。
店長の情報があれば、亜月を連れ攫われずに済んだのに。
しかし、店長は悪びれもなく笑う。
「あら、ずいぶん彼女の肩を持つのね?」
「……理由も知ってるだろ」
「知っていても、“納得”はしていないわ。私は“あなた”が大事なの」
「……」
「今までずっと見て見ぬふりしてきたのに、“今更”守ろうとしている誰かさんに責められたくないわねえ」
ぐうの音も出なかった。
確かに、養護施設に預ける形で、亜月を最初に手放したのは自分だ。
でも、あいつが悪魔と人類の混血だと──知ってたら、そんな選択しなかった。
凌は、本当に亜月の出生について知らなかった。
父親が悪魔であるという事実だけ。
母親が今どこで、何をしているかも知らない。
店長に調べてもらおうか思った瞬間もあったが──
赤ん坊だった亜月の“成長速度”が人類のそれだと気が付いた瞬間、思った。
──知らないほうがいい。
悪魔の父親と血縁なのか、そうじゃないのか。
どちらにせよ、深入りはすべきじゃない。
遠巻きに見守るくらいが、ちょうどいい。
だから、凌はなにもしなかった。
亜月はなにも知らないまま、人間として生きていく方が、幸せだと思ってた。
──だったのに。
思い出すのは、彼女の夢を食べたときの味。
甘く、蕩けるような、悪魔特有の──甘美な香り。
苦々しげに眉を寄せる凌。
店長は鈴を転がすように笑うと、凌の心境など露とも知らず、ゆっくり湯呑みを傾ける。
「それにしても、あなたもう少し掃除しなさいな」
「…うるせえな」
「ここ、とても寒いわ」
「じゃあ帰れよ」
香の匂いが、少しだけ濃くなった気がした。
そして、蜘蛛の影が、気のせいじゃなければ、“こちらの未熟さを憐れむように”笑っていた。




