四十二層 : 神獣に背をむける手.03
「それと──ガット」
ソルヴァンの声は低く、重たく落ちるように響いた。
気だるげな空気の中、黒いフードの奥で光を帯びたコバルトブルーが、ゆっくりとこちらを向く。
ガットが視線だけをよこす。返事はない。
ただ、その無言が承諾の証だった。
「貴様は獏を調べろ。不正扉の証拠をおさえる。……だが、処理はするな。これも簡単に殺すわけにはいかない」
冷たい言葉の中に、妙な慎重さが滲んでいる。
エノワールがわずかに眉をひそめたのを、ソルヴァンは無視するように続ける。
「優先すべきは、槍と獏だ。考えられる動機として、奴は不法混血児の奪還。その鍵職人は、悼む槍の奪取が挙げられる」
机に置かれた報告書の端を軽く弾きながら、ソルヴァンは視線を宙に滑らせた。
悼む槍の移送は、あくまでアツキの護送にかこつけたものだ。
表向きには目的外だったが、結果としては囮の役割を果たしている。
あの獏が、この先も秩序の枠に収まるのか、どうか。
「……計画通りに運べば、獏の監視も誘き出しも容易。仮に奴が奪還に動けば──囮に喰いついた証拠。動かなければ、それもまた、利用価値の線引きになる」
口元だけで笑みを作りながら、ソルヴァンは続けた。
「……もし、奴が本当に、裁判所に楯突くほどの馬鹿なら、だが」
鋭さの奥に、どこか愉しんでいる気配があった。
「鍵職人が身軽に動けるとは思えない。獏を抑えれば、槍とアツキ、同時に二つを封じられる」
その論理は、あまりにも整っていた。
感情の入る余地はない。まるで計算式のように。
「……獏には、まだ“慈悲”をかけるということね?」
リーテが口を挟む。
軽やかに響く声だったが、その言葉の裏には鋭い探針のような意図が隠れている。
ソルヴァンはそれに対して、あくまで冷静に首を横に振った。
「慈悲ではない」
少しの間があって、淡々とした言葉が続く。
「奴の厄介なところは、“魂を軽くする”ことだけじゃない。他種族には到底扱えない、“悪夢”を操る点だ」
エノワールがわずかに眉をひそめた。
「……なら、余計に、生かす理由はないのでは?」
それは真っ当な意見だった。
だが、ソルヴァンは眼鏡の奥の視線を鋭くし、静かに言い切った。
「──殺せるものなら、殺している」
沈黙が落ちる。
照明の下、ソルヴァンの指先が机をゆっくりと叩く音だけが残った。
「悪夢は、我々悪魔にとって──最悪なことに、“あまりにも身近すぎる存在”だ」
その言葉には、まるで吐き捨てるような苦味が滲んでいた。
「悪魔の固有能力は、鏡や夢を渡る。だが今や、種の“退化”によって、渡ることはできないくせに、悪夢は“病”を連れてくる。蓄積されれば精神を蝕み、時に寿命さえ削る──悪魔には身近すぎる病だ」
誰も言葉を挟めなかった。
ソルヴァンは天井を仰ぐように、小さく息を吐いた。
「……だからこそ。獏が悪夢を“喰らう”というだけで、我々にとっては──希望でもある。……忌々しい話だ」
その希望が、どれだけ制御不能であるか。
ソルヴァンの語調に宿る苛立ちが、それを物語っていた。
ガットは目をつぶったまま、音だけでそれを見ていた。
エノワールが口を開く。
「……“魂の裁定”のためだけに、生かしているわけじゃない、ということですか」
「そうだ」と、ソルヴァンが言い切る前に、天井からリーテが静かに言葉を重ねた。
「でもね、その“悪夢の病”については、公にはしていないわ」
彼女の声は、いつにも増して穏やかで──どこか慈しみに似た響きを持っていた。
「もしも明かせば、獏は──神獣のように神格化されてしまう。救いを求める悪魔で、世界が溢れ返る」
──“神獣のように”
その一言に、ガットはわずかにまぶたを開けた。
彼のコバルトブルーが窓の外を向く。
生い茂る樹冠に邪魔され、届かない陽の光を探すように。
「……それに。悪夢を食べ過ぎれば、山本凌自身の身体も蝕まれる」
その名が出た瞬間、空気がわずかに震えたような気がした。
けれどリーテは気にせず続けた。
「彼にとっても、それは良くない。お互いのために──黙っているのよ」
エノワールは視線を蝙蝠へと向けた。
薄暗い天井の片隅で、眠っているようにぶら下がる小さな影に。
「……だから、彼には知らせていない。彼がその事実を知れば、槍以上に、裁判所が制御できないものになる」
言葉の裏にあるのは、恐れだったのか。
それとも、哀しみだったのか。
リーテの声に込められた微かな揺れが、誰にも拾われることなく空気に消えていく。
その沈黙を破るように、ソルヴァンが言った。
「奴が面倒な理由は他にもある」
「まだあるんですか?」
エノワールが、少し呆れ混じりに訊ねた。
その言葉の調子には、軽い皮肉ではなく、もはや“諦念”すら滲んでいた。
ソルヴァンは資料をめくる手を止めない。
流れるように内容を確認し、サインを書き込みながら答える。
「奴が妖怪種というのも、非常にめんどくさい」
その言葉に、誰かが息を呑むような気配を見せた。
妖怪──それは、星層の中でもとりわけ“規格外”の種族だった。
存在定義が曖昧で、形態も生態も千差万別。
中には物質の集合として存在する者もいれば、“概念”に近い性質を持つ者さえいる。
肉体が本体とは限らず、見えている姿がすべてだと考えること自体が、すでに通用しない。
けれど、だからこそ──
妖怪は、同種の存在に対して、異様なまでの連帯と執着を示すことがある。
特に、迫害される種族であればあるほど、その傾向は顕著だった。
「“女郎蜘蛛”……鬼灯通りを隔絶させ、妖怪という種の存続だけに重きを置いている女だ」
ソルヴァンの口調は、どこか面倒そうだったが、同時にほんのわずか、警戒心を滲ませていた。
「名前も、どんな姿かも、知られていない。ゼノラ層には店を構えているというが、“客を選ぶ”。接触できる方が、むしろ稀だ」
“選ばれなければ、見えない”。
それは、女郎蜘蛛の正体を語る者たちの間で、まことしやかに囁かれてきた噂だった。
「獏はとりわけ、この女郎蜘蛛に気に入られている」
その一言が、ただの事実であるはずなのに、なぜか場の空気をまた一段、冷やしていく。
「リーテの蝙蝠とは違って、この女の蜘蛛は──音も視覚も、遠くの個体と本体で共有できるらしい。……あるいは、その蜘蛛自身が“奴本体”なのか、それすら不明だ」
「……」
「獏の情報網は、この女とほぼ同じと捉えた方がいい」
そう言いながら、ソルヴァンは窓の方へと一瞬だけ視線を移す。
それを追って、エノワールも無意識に、視線をそちらへ向けた。
装飾のない金属の枠。磨かれたガラス。
──けれどその隙間、わずかな縁の部分に、自分でも気づかぬまま目を留める。
……そういえば。
裁判所関係の建物には、どこも当たり前のように蜘蛛よけの毒ウフ薬が塗られている。
扉の蝶番、窓枠の隙間、空調の吸気口、果ては書類保管室の棚の裏にまで。
見慣れすぎていたが、それは虫の侵入防止などという表向きの理由ではなく──
この“女”の蜘蛛を拒むためのものだった。
気づいてしまうと、部屋の空気が少しだけ重たくなったように思えた。
エノワールはそっと口を開いた。
「…それで、彼は実質、イデラに幽閉されるような形をとっていると?」
数ある層の中でも、人類の層──イデラはとりわけ“閉じられた”世界だ。
情報の遮断、出入りの監視。
あの層は、もはや一つの檻のようなものだった。
「悪魔たちが過剰に獏に接触しないように。地球一つが、奴を囲う“檻”だ」
そう、呟くようにソルヴァンは答えた。
「そういうことだ。悟られるな。だが泳がせろ。もし、歯を剥いたら──」
そこで言葉を切ると、彼はゆっくりと、目を閉じた。
「……奴の体が、イデラという檻から、“本当の檻”へ移るだけだ」
その声には、感情の起伏がなかった。
あまりに滑らかで、あまりに冷酷な、“未来の可能性”だった。
話の切れ目を待っていたように、返事もせず、ガットは腰を浮かせた。
ガットの足音はなかった。
ただ、椅子の背に残されたわずかな熱だけが、彼がそこにいた唯一の証だった。
エノワールが声をかける暇もなく、彼は音もなく部屋を出ていく。
「……で、あの天使の素行については」
完全に姿を消したのを見てから、ソルヴァンは目の前の巨体を見上げた。
エノワールは肩をすくめるようにして、小さく笑う。
「いつも通りですよ。淡々と」
「…ふん。それならいい」
興味を失ったように、ソルヴァンは他の資料へ目線を投げた。
エノワールは、静かにそんな上司を見つめる。
ふたりの一連のやり取りだけでも、やや胸に錘を落とされた気持ちになる。
彼が悪魔の裁判所の手足になって、およそ四十年。
それは長寿の悪魔や天使にとっても、それなりに長い年月だった。
だから、思わず、エノワールは口を開いた。
低く、少し重たい声だった。
「……刑期については、やっぱり伝えないんですか?」
「奴は、“秩序”に忠実な駒であって、意志を持つ道具ではない」
きっぱりと。
揺れない声色で切り返すソルヴァンに、エノワールは目を細め、言葉を飲んだ。
「……でも、あなたはそれをずっと疑っている。違う?」
リーテの声が落ちた。
ソルヴァンは答えない。
ただ、小さく笑った。
「裏切るなら、それもいい」
たった一言に、また、エノワールの胸に、錘が落ちる。
ソルヴァンの顔は、冷ややかでも誇らしげでもなかった。
ただ一つ、“裏切りの結末を見てみたかった”と言っているようだった。
「……やっぱり、試してるのね。だからあえて、今まで黙っていた獏の情報を話した」
「……獏を利用すれば裁判所に楯突ける可能性を、わざと示唆したということですか?」
「信じていないわけではない。だが、信じて使うほどの愚かさも、私は持ち合わせていない」
沈黙。
眼差しの熱を変えないまま、報告書だけを見つめるソルヴァンの目。
それを見下ろしながら、エノワールはわずかに眉を寄せた。
“忠実な駒”に、あんな目をさせておいて、どの口が言う──
……ソルヴァンは滅多にガットを直視しない。
だからこそ知らないのだ。
任務の合間、ふとした瞬間の彼の横顔を、何度も私は見てきた。
ガットのコバルトブルーは常に、目の前を見ていない。
まるで、誰にも届かない何かを見ているような、時間が止まったような色だ。
……もっと、他人を見るべきだわ。
紙面にしか目線をやらないソルヴァンは気が付かない。
そして、音しか拾えないリーテもまた、ふたりの上司の板挟みとなった男の心の機微に、気付くことはなかった。
ソルヴァンは、小さく紙を弾く。
「アツキを捕らえてから行動が如実になった。これは獏自身の“撒き餌”とも捉えられる」
「それは、獏が狩られるのを待っている、と?」
「……いや、あれは“引きずり込むつもり”だ。何かを──深い、闇へと」
「何か…?」
「もしそれがあの天使なら、面白いことになる」
冷たい言葉の余韻の中で、エノワールはただ静かに目を伏せた。
すでにここから姿を消した背中を思いやるように。
女郎蜘蛛と同じ目線を持つというのなら、獏がガットを天使だと知っている可能性は高い。
ガット・ビターはほとんど他者へ姿を見せなくとも、「自分は天使だ」ということは隠さない。
もし、獏が本気で裁判所への謀反を考えるなら……その情報を使わないはずがない。
「…ふん。あの天使を試すには、ちょうどいい」
──恐ろしい。
目の前の男は、二重どころか幾重にも罠を張り巡らせている。
獏に対する囮。そしてその獏を、自らの手足である天使の彼へ差し向けている。
……けれど私は、今日も“命令”に従う。
自分の判断ではなく、彼の思惑に添うように。
何が「慈悲」で、何が「秩序」で、何が「悪魔の誇り」なのか。
神獣の教えなど、ここにはもうないとさえ思うのに。
…彼らの知らない朝を、蝙蝠だけが聴いていた。
僅かに開けてあった窓から、それはするりと抜けて空へ飛んでいった。




